水曜日と寒中遊泳
好きな人とする買い物は楽しい。買うものを一つ一つ見て吟味するのだって、あれやこれやと目移りする。そしてその時々にいちゃつく機会を窺い合ってみたりする。
「これなんかどうかな。青、好きだよね」
「こっちの方が使いやすいだろ」
智樹の選んだのは、武骨で飾り気がない。こんなの嫌だなって思った。
「ええ、だって折角二人で使うんだからさあ、もっと楽しく可愛いのにしようよ」
「二人で使うからこそ、利便性が大事だろう」
「はいはい、わかりましたよー」
買い物が済んで、二人で少し歩いた。辺りをキョロキョロさせながら智樹は歩いていた。私は側溝に足を取られ、私ははっとして驚いてつまづいた。
「大丈夫?」
「うん、智樹は心配性だね」
「馬鹿、お前、昨日あれだけ」
「はいはい、その話はなしよ」
痛くないと言えば嘘になる。でもそのことでせっかく智樹がしくれたのに悔やんでしまうんじゃないかと思って、それが怖かった昨日、私は昨晩とても嬉しかった。世界一の幸せな女の子になれた。
「平日ってこんな人が少ないんだね」
「そうだな」
「季節外れの海って、もっと人がいないんだろうね」
「うん」
「二人きりかな」
「だといいな」
「えへへ」
もうあの家に帰るつもりはない。私の居場所は彼の隣。ずうっといっしょ。だって、かあさんもあの男も智樹が潰してくれたんだもの。行くところがなかった。おかげさまだった。隣で微笑むしかほかないのだ。
昨日はそう。あの男がいつもよりすごく荒れていた。母さんに私を殴らせて楽しんでいた。智樹が来てくれなかったら、前歯一本では済まなかったと思う。智樹が家に来たとき、私は押し入れに詰められていた。そのとき、初めて助けてと言った。もみくちゃになる音がした。割れたお酒の瓶と倒れているあの男、そして、ぐったりした母さん、ぐちゃぐちゃの智樹がいた。ぜんぶの色が瞳の奥に飛び込んできた。それからは覚えていない。
人殺しは、施設に行くのか。裁判があるのか。別れるくらいなら死にたいと智樹は言った。じゃあ、死んじゃおっかって、私は言った。それでこうなった。だいたい、事件があるときはトンキオーテで何かを買う。集める。私たちの場合は鎖と重石だった。
夜の海は暗くて冷たい。夜になった。砂浜に素足で立つだけでぞっとした。ダンゴ虫みたいなエビとかみたいな生き物がそこらじゅういた。海の果ては地平線ではなく、永遠と続いていた。私は怖くなって智樹にしがみついた。智樹はじっと海の向こうを見ていた。
「ねえ、智樹」
「ん? どうした」
「美優といて幸せだった?」
「今も幸せだよ、これからも」
「そっか、ありがとう。大好きだよ」
私は智樹に続いて飛び降りた。
* * *
その日、空は恋の色をしていた。冬の海は冷たくて、私はすぐに考えるのを辞めた。これが私たちに起きた嘘のような本当の話です。海の中はべたべたします。ふじつぼは痒くて、蟹は卑しくて、海藻は美味しいです。悲しんで貰いたい訳じゃなくて、ただ、この切なさを悼んでくれる人がいれば幸いに思います。My
* * *
「でもさ、美優、これ二人とも死んでるじゃん」
「それがさ、読者って馬鹿なの、もうどんどん売れる」
「まじか。作家先生すごくね」
「でしょ」
「日本人が書いたとは思えないね」
「うふふ」
「いや、そう来るか、と色々な所でびっくりした……ってかさ、美優なんか磯臭くね」
「きっと気のせいだよ」
「ってかね、多分その本ってのが売れたワケってのはさ」
真奈美は帯に目をやった。そこには太字で「奇跡の海洋系ゾンビ女子高生作家が筆を執った、嘘のような本当に残酷なエッセイ」と書かれている。どうやら、すごく、ポップでクールで、スリラーでおかしいと思わせるものが沢山、沢山。最早ありふれていた。
「……全てきっと気のせいか。そうか」
自分は悪い夢を見ているのだろうと真奈美は思った。夏までに腐敗が進むことを考えて、早い所いい葬儀屋さんに防腐剤を仕込んでもらうべきだ。或いはかもしれない。で、あるだろう。そのようなことが頭によぎったが、真奈美の付けている千切れた鎖のアンクレットなぞは、ロッカーの内では有り触れていると言えなくもないし、つまり何を考えているかと言えば、腐敗臭も強烈な腋臭に呪われたと捉えられなくもないということだ。しかしながら、これが夢ならば、夢であったならば、すべてなげうって、どうでも良いことである。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」
近松門左衛門作 曾根崎心中より