木曜日が根付くまで
「何だかとても気持ちが悪い事のように思うよ」
一体なんのことだろう。ふと彼女の見ている方に目をやるとそこには、にこにこと微笑む豚印のソーセージの袋があった。またもやハグミは何か考え込んでいる。ハグミはとても変わった女性だ。自分のことを自分と呼び、俺のことはそちらと呼ぶ。背骨の柔らかな、そのようにぬるぬるとした性格をしたいる。だから、突然に先の言葉のようなことを言ってみせても何も驚く必要はない。
「豚さんも、喜んで食べられる方が嬉しいと思うよ。美味しいって思って食べてもらわなければ報われないじゃないのさ」
俺はキャベツと炒めるための豚肉を取った。赤さが美味しさを主張するように見えた。
「じゃあ、そちらはもし宇宙人が攻め入ってきて、ハイ。今から食べますよ。君たちだって美味しく食べられたいでしょうって言ってみても何も不満が無いのかな」
すべりの悪いショッピングカートはすぐに右へ行こうとしたがる。俺はそれを制御しながらハグミに答える。
「そりゃあ、困るよ。俺の知り及ばない宇宙茸や宇宙ウミウシのソースと食べ合わせられたらもう最悪だわ」
「ねえ。やっぱりそうだろう」
ハグミは少し人を見下すように笑う。俺はこの表情が人ではない不思議なもののようでどうしようもなく好きだった。
「でもハグミは肉を」
「食べるよ。だって自分は豚じゃあないし、野菜でもないから」
「でしょうね」
「うん」
ハグミの言い分はわからないでもない。しかし、だから俺がベジタリアンになることもない。それに意味も感じない。今日も俺は何かを食べ、出し、寝て、増えるためのそれをする。粘着質で肩の重い毎日が続くばかりだ。今日はお好み焼きにしよう。
それにしても相も変わらずハグミは人の関心や興味を掘り起し、掻き乱す。ただ買い物をするだけというのに、レジのパートの中年の女性、が、化け物が買い物に来た時のような対応をした。
外はとっぷり日が落ちている。俺は歩いた。猫の死骸が道の脇に行き倒れている。誰もそれを見ようとしない。誰かが片付けるのを待っている。
「そちらは助けないのかい?」
こういうときのハグミは仄暗い紫色の視線を発して俺を見る。
「死んでいると思うからね。もしハグミは猫が死んでいなかったらどうする」
「死んでいるなあと思って行ってしまおうと思うよ」
埃の遊ぶようなハスハスクスクスクスクスクスクスが聞こえた。俺でもハグミでもない。ましてや猫が物言いをしたのでもない。普通は認識しないものを俺は捕える。背中の曲がった千切れ鼠のような老婆がダンボールに挟まれるようにしてゴミ捨て場に立っていた。老婆は、ハグミと俺がぎょっとするのを見るとさらにハスハスクスクスを繰り返した。口の端から乾いたカビの臭いをさせていた。
「……のかいえ?」
老婆の囁きが聞こえないようにハグミを引っ張った。しかし、ハグミはしっかり老婆に向き合って動かなくなっていた。また何か考えている。ろくでもないことを。俺のハグミはいつも考える葦をやりたがる。食えるでもないのに、やたらめったらに思い込む。
「あー、そちらは、自分が、そうあれないのに、そうしていると仰るのか」
「そうだからそんなにも肥え太り飼い慣らされておるのではないのか」
「それはそう」
ハスハスクスクスにハグミのフーフーを重ねて、俺はハグミに何か悪い菌でもうつりそうで気色が悪いと思った。ハグミは突然わあわあと泣きわめき始めた。俺はかわいいやつめと頭をひと撫で、家に帰る。
その晩はハグミの何よあいつで眠ることが難しかった。けれど、ハグミがこんなに膨れ上がって怒っているのも珍しく、俺はなぐさめながらどきどきさせられた。単純な考えは保護欲を沸かせる。ぐらぐら、ぐらぐら、沸騰する。
かわいがるのが楽しすぎて朝が来たのに気が付いたのは味噌汁が煮たってからだった。
「死んだネギー、死んだワカメー、死んだーキャベツー、自分は食べられないー反吐塗れがいーやだーしんだー。死んだーしんだーしんだー。死んだー汁―スゥプー、シンダーしんだーシンダシンダシンダー」
ハグミはにゃあにゃあと機嫌が良いようで虚空を見つめて歌っている。俺はハグミを抱きかかえて鼻の頭にキスをした。と、急に冷めちまったハグミはぐったりと体を預けたままになった。付き合いが長くてもハグミのこころは読めない。
「おえっ、えるるるる」
ハグミが吐いた。いつものことだった。俺の服に吐瀉物が降り注いだ。普段ならおるぇえろおおと吐くハグミだが、今回はごるっけはけはだったので俺はハグミの背中を熱心に叩いた。今朝食べたものを全てもどしてしまったようだった。
「……しばらく休む? それとも何か欲しい」
ハグミは何も言わずソファに身を投げ出した。俺は水を汲んできて傍に置いた。
ハグミは雨の日になると元気がなくなった。ハグミがカワイソウハグミガカワイソウ。ハグミがなぜそうなってしまったのかわからなかったけれど、ハグミは食べられない子になっていた。何も食べず、水だけを頂いて生きている。不思議に不気味なものだった。
ハグミがついに泣き言をもらした。
「怪しいおばさんのこと覚えている?」
「うん。あのゴミ袋みたいなおばさんのことだよね」
「そう。それで、あの例の話なんだけど本当だったみたい」
例の話がまったく見据えられず、わからないが辺りを舞っていた。
「は?」
「わたし、新人類かも」
「グレイ? リトルグレイイエティムゲーレムベンベツチノコの、君は仲間入りをしたみたいだね。UMAだ。USAに連絡しなくちゃ。その前にJAXA?」
「やめて解剖されてハワイの海の藻屑になって人魚になって付近の漁師に恐れられるだろう」
ふざけ合うのはこの日からぐんぐんと減った。本当のことの重さに押しつぶされるふたりぼっちだった。哀れハグミは僕を化け物を見るよう怯えおののき避けるようになっていった。
「もうたえられないこあいこあいこあいほんとうにこあいなにがてきたない暴力が肉が水がこあいのたすけてたすけておねがいわからないからそのままにしないできないさせないのでもそうなってああぶつぶつぶtぶbつぶ」
さわさわ擦れるハグミの呟きは、食事姿を見せているときに限って起こった。どうしたのかを聞いても聞かなくてもハグミは発した。
「お願いがあるんだ。自分の前で食事をしているところを見せないで欲しい。いい? 食べないってことは食べられるってことなんだ。自分は食べない。でもソッチは食べる。つまり自分は君が恐ろしいんだよ、だから嫌いにもなる君とは住む星が違うように体がかわってしまった。ああこわいすべてこわい」
ハグミが異色の思考に侵され密深くなるにつれ、僕は逆に白くなっていた。ハグミによって着せられた感性は足元でぼろぼろになっている。考える草は無意味のあらわれだ。考えるために生きているハグミの皮を剥きとって煮るのに戸惑いはなかった。この頭は生きるために考えていた。炭酸で煮とかしハグミを消費するために精力の限りを注いだ。ああハグミ。きくらげのようなハグミ。口の中のハグミ。ハグミの次で代わりを探すことを考えてしまうくらい衝動が純に落ちてくる。しゃくしゃくこりゅこりゅめりょめりょぶちゃぶちゃ。
ハグミは何も考えていられない。が、幸福とは傍にいることで離別分別ばらばらちりちりのハグミは幸福とは必ずしも言えまい。せめて喜んで食べられる方が嬉しいだろう。というのは言い訳で本当のところ生きるために必要なものがため奪うのだ。ニンゲンは建前看板で武装している。草もトンボもアメンボも生きているから食べる犯し殺し詰んだり詰まれたりをする。自由な戦いから羽ばたくために食べられるなどというのは本末転倒のこと。自らが死んだってないように増え蔓延るガー吉兆と得心のいろはにほへとからゑいもせず。ここが最ものさわりである。この次元にあること。つまり土はかびたパンであって誰でもカビでその意味はそこに放置され手ごろなパンがあったからというので、色や臭いの差が見られるもの、わたし動物ハグミあなたが存在した。
【植物人間】
植物人間 (しょくぶつにんげん) とは、遷延性意識障害患者の俗称。植物状態と表現されることもある。