黄金の瞳 10
陽がかたむきだした。夏のあまりにも長かった日が終わる。
谷の底をはうように進むカナンの足元は闇に閉ざされ始めている。カナンは両手を胸の前に組み、小さく誰かの名を呼んだ。それだけでよかったのだろう。そこには青白い炎が生まれていた。消えることのない炎、旅の終盤この火には何度も世話になった。しかし、いつの間にこんな事ができるようになったのだろうか、カナンは。
おれの知らないあいだにカナンは成長をとげていた。
徐々に体力が落ちていったおれとは逆に……。
小島を後にし、旧街道に戻ったおれたちはただビルカを目指して歩いていた。
初夏へと季節は移ったが、山地をたどりはじめたせいで夜は膚寒く、焚火は今だかかせないものだ。
突然、傍らで眠っていたカナンがうなされはじめた。カナンは額に汗を浮かばせながら、意味のない言葉を口走る。いきなりゆすると逆効果だ。階段から後ろ向きで突き落とされるような恐怖を感じるものだから。一瞬迷ってから、そっとカナンの肩をゆすった。
「カナン……」
カナンの目が薄くあいた。そして、瞳だけせわしなく周囲を見渡してから、大きく息を吐いた。動悸が収まらないのか、胸に手をおきながらゆっくりと起き上がると、何度も大きく深呼吸した。
「トールはまだ起きていたの?」
額の汗をぬぐいながら、責めるような口調でおれを問いただした。おれはまるでいたずらをみつけられた子供のように、うろたえた。
「いや、火が燃えているか気にかかって、ついさっき起きたばかりだ」
「うそ、どこにも眠っていた跡なんかないじゃない」
カナンはおれの嘘をたちどころに見抜き、語気をあらげた。
「島を出てからろくに眠りもしないし、食事もしない。トールは自分の顔が見えないからことの重大さに気付かないのよ。ひどくやつれた顔になってしまった、痩せた」
カナンはおれの落ちくぼみかけた頬をいたわるようにふれた。その指をそっとはずし、おれは薄く笑った。
「おまえは太ったな」
「茶化さないで、まじめな話しなんだから。ビルカで別れてもトールの旅はまだ終わらない。岩谷の王国にたどり着く前に倒れてしまうわ」
「それでもいいさ。お前さえビルカに無事送り届けられたら」
本心だった。昨今はビルカから先のことなど考えることがなくなっていたのだ。カナンを見守ることだけに専念しようと。
「そんなこと言わないで、本当になっちゃう!」
カナンははっと両手で口を覆った。見る間にカナンは青ざめた。
「なにが本当になるというんだ。さっきうなされていた夢と関係があることなのか? うなされるほどひどい夢なのか」
カナンの態度が気にかかり、おれはカナンに尋ねた。カナンは瞳をそらし、答えなかった。ただ、指先が震えているのが分かった。
「焚火が心配で眠れないなら、消えない火をだす。そうしたらトールはもう朝まで眠れるね?」
カナンは強引に話題を変えると、おれに背を向けた。ふた言み言、なにかつぶやき次に振り返ったときには、カナンの差し出した手のうえには、青い炎が生まれていた。それを焚火に慎重に移すとカナンはおれを見た。
「朝まで消えないから安心して、眠って」
そう言うとカナンはおれの額に手をかざした。視界が暗転した。あらがうまもなく、夢のない深い眠りにおれは落ちていった。
岩谷の王国が、住みよいところだったらいいね、とカナンが言った。
昨夜のことはおくびにも出さずに、カナンはつとめて明るく……。
「砂漠を越えて来た者は、それだけで歓待をうけるってカシャスも話していた。無事に砂漠を渡ったというのは、彼らの神の加護をうけた証なんだって」
カナンは朝から休みなく歩くことに不満をもらすことはなかった。以前ならとうの昔に拗ねるか、疲れて口もきけないほどだったのに。今では休もうというときでも、それはむしろおれの体を気遣ってのことのようにうけとれた。
カナンに眠っていないことを咎められたのはゆうべが初めてではなかった。しかし、本当に眠れない。一晩中焚火の炎をながめながらタティアのことを考えている。ときおり霞む金色の右目をだましだまし……。
「どんなところか楽しみだね」
答えないおれにことさら明るくカナンが続けた。
「ああ。おまえももうじき仲間と会える」
おれの言葉にカナンはどこか寂しげな顔をした。そして一拍おいてから、頷く。
湖から街道に戻ったおれたちの会話はこんな風にあたりさわりのないことや、明るいはずの未来についての話題だ。
カナンは夜ごと夢にうなされている。どんな夢を見ているのか、おれには絶対に話さない。泣きながら目を覚ますことさえあるというのに。重大な何かを隠しているように見受けられるのだが、おれに打ち明けることはしなかった。
こうしているのもあとわずかだろう。わずかに残っている石畳の街道を北へ目指している。かなり飛ばして来たのだから、ほんの二・三日で着けるだろう。
岩谷の王国か…。無事に砂漠さえ越えられれば、か。では、偵察を命じられた人々も生きているのかも知れない。覇王は何人の偵察を送り込んだのだろう。おれと同じ村の者だけでも五人はいるが。
ふと他の村人を思い返してみた。するとどうだろう、奇妙なことに気がついた。
知っている限りでは、みな凄絶な死を遂げているではないか。
砂漠の果てに偵察に出されて帰らない者、あまたの戦場のうちでも全滅した部隊は数えるほどー東エビュー地方の戦いや山岳地帯での凍死ーだが、おれと同じ村人はそれに含まれているではないか。
そして、残されたおれはルドヴを殺した。
ただの偶然なのか、それともこれが尖耳族の呪いというものなのか。
脳裏をよぎる少女は尖耳族だ。思い出せない彼女は何者なのか。
そんなことを考えていた。それまで沈黙していたカナンが、おれの袖を引いた。
「ここさっきも通った?」
「まさか、道は一本だ。間違うはずはない」
答えながらも不安を覚えた。ここはもう過去の尖耳族の領地だ。なにが起きても不思議ではないのかも知れない。おれは油断なくあたりの様子を伺った。
どの風景も見覚えがなかった。初めて見る景色だ。
「そうだよね……。でも前に見たような気がしたから。夢で見たのかな」
「どんな夢だった?」
カナンはおれの袖を離してうつむいた。そして左手の森の奥を指さした。
「向こうの方からおばさんが薪をかついで降りて来るの。そしてあたしたちのことを見てこう言うの。珍しいこと、今日山に向かう人と会ったのは二度目だ、って。それでトールが慌てて……」
と、カナンが指さした薮をかきわけて薪を背負った初老の女性があらわれた。カナンは、あっと小さく声を上げると、おれの陰に隠れた。まさかこんなところで人に出会うとは考えてもいなかったので二人とも顔を隠していなかったのだ。
「珍しいねえ、今日は山に向かう人とあったのは二度目だ」
さもさも驚いたように老女は曲げた腰をのばしながら、おれとカナンを見比べた。浅黒く日にやけた肌に刻まれたしわ。温和な瞳には害意のかけらも見受けられず、だだ珍しげにおれたちを見るだけだ。
「こんな山奥までなにしに来たのかね。この奥にゃ、なんにもない」
「遊行の僧です。修行をしております。われらは、いにしえの聖地を巡り世の戦乱の平定を祈る行を重ねているのです」
とっさに出たでまかせだったが、おれの痩せた姿を苛烈な修行の結果として受け取ったのか、さほど不審な目では見られなかった。しかし、長いこと話していたはぼろが出てしまうのは目に見えている。さっさと話を切りあげて別れるのが得策だろう。
「その子はずいぶん小さな尼さんだね。妹かい?」
老女はおれの背中にしがみついて隠れているカナンに向かってほほ笑んだ。しかし、ますますカナンは後ろに回ろうとする。
「そうです。両親にも死に別れて一人残すのも不憫なのでこうして連れ歩いています。人見知りが激しいので、すぐに隠れてしまうのです。不快に思われるかもしれませんが、ご容赦ください」
そうかい、そうかい、と老女は笑みを崩さずにカナンを見た。
「それよりおひとつ伺ってもよろしいでしょうか、今日お会いになられたのはどんな方でしたか?」
「そうだねぇ、直接話はしなかったけど十人くらいいたかねぇ。頭からすっぽりと布を被っていたよ」
「兵士ではなく?」
「こんな山の中まで軍隊なん来やしないさ」
からからと笑い声をあげて老女は答えた。覇王の軍ではないとすると、もしかすると尖耳族か? 可能性はなきにしもあらずだ。カナンのように仲間とはぐれて小人数で行動している者たちがいたとしても不思議ではない。
そう思い振り返ってカナンを見ると、青ざめた顔でおれを見上げた。そのままゆっくりとひざを折ってしまった。
「カナン、どうした」
カナンは頭を抱えてうずくまり、いまにも泣き出しそうなおももちだ。嬉しくてなのか、どうしてなのか分からない。戸惑っているおれに老女も親切心からなのだろう、こう言った。
「近くにあたしらの村があるけど、一休みしていっちゃあどうかね。妹さんの具合もよくなさそうだし……」
どうやって断ろうか、と迷った。木陰にいればあまり目立たないおれの左右の瞳の色の違いも、光の元では一目瞭然だ。しかし、カナンは確かにあまり思わしくないようだ。
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
カナンがゆっくりと立ち上がり、老女に礼を述べた。その口調はカナンではなく、セルキヤだ。ごく自然な動作でフードをかぶり、おれを目線で促した。
「お心づかい、ありがとうございました。妹も大丈夫なようですし、日のあるうちに少しでも進みたいと思いますので、これで失礼します」
「そうかい、なんだったら帰りでもよっておくれ。遠慮なんかしなくていいからさ」
そうしておれたちは別れた。老女は最後までカナンのことを心配してくれ、もっていた干した果物を分けてくれた。
久し振りのセルキヤになにから話せばいいのかわからずにおれは黙っていた。セルキヤはまだ怒っているのだろうか。
「夢の続きはこうでした」
セルキヤのほうから沈黙をやぶった。セルキヤはおれの方は見ずにまっすぐ正面を見ている。
「老女に出会い、トールは慌てて自分たちは兄妹で遊行の僧侶だとでまかせをいう。そして老女は他に十人ぐらいの人々が山に分け行ったと教えてくれる……」
さっきの出来事そのままではないか。おれは真剣なセルキヤの横顔を見た。セルキヤもその事実にどこか驚きを隠せないようだった。一言一言自分に言い聞かせるような口調だった。そうしてようやくおれの顔をまじまじと見つめた。
「だいぶ痩せてしまいましたね。カナンの視点が増えて見知ってはいましたが、直接見るとやはり嘆かずにはいられない。眠れないのは本能がタティアの強力な呪術から逃れようと、もがいているからなのです。私にもっと力があれば力が使えたら……」
最後はセルキヤというよりも、むしろカナンの口調だった。今はセルキヤではないのか? 今までとはどこか違う。
「現視と過去視は、使い道を誤ることが比較的少ない力ですが、未来視は別です。これのせいで自滅した人は枚挙にいとまがないほど」
「未来視?」
「われらの部族は未来視の力を代々巫女が受け継いできました。巫女は夢やうつつで未来を見ます。カインは今の世界をくまなく見られる現視をもっていましたが、これもカナンが引き継ぎました。まだうまく制御できないので、視点が混乱しているのですが」
つまりカナンは先の出来事を多少は知ることができるということらしい。そして次の薮から棒の質問におれは面食らった。
「トール、もし明日の出来事を知ることができたらどうしますか? あなたやあなたの愛しい者が明日までの命と知ったら? 運命と呼ばれるあらがうことのできない大きな力におし流されてしまうとしたら?」
「どうしますかと聞かれても…うろたえて何も出来ないのがせきの山だ」
セルキヤはその答えに真顔で頷いた。
「人は知らずにいるから生きていけるのでしょう。もし、すべての人の運命を知って知ってしまったなら、よほどの精神力がなければ耐えてはゆけない。しかし、カナンはこの不安定な力と生涯つきあってゆかねばならない」
セルキヤはゆっくりと瞼をとじた。
「でも未来はひとつときまっているわけではないわ。絶対に……」
カナンは震える声で言い切った。なにかを否定するように。その言葉を呪文として自分に力を与えようとするように。
突然冷たい風が吹いた。
それは山頂から吹いてきた。いまだビルカの山肌には雪が残っているのが見える。
あの峰の頂に尖耳族の聖都ウィルカがある。
すべての運命は彼の地に集まりつつある。そんな予感をおれは感じていた。




