表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

金曜日の蜜の部屋

 結婚は人生の墓場とはよく言ったものだ。信仰に基づくものは、生理的なものの数段汚らわしい。土葬された私はこのまま腐葉土の中で生ぬるく腐るのだろう。婚姻の契約と書いて結婚。その鎖は太く頑丈で私をここに縛り付ける。腕は筋肉が削げ落ちてぶよぶよの脂肪に覆われている。動けるだけの力もない醜い私を、ちょうど、あの、何と言ったか。肉。にくだ。蒸した肉の名前が出ない。あれ、あの丸い肉のように縛られ、転がっているしかできない無様な生き物がこの私だ。

押しに弱いのは私の汚点だ。良く言えば人形のような奴だった。思えば私は人が言うままに生きてきたような気がする。その汚点が私を生きながらにして殺すように仕向けた。私はここに至ってもまだ生きているのだろうか。人間として生きていると胸を張っても良いのだろうか。それは少し度が過ぎた心だろう。

 餌を与えられ、下の世話を受け、言葉もまともに交わさない。もう、今が朝なのか夜なのかもわからない。起きたいときに起き、寝りたければ眠る。食べたければ食べ、出したければ出す。恥じる感覚は手の届かない所に行ってしまった。閉ざされた部屋で何年、何十年、何百年もこうしている。確かめようがない。日と年はどちらが大きな単位だっただろうか。わからない。わからないことばかり増える。生きながら、人の私は死んでいく。

 私は玩具。あの男の所有物。毎日それだけは忘れないように言い聞かせられてきた。私はドールと呼ばれているがそれは名前では無かった。そう信じたいと祈る日々が何秒も経つ。日に日に言葉が手のひらから零れ落ちていく。使わない知識が消えていく。記憶よ、この感情ごと連れ去っておくれ。遠い、あの海の向こうにはきっとある。妄想でないはずだ。この思い出の残りかすだけは、いつまでも覚えていよう。私の日ののぼる国。

「あれえ、おねんねですか。おきてくだちゃいねえ。ご主人のお帰りでちゅよお」

 私は情けない笑顔を浮かべる。自然と歓びが全身を巡る。私の唯一、関われる人間は彼だけなのだ。彼を失えば私は世界をも手放してしまうようで恐ろしい。彼も私と同じ国から来た。私と同じ肌の色をしている。同じ言葉を話す。これらの素材は同じでも質が違う。私よりも美しい。背は高く、顔の造形も良く、快い。綺麗な器の内側には何かとても良質で恐ろしく素晴らしいものが詰め込まれている。

「よしよし。ちゃあんとお留守番できまちたねえ」

 良い子でいた場合には暖かな手のひらは頭へ、悪い子でいた場合には私を嬲る道具を持つ。圧倒的で美しいと言っていい鮮やかな支配の手管だ。飴と鞭は飼い慣らすにはとても効率が良い。次第に考える喜びが薄れ、従う心地よさに置き換わる。

「今日はやけに愚鈍だね。ああ。醜い醜い。はやくぼくのところにきなさい。すぐ!」

 私は飛び上がり、腕を懸命に動かす。マットレスから慌てて降りたため、顎を床にぶつける。構わない。この何千倍の痛みを彼は与えることができる。それもご主人様の気まぐれな指導基準によるものなのだ。

「そうそう。せいぜい甘やかしたくなるようなそぶりをしなさい。それだけが君の価値なのだから」

悔しさが吹き抜けて、虚ろな気持ちでご主人様の膝へ縋る。舌も声帯もないから安易に媚びることができない。身体で表すのはとても疲れる。

「そう。おまえはいい子だ、実にいい子だ。あはあは。ずっと欲しかったぼくの、ぼくのドール! さあ、だっこしてあげましょうねえ。かわいい、ああかわいいでちゅねえ」

 肥えても足が無い分、私は軽やかに抱き上げられる。安定が悪いので思い切り抱きついていなければならないのが辛い。ここで私はある衝動に駆りたてられた。静まり返った劇場で、わあっと叫びたくなるような、想像を飛び越えてしまうと取り返しのつかないことだ。目の前にあったのはボールペンだ。ご主人様の胸ポケットのこれが私の喉を貫けば、きっと明日も明後日も来ない。そうら、腕を伸ばして、捕まえた。私は自分の喉へ、ペンを突き立てた。しかし、首の肉に弾かれてそれきりだった。ペンは剣よりも攻撃力が弱い。少しだけ血が垂れた。残念なことにまだ私は見苦しく生きてい

る。

「……何て馬鹿でぐずなのこの子は」

 ご主人様を怒らせてしまった。ご主人様は私を投げるようにベッドへ寝かせた。乱暴に私のペンをもぎ取り、壁に投げつける。皮のベルトが手首に巻かれた。ご主人様は部屋から出ていき、すぐに戻ってきた。救急セットを携えていた。それらには拷問器具が御供していた。この救急セットは、首の傷には使われない。これから出来る傷に使われる。

 悪趣味な知識が増えるのはいつもこういうときだった。この器具はどう使われるのだろう。腕を縛るような所がある。そういえば、この前の「苦悩の梨」あれは痛かった。性器と、肛門に鉄製の器具をねじ込んで広げるのだからそれは途方もない苦痛だった。今から使われるこの道具のお名前は何と言うのだろうか。要らない知識ばかり増える。

「あたしが、かわいいかわいいとしてあげているのになに? この恩知らず。何なのこの子は。いけない子。せっかんをしなくてはね。さて、お人形さん。ここで問題です。ヤクザが薬指を切る理由は、なーんだ。足りない脳みそでようく考えなさいな」

 右左と、無くすのはあっと言う間だった。私の婚約指輪が、よりべを無くして寂しい音をたてた。

「いっそヘソか耳にくくりつけちゃおうかしら。ちょうどピアスの要領で。それとも体に埋め込むのも良いかも知れないわね。あなたはどう思って?」

 わたしはわからない。馬鹿だから。この人が頭が良すぎるから。ばかにはわからない。わたし、馬鹿だから。ねえ。先生。教えてよ。


*       *       *


 針金のような人だと思った。銀縁のやぼったい眼鏡も神経質そうな指も、ちょっと力を入れれば曲がってしまうような感じがした。講義中、にぎやかでも先生は注意しなかった。時々は眉根を寄せてこちらを見るものの、さっと青ざめてホワイトボードに向かうのだ。学歴こそ良いものの、授業は上手くないし、人当たりも良くないときて、ここの学校の客員教授をしているのだろう。本来なら中々お目にもかかれないエリート教授殿である。何か国語も操り、教養もある。おまけに実家は資産家で時代錯誤なお屋敷とくれば、完璧が服を着て歩いているようなものだ。婚活系女子(と言い張りたい婦人)に黄色い声援を送られることだろう。しかし、性格の面でどうしても頼りなかった。特にコミュニケーション能力値は破壊的だった。翻訳機と辞書が脳内にあっても、それを上手く使えないような人だと思う。いつも何かに怯えたような瞳で、虚空に向かって喋る。申し訳ないような足取りで歩く。エレベーターに乗り損なった。教壇に躓いて転げた。購買でパンを買う。丁度の金額を出そうとして二円足りない。その懸命に生きる姿が愛おしいと思うのに時間はかからなかった。

 私は先生にちょっかいをよくかけるようになった。必修科目でもないのによく学んだ。先生は医学部出だというのは噂で知っていた。一般教養の科目の中で出席が重視されないのはこの先生の講義だけだった。当然不真面目な生徒ばかり集まった。勉学に励むものはいない。その環境で目立つ存在になるのは容易いことだった。私の選択した科目に先生が自慢げに話すだろう質問を予想して、聞きに行く。先生は驚き戸惑いながらも自慢げに私だけに教えてくれた。先生が困りそうな質問を予想して、やはり聞き出しに行く。先生は頭をかきむしったりそわそわ足りなく眼鏡をかけ直す。少し打ち解けてきて独身男性の細やかな悩みを聞いてあげる。「眉毛を整えて、床屋にでも行けばきっとイケてるメンズですよ」と言うとこれがまた顔を赤くしたり白くしたりで面白い。確かに先生は造形のみを見れば良い。だが、それを飾るガワの部分が絶望的ナンセンスによって呪われていた。

「こんないけ好かない中年を捕まえても面白くないだろう」

 すねくれて眉根を寄せる先生は、驚愕的に情けなかった。

先生の異常性に気が付いたのは深い親交に至る前だった。先生は無意識の内に「母」を話題に持ち込んでいた。それは先生の体験話よりも濃密であるように思えた。「母」がと言わなくともその裏に「母」がいることが明らかな話ぶりだった。 マザーコンプレックスという言葉が喉に引っかかった魚の骨のように私に違和感を与えた。先生は私より随分と歳をくっているのに、私よりも幼く見えることがしばしばあった。

 ある日のこと、先生が激怒した。困ったようにおろおろ歩くばかりの中年が突如怒りを露わにしたのだ。私が一言二言私語をしただけであるのに相応しくない怒号が飛んだ。その口調が妙にヒステリックで女性的だと感じたのは私だけでは無かったはずだ。講義室は静まり返った。私はその後一切の私語を慎むことにした。先生が私の一挙手一投足に翻弄されているのかと思えば、私に潜む淫売のような一面が柄にもなく前に前に躍り出てくるようであった。

 数日後には先生は先生でなくなった。先生はボラだった。容易かった。誘うそぶりをしてみせるだけで釣り針にかかったのだ。今時珍しい純な少年性を先生は持っていたのだろう。私は先生の「母」よりも大きな部分を占める「女」となる歓びが下腹の辺りから湧き上がるのを感じた。横で寝息をたてる幼顔を眺めては厭らしい微笑みが浮かんだ。「せんせい」と声をかけると寝ぼけ眼で私をじっと見つめた。私は蛇の狡猾さをもって「ねえ、先生は私のために全て投げ出してくれる?」と囁く。先生は世界一幸せそうな顔で「うん。のんちゃんが欲しいものは全部あげる」と言った。勝ち誇った気分だった。この子犬のような無垢さをいつ踏みにじってやろう、そんなことばかりを考えていつも眠りについた。

 

*       *       *


 先生は私の夫となった。結婚という契約で私は孝彦を更に結びつけてやろうと考えたのだ。妻になる際には「母」よりももっと深く酷く彼の心に食い込むようにと残酷な祈りを捧げた。孝彦は馬車馬のように働いた。この関係をよく思わない常識人もいたけれど私は気にも留めなかった。その常識人が私のお気に入りのロゴマークの鞄を買えるのかを思えば、絶対的な優位にあると見下していることができたのだ。孝彦は浮気を嫌い私をウチへ追い立てようとしたが、あえて私はその意思を軽んじた。彼が私をさらに求めるようになれば良い。そうすることで私は女王様にでもなれるのだ。この世の全てを手に入れた気持ちで――有頂天だった。だから、彼の壮大な計画にも、逸脱した執着にも気づくことが無かった。海外の大学に勤めるという話を孝彦から聞いたとき、私がどんな間抜けな面をしていたかは想像に容易い。二番返事と切符を手に某国へ飛んだ。親類の反対を押し切った結婚を成し遂げていたので何も怖いものは無かった。私には彼が、彼には私があれば良い。字面こそ美しいギブアンドテイクの間柄に疑問を抱かなかった。

 私を待ち受けていたのは甘い地獄だった。彼はふとしたきっかけに母になるのだ。彼を足の下で踏みつけ、自由を与えない。愛情深い彼の母親に。会ったこともないというのに想像は用意だった。彼の表情、罵声、その全てに彼の母親がいた。私がいくら妻らしく振舞おうとも彼がまともになることはなかった。まともであったのは知識や経験で蓄積した外側だけであり、彼の本質は腐敗するほど子供のままであり、母親が絶対の神だったのだ。その神に私のような小娘が逆らうなど許されることではなかったし、わたし自身その神が恐ろしく何もできなかった。彼がわたしを甘やかしおもちゃを買い与える姿、ヒステリックに殴る蹴る閉じ込めるなどする姿を見た。そうして都合よく可愛がられるほど、彼の孤独を私は知る。若い毒婦の私の手に負えない子供の残酷さと母親の狂気を代わる代わるに体感する毎日だった。外側のまともな時間は日増しに少なくなっていった。

 彼の子供のころの趣味は虫や小動物をいいように飼うことであった。それは気分が爽快になる唯一の瞬間だったそうだ。自分だけが餌をやったりできるような所で大事に犬猫を可愛がるのも好きだったと言う。塾の合宿から帰るとその子らは死んでおり、その可愛そうな様を見てようやく自分の存在意義を確認できたらしい。そういった話を、私を殴る蹴るなどしたのち、泣きながら話すのだ。何不自由なく、金に満ちた生活。そして暴力も。うさを晴らしても限界は来る。ここで私は金よりもみえよりも大切なものを知る。あまり良くない学部におり嫉妬で爛れた心など、どうだって良いものだったのだ。あのバッグ、あのレストランも、デパート、コスメティック。何の意味もない。それでも愚かな私は旧友の連絡には最大限の自慢で答え、彼を飾ることはぬからなかった。所詮、私はそういう女なのだ。

 私の妊娠をきっかけにとうとう完全に発狂し独占欲を露わにした。子供ができれば病院で役所で様々な段階を踏む。私は外へ行かなくてはならない。それを主張すれば何か変わるかと思った。確かに状況は変わった。彼は私の口答えを嫌い、舌も声帯も切り取ってしまったのだ。私の要らない一言に悩まされた彼はこれまでの行動がまともに思える、そういう逸脱したことを、ひどく歪な愛情の表現を私に施した。私の足は、もうない。この世のどこにもない。血も肉も庭のすみで、蛆がわいて土に還った。彼の思うままに形を変えられる。思うままに愛される。まるで、まるきりこれではお人形のようだと思った。そして先ほど私は一本のペンをきっかけに腕を無くした。蛇のような心に蛇のような身体はお似合いだろう。脚と同じく腕は土へ還る。私はじきにいなくなる。拷問で弄ばれてぼろぼろになった亡骸もとけて消えて、私は完全に何でもなくなってしまうのだろう。心のないお人形が身体をなくして何ひとつ残せやしない。「ああ」と嘆いて気が付いた。私はただ一つ残したものがある。


*       *       *


「ねえ、おとうさん」

「なんだい」

「あの部屋の中にはなにがあるの?」

「それはね、お父さんの一番大切なものがあるんだよ」

「何なに、おしえてよう」

「だめだめ、宝物はないしょにしておくからいいんだよ」

「おとうさんのいけずー」

 

 壁越しに聞こえる私の子供の声。チューブにつながれた栄養と水と、味のない生活の唯一の恵み、彩り。私にはもう、それしかないから。


*       *       *


【プラグマティズム】

プラグマティズムとは、pragmatisch というドイツ語に由来する実用主義、道具主義、実際主義、行為主義とも訳されることのある考え方。 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ