死の危機
とある惑星の超大陸にあるとある王国で人類滅亡の危機に瀕する事態が目前にまで差し迫っていた。それは周辺の同盟国のみならず、大陸中の全ての国軍を頼り、総動員しようとも対処しきれない最悪の事態だったのだ。
その最悪の事態はとある生命体の襲来。生命体の姿は冒涜的で目にした者全てが恐慌に陥る程の恐ろしい姿。その生命体はその王国の中心、王都にある大陸最大級の絢爛豪華な大聖堂に覆い被さるように鎮座していた。
その姿を最初に発見したのは大聖堂と同じ敷地内に建つ寂れた修道院に勤める若い修道士。
修道士はその修道院に隣接する修道寮で暮らしていた。彼の日常は日が上る前に起き、身支度を整え、食事の前後で神への感謝を祈り、彼の務めである大聖堂の清掃を行い、貧しき者に恵みを施し、大聖堂で神へ祈りを捧げ、司祭へ報告し、寮に戻り使い古された聖典の写本を読み、修道院の礼拝堂へ祈りを捧げ、食事(祈りつき)をとり、就寝する。そんな神へ祈りを捧げ続ける単調な毎日を送っていた。だが彼は幸せだった。満足していたのだ。
彼には欲というものがない。もちろん、食欲や睡眠欲、知識欲は人並みにある。性欲は、といえば―――まぁこの修道院という禁欲を強いられる施設にいる時点で分かるとは思うが―――必要もなく欲に駆られる事もない、そんな認識を持つ彼には皆無だった。故に彼は齢25にして身体は真っさらだ。
別に恥じる必要もない。彼は修道士。神に使え、忠誠を捧げる者。欲にまみれた世俗から隔てられた世界に生きる者だ。
彼の欲は必要最低限のもので、余計なものは求めない。必要無いからだ。故に彼は無欲なのだ。
そんな彼はいつものように目を覚まし、身支度を整えようと身を起こす。窓を見やる必要もない程に灯りのない真っ暗な部屋。彼はベッドから降り立ち、修道服に着替えようとクローゼットの取っ手に手をかけた。
「…………っ!」
ゾクリ、と彼の背筋が寒くなるような悪寒が走る。身震いした彼は怯えたように周囲を見渡したが何もない。彼以外誰も居ない。彼の部屋はいつもの殺風景な部屋のままだった。
普通の者ならば何かの気のせいだと思い直すかもしれない。いや、実際その通りだろう。何か音がした訳でも、何かの気配もない。いつもの寂れガタがきた古い修道寮のままだ。
この修道寮には彼を含めて5人しか居ない。教会に勤める多くの修道士や聖騎士らは昨年新しく建設された豪華な修道寮に移っていってしまった。彼の同僚も喜び勇んでいの一番に移り住んでしまった。そんな彼らは職場で顔を会わせる度に口々に訊ねる。異口同音の彼らの言葉はこうだ。
「なぜいつまでもあんなボロ屋で暮らす? 新築の寮の方が豊かになった気分になれるぞ」
彼はその言葉を聴かされる度にうんざりする。
彼らは一体ここを何処だと思っているのか。ここはホテルではない。遊戯施設ではない。ここは修道院。労働を尊び、清貧を重んじ、神へ祈りを捧げる神徒の為の神聖な施設。快適さを求める場では決してない。
彼には欲がない。しかし不満があった。
その不満は欲から来るものではない。純粋な疑問と当惑から来るものだった。
彼がいた修道院のみならず、全ての修道院では『清貧』『貞潔』『従順』『恵みの分配』を重んじる。これらは神への忠誠を何よりも優先していく上で必要な要素だとされている。彼もまた、その教えに則り毎日を過ごしている。質素な食事に質素なベッド。毎日が単調で質素な暮らしの中、貧しき者に無償で恵みを施す。そんな生活であったが、その中で彼は満たされるような豊かさを感じていた。物欲に支配されない、解放された人本来の豊かさを。
だがそんな彼と真逆を行く存在がいた。
清貧? 貞潔? 従順? クソ食らえ。俺たちは欲望のままに生きる。諫言の言葉なぞ何も心に響くものか。俺たちのやることにケチをつけようものなら容赦はしない。なんたって俺たちには権力がある。人の命など生かすも殺すも自由自在。死にたくなければ俺たちに傅け。でなければ口をつぐみ、目を閉じ、耳を塞いでいろ。俺たちの天下は揺るがない。何人も邪魔することはできない――。
そう声高に叫ばずとも、黙っていても伝わるような態度で主張していた。誰の目でも明らかな横暴さがあった。
彼らが盗賊あるいは破落戸、汚職を働く貴族だったら良かっただろう。いずれ神の代行として人の上に立つ者たちによる裁きが下されるからだ。
だがそうではなかった。その横暴を働く彼らは汚職を働く貴族よりも性質が悪い。悲しいかな、それはこの国を統べる国王すら傅く存在、教会を統べ、支える、教皇を筆頭とする教会上層部たちだ。
教皇と取り巻きの枢機卿、そして彼らと繋がりのある各地方教会を任された司祭たち。これらが神の威光を穢す悪の軍団だ。
彼らは同じ神に祈りを捧げる者でありながら、神に魅せられ神に傅くのではなく、神の力――神の奇跡や神通力の類いではなく、神の名を借りた不届きな行い――に魅せられ、弱者である市民らに神の力を得た己を傅かせることに熱中している。
教皇ら上層部らは王権の保護の下、大陸中の修道教会に命じ、原野・森林を開拓させた。とある貴族領で発明された農業技術を率先し開発し、それぞれの教会の領地に導入、利益を金銭として献上させ己の懐を肥やしたのだ。
だが、この農業技術が教会周辺に住まう貧しい農民に行き渡るならばいい。私腹を肥やすのは問題だが、貧しい農民が助かるのであれば、まだ黙殺できた。だがそうではない。彼らの欲は醜悪だった。
開発した農業技術のノウハウはその一切を独占し、貧しい農民に無償で教えることはなかった。
教会の領地にある全ての農地は裕福な地元の豪族や貴族に貸し出し、高い借地料をとるばかりか農業技術料をせしめ、水車などで得られた製粉権の収入やその余剰分を市場に売り出し、余った資金で貸金業を行うなど、本来の『清貧』とは明らかに程遠い強欲商法と化していた。これら地方教会の裕福化は教会本部内にいる親玉たちの尊大なる肥大化に繋がっていた。
勿論、この事態に異を唱えた者たちはいた。先代の国王やここの教会本部と双璧をなしていた教皇領庁の総責任者である長官とその側近たちだ。互いに相争い、ついに神の裁きが悪に裁かれんと思われた。だが、度しがたい程に醜悪な彼らはよりにもよって聖域たる大聖堂にてこの正義の者たちを殺害したのだ。
もはや神に仕える清純なる神徒は死に至った。これからは神の名を謀った悪逆の時代が到来したのだと宣言したも同じだった。
故に彼らを止める者は居ない。彼らに与し不純を働く不届き者、私利私欲にまみれた、醜悪なる悪徒。拝金主義、成金趣味に飽きたらず、神の名の下に婦女暴行を働き、人殺しさえ厭わない。その愚行を犯す聖騎士や修道士らが大挙してあの腐敗した金で建てた新築に移り住んで行った。
彼らに対しては酷く反吐がでる。神の家に巣くうウジ虫どもだ。
だからだろう、彼と心を同じくする者たちの秘密の儀式を看過していた。
彼らは彼と同じ古く草臥れた修道寮に暮らす他5人のうちの3人だった。彼らもまた今の教会に不満を持っていた。だが彼と同様に是正するだけの権力も武力も持ち合わせて居ない。あるのは神への信仰心だけだった。だが3人はどういう訳か、何処からか秘術を持ち出したのだ。
その秘術は禁忌とされた、神への直訴術。神へ直接願いを届ける魔術だ。
彼らは就寝前に寂れた修道院の礼拝堂で毎晩執り行っていた。儀式の詳しい中身は判らない。何か儀式めいたものを執り行っているというのは知っていたが、何をしているかは知らなかったからだ。
彼らは彼と心を同じくする者。教皇らのような不届きで不信心な行いはしないと信じていたからだ。否、本当は彼らと同じ心持ちだったのだろう。だから薄々判っていたが敢えて放置したのだ。
実際彼らも不信心な行いはしなかった。だが儀式ではある願いを仔羊の血肉と共に捧げていたのだ。
「醜悪なる者に破滅を。破壊を。滅亡を!」
そして現れた。彼ら3人の願いを叶えるべく、醜悪なる神徒が裁きを下すべく顕現したのだ。
「……な、何だ。あれは……?」
初めて目にした時、不思議と恐ろしさを感じなかった。身近に醜悪な者たちが居たからだろう、外見だけの醜悪さなど差ほど動じるでもなかった。だが、それは初めの一度きりであり、二度目はそうはいかなかった。
得体の知れない悪寒の後、祈るのを忘れ、大聖堂の方へと見に行った。毎日行ってきた日々の習慣、身体に染み付いたいつもの手順をすっ飛ばしての行動は彼自身驚きの行動だった。
なぜそうしたのか。今でも分からない。当時はそうすべく身体が勝手に動いたとしか言いようがなかった。
そしてついに見つけた。この世の醜く穢れた欲望が貌となって顕れたとしか言いようがない冒涜さ。その異形の生命体が血塗られた大聖堂に鎮座する姿は言外に「私がこの聖堂の主だ」と言っているようであり、一連の事情を知る者からすれば酷く似合ってすらいた。
この日を境に教会には混乱と混迷がもたらされた。
最大の稼ぎ頭である観光地の大聖堂が異形の者に占有されたとあっては、己の財布が一大事と、娼館で遊び惚けていた枢機卿らは慌てて聖騎士団を召集、排除するよう命じた。
聖騎士といっても彼らは所詮破落戸、酒臭さを漂わせる彼らが太刀打ち出来るのかと思っていたが、腐っても聖騎士、善戦しているように思えた。
だがあの、無抵抗の生命体をタコ殴りにする姿を善戦していると言えるのならば、だが。日頃の不摂生か、短時間のうちに騎士団団員が揃って疲弊したところで生命体は動き出した。巌のようにじっと動かずにいたそれは無数の触手を伸ばし、目にも留まらぬ早さでその場にいた者全ての首を跳ね、鎧ごと微塵切りにして見せた。
文字通り血塗られた大聖堂に居座る生命体は、恐怖に戦く枢機卿に生首を届け、血塗られた触手で執務室の壁に「全ての者に破滅を。破壊を。滅亡を」とラブレターを送った。
以降、この国から脱出を試みた者たちが大勢現れた。だがその全てが何処からともなく現れた触手によって悉く殺され、国境に死体が象徴的にうず高く積まれて死臭を放っていた。
この国だけではない。各国に散らばる全ての地方教会が生命体の手に落ちた。各国の軍が対処しようとも火に油を注ぐだけ。盛大な血祭りが大陸中で催されたのだ。
しかし殺されない者も多くいた。触手は何故か悪人のみを殺して回っていたのだ。そしていつしか善良な者たちの間で、異形の生命体が神の鉄槌者なのだと噂されて行った。
当初密かに歓迎されていた生命体だが、半年を過ぎ、殺し尽くしたところで、新たなラブレターを大聖堂の壁に塗りたくる。
「人は悪。無限に湧き続ける悪。ならば人々に死の救済をもって星に還そう」
つまり人類の滅亡を声高に宣言したのだ。
人々はそれを聞き抵抗することもなかった。しても無意味だとこの半年で嫌に成る程見せつけられたのだ。
『嗚呼、神よどうかこの身を赦したまえ……』
人々は絶望しながらも、希望にすがるように廃墟と化した教会に信仰を捧げた。神の怒りを鎮めて貰う為だ。
ことここに至って神への信仰心が回復したのは皮肉なことだ。
彼はこの半年静観を決め込んでいた。悪が滅するのはいい。だが彼とて恵みを施す立場の者。助けをこう善良な民を救わない訳がない。このままではいけないと奔走した。
だが無意味だった。あの生命体をどうにかしないと救いはない。生きることは出来ない。
時をかけゆっくりと人々は土に還された。そして遂には彼の元に順番が回ってくる。死が間近に差し迫っていた。
彼は無欲な男だ。だからこそ、神に命を召されていても構わないと思っていた。
『司祭さま、おはようございます!』
「おはようございます。今日も皆さんはお元気ですね」
修道院寮から姿を現した子どもたちが屈託のない眩しい笑顔を彼に向ける。彼はそんな子どもたちに笑顔を返す。今日までの朝の習慣だ。
だがそういう訳にはいかなかった。いつしか彼は司祭にまでなり、親の居ない孤児や老人、非力な婦人らを修道院で匿い養っていたのだ。彼が死ねば彼を頼って修道院に逃げ込み匿われた者たちが死ぬ。それが我慢ならなかった。
「……生きたい。いや生きていかなければ」
そして彼は初めて強い欲を得た。私利私欲ではない。人々に尽くす為の生への渇望だ。
彼はその善行と信仰心でもって生命体から死の猶予期間をもらっていたが、その生の期限は明日に迫っていた。
彼はいつものように礼拝堂に残って祈りを捧げる。それが無意味だと分かっていても、だ。この世に神など居ない。あの生命体を呼び出した3人は一番最初の犠牲者だった。信仰心の厚い彼らが凄惨な死を遂げるなどと誰が考えつくものか。
あれは神などではない。神の鉄槌者などでもない。あれは禍事をもたらす邪悪なる存在。そのことにたどり着いたのは、彼が静観を決め込んでいた半年間の調査を経てからだった。
ようやく真実にたどり着いた時には既に遅く、人類の滅亡が差し迫っていた。
彼は神に祈る。「どうかあまねく人々に救いの光を」
翌日。彼は修道士時代から続ける習慣通り、彼にとって最後の一日を過ごそうとした。普段通り執務を終え、匿った者たちに恵みを施し、礼拝堂に一人残って祈りを捧げていた。
彼の下で働く修道士たちには今後の事を言い含めてある。どれも信頼できる者たちで、教会の財産を善行に使ってくれるだろうと確信していた。
彼は身辺整理を済ませ、夜遅くまで礼拝堂で祈りを捧げていた。日付を跨げば死が間違いなく訪れるだろう。彼は神への祈りの中で願う。
「私はどうなっても構わない。だがこの世に生きる者たちをどうか救って欲しい」
居もしない神への直訴は届く筈もなかったが。
「ほう。どうなっても構わない、か。その言葉、偽りないか」
彼以外一人として居る筈もない礼拝堂に若い男の声が響く。
彼は男の声に驚き、勢いよく声がした方へと振り返る。礼拝堂の長椅子に脚を組む男が一人、笑みを浮かべて司祭を眺めていた。
「あ、貴方は……?」
「ん、私か? 私は神だ」
事も無げに、自身を神と宣う若い男。普通なら切って捨てる程の戯れ言だが、司祭にはどうにもそうとは思えなかった。
若い男はそれに気づいたのか「フフフ、信じられないか?」
「い、いえ。恐らく貴方は神なのでしょう」
「ほう、何故そう思う」
自称神の若い男はどこか楽しそうに司祭に尋ねる。司祭は呼吸を整え、若い男の瞳を真っ直ぐ見て答える。
「貴方からは尋常ならざる気配を感じます。人智を超えた存在感。私は数度似た者を見ています。あの生命体とは全くの対極に居ますが、貴方もまた同じ存在なのでしょう」
「フフフ、いい線を行っているぞ司祭。だがあれと同じとは戴けないな」
「申し訳ありません」
「よいよい」
自称神は機嫌を良くしたのか鼻歌を歌い始めた。司祭の知らないメロディーだ。
「それで、だ」自称神は司祭に切り出す。「お前を犠牲にする代わりにこの世に生きる者全てを救って欲しい、だったか?」
「はい」司祭は頷く。
「面白い。お前のようなものはたまにしか居ないからな。この仕事を引き受けてよかった」
自称神は嬉しそうに言う。だが司祭は彼の言葉に引っ掛かるものがあった。
「仕事を引き受けた、とは?」
「ん? ああ、それか。特別に教えてやろう」
自称神は神の世界について語った。彼の居る神の世界では幾千の人の世界を管理し、時には介入する制度が存在するという。彼はその中でもフリーランスの武神で、自身の所有する人の世界の他に、神々からなる神盟協会という組織からの依頼により問題を抱えた世界へ赴くという。
「この世界を所有していた神は悪事を犯して討伐されてな。神罰で暫し再誕の猶予期間が延びていたところに禍人が沸いたって皆忌み嫌って誰も手を出そうとしなかった」
「そんなことが。しかしなぜ貴方が?」
「協会が解決した者にこの世界をくれてやると宣言したから名乗りを挙げたのさ。どうにでもしてよい、とも。私にとっては都合のいい話だ」
神々からも見捨てられたらしい。この自称神が名乗りを上げなげればどうなっていたか。否、彼の願いを聞き入れてくれなければどうなっていただろうか。それについて尋ねると、
「この世界は度しがたい程醜い。一旦滅ぼして綺麗にしてやろうかと思っていたぞ。お前がいなければ今頃更地よ」
どうやら彼の願いはとんでもない窮地を回避していたらしい。ことここに来て鳥肌たつ思いだ。
「さて司祭よ、あれのところまで案内してくれ」
「案内するのは一向に構いませんが、私の命は風前の灯火。他の者に……」
「フッ。そんなことか。それならば私が守る。お前の命は私のものだがらな」
「であれば明日朝方にでも」
「フム、そうだな。では明日の朝方にここで待っているぞ」
自称神の男はそう言い光の粒子となって消え失せた。分かってはいたが超常の存在だったか。今となって再認識させられる。
「……助かった、と言って差し支えないのでしょうか」
彼は再び祭壇に祈り直しながら独り呟く。この思いがけない転機を迎え、運命の日を迎えた。