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焼肉は火曜日に

 ヤモリに似た黒々しい瞳がこちらを見ている。私は「あの目の玉は爬虫類と両生類のどちらに似ているだろうか」等と考えながらすれ違う。始めはそれだけの関係だった。あの鏡のようなレンズは私を映しているのだろうか。映したとしてあの男に処理できる感性があるのだろうか。薄霧のような疑問を浮かべながらすれ違い、気が付いた時には何も意識しなくなっている。またすれ違う時に疑問がわきだし、奇妙な不安感を私は抱く。

 この学校の用務員であることは服装でわかっていたが、だからと言って気にしないでいられるほど、その男は普通でなかった。中肉中背でごくごく一般的、かつ平均的な容姿をしているが、そのあまりに目立たない様が逆に私を不快にさせるのだった。まるではく製のような、生きている空気がその男には無かった。

男はふらふらと幽霊のような仕草で掃除をする。しかし、私以外の誰もその男の異物感に気が付いていないようで、それがますます彼がこの世のものではない何かのように思わせた。教授と挨拶を交わしているのを目撃してようやく私は生きているのだなあと理解をし、ますますしっくりこない感じに悩まされていた。

あくる日のこと、新刊の発売日のことで頭をいっぱいにした私はメモをそのままに出てきてしまった。そういうことで、何の気なしに教室に戻った時にあいつがいたのだが思わず露骨に表情を出してしまっていたらしい。それに気づいているのか、いないのか。あいつは少し戸惑っているような様子だった。私は気まずい気分で会釈をし、メモを手に逃げるように教室を後にした。本のことだけを考えるようにして、その日は帰宅した。

 読書を終えて「ああ、やっぱりこの作者は面白い」と余計なことを考えつつ、いざ宿題に取り掛かろうとした私は見覚えのない文字に戸惑った。何かの間違いで別の紙を取ってきてしまったのだろうと、そういうことにしたかったのだが裏には課題の内容が私の字で書かれている。ではこの小汚い字は誰のものだろう。なによりも、目には入るものの内容が、頭に入ってこようとしないのが不思議で、文字に起こすとこう書いてあった。

「僕は君を見ているのが好き。君は僕をその視界に認めてくれる。ここにいられるのは君が見出してくれたおかげだ。差し出がましい願いと知りながら今後も君を見る事だけは許して欲しい」

カクカクシカジカこういうことがあったけれど、新刊が面白かった。買うべき。私は樹さんを押しますよ。新しいタイプの男の子ですよ。そのような可愛らしい話をする昼下がりである。

「何それ、気持ち悪」

 その言葉の通りの気持ちを私は持っていたので素直に肯定する。

「うん、そうなの。こういうのは無視がいちばんかな」

「でもさあ……相変わらず変なのに好かれやすいよねえ」

 まったくもってその通りで、私は変なのに好まれやすかった。思い返せばそれは幼稚園児の頃に始まり、昨日に至る。私の容姿は例えるなら、母は松田聖子に似ていると言うが、親の欲目を抜くとその聖子ちゃんに似ているところは口元だけで、残りは潰れたじゃがいものようであった。だから何がそれらを引き付けるのかわからない。

「なんでだろう」

「アンタはそういう人をじいっと見ていることが多いでしょ」

「そうなのかしらん」

「すごく。もしかするとぼうっとしているだけかもしれないけどね」

 気が付かなかったけれど、確かにそうかもしれない。彼らが私をじいっと見るように私もまた彼らを見ていた。だとすると、私も彼らと大差ない。どちらも気持ちの悪い興味を持って何かを見ている。

 テスト勉強を学校でする意味とは、勉強をしている気分になるそれだけのためだと思う。我が友と、根から暗そうな数人のクラスメイトが教室にいた。

 私が世界史の年表を確認していた時だ。またぞわり、ぞわりと這い上がる気色の悪さが私を侵した。ふと窓を見ると、私を誰かが見ている。しかし、そこに誰もいない。ただ見られている意識だけが辺りを這いずっている。

「何だか、多感になっちゃって嫌ぁね」

「どうしたいきなり」

「ほら、例の……」

 我が友はため息交じりに納得をした。

「いつものことじゃない」

「そう、そう。いつものこと」

 冷房にあてられたせいか、少し頭が痛かった。

「そうされたがっているように見えるよ。たまに」

「そんなことはないよ、すごく迷惑なんだからね」

 靴箱に押し込められた夢日記、消印のないお手紙、飛びついてきたときの生暖かさ。笑い話にでもしなければ、覚えているのも気分が悪い。

「そういう、不幸が好きな女の子っているよね」

「楽しんでいると思ったら大間違い」

 私の世界史の資料集から何か覚えのない紙が現れたので、それは楽しくない気分になった。その紙に書かれた文字は、昨日見たばかりの筆跡だった。

「僕は今日も君を見ている。君の笑顔はすごくかわいい。体育の時はふてくされてだらだらとしていたけれど、それすらかわいい。毎日の幸せを運んでくれる君は天使だと思う」

 私は苦笑いをする。

「ほら、やっぱりなんだか嬉しそうにして」

 私の笑顔のわけを我が友は知らない。これは諦め顔というやつだ。

 きりの良いところまでやったので、そろそろ帰ることにした。駅まで行ったところで私は教室に本を忘れたことを思い出す。勉強しようと思った日に限ってこれだ。我が友を駅に置いて私は校舎に引き返した。

 そこであの男に鉢合わせたのは誤算だった。帰りにこうならないために時間をそらしたつもりだったのだが、つくづく私は運に恵まれない。奴はエアコンのフィルターを持っていた。鼠色の服に着られていた。

「遅くまでお疲れ様」

まさか話しかけられると思っていなかった。これが声かと思う雑音だった。嫌悪感がぐわっと胃から込み上げる。私は思うことをそのまま奴にぶつけた。

「気色が悪いんですよ。気安く話しかけないでくれませんか。その目、その声、その容姿、ああ。なんて汚いんでしょう。そんなナリでそんな立場で、私にこういうことをして良いと思っているんですか」

 奴は黙り込んでいた。目に水をちゃぷちゃぷさせて、ぐっとこらえているように見えた。それがますます私を苛立たせた。

「こういうことして喜ぶと思っていたんですが。こそこそこそこそしてどうしようもないですね。いっそのこと死んでしまえばいいのに」

 そもそも私は汚い男が大嫌いで、その気持ちをのせて罵倒は留まることがない。どうして現実にいる男の人はこんなにこんなにごつごつして毛深くて垢っぽくて許せない容貌をしているのだろう。それは私を不快にさせるためなのだ。

 えっ、えっ、ぇつ。えう。うっ。しゃぐ、え、げ。

しゃくりあげる奴を見た時、私のスイッチは切り変わったのだ。こういう汚い輩の鼻づらを蹴り上げて自分の立場をわからせてやるべきだ。なぜ私が苦笑いする必要があるのだ。私は、高笑いで汚物を消毒してやるべきなのだ。ああそうだ。そうとも。

それから私は毎日楽しかった。奴の連絡先を聞きだし、定期的に呼び出してはあれやこれや、私がされて嫌だと思うすべてのことをさせた。一番楽しかったのは便器に顔をつっこんで踏みつけてやることで、次に楽しかったのはチョークの粉を食べさせることだった。学校だけではなく、休みの日も呼び出しては遊んであげた。

それには我が友も加担させた。こんなに楽しいことは共有するべきだと思った。我が友が奴を足蹴にしているのを見るのは爽快だった。友達思いの友人は、とても熱心に奴を踏みにじり弾き打ちやった。そのたびに私の心の深いところが綺麗になっていくような感じがした。清々しく晴れやかな、燃えるような爛れるような世界の美しさはまるで真夏の息の詰まるさえた青のよう。同じことの繰り返しの中に、たったひとつ、ゾクゾクする瞬間だった。男がみじめに泣いている姿に興奮する。本では嗅げない臭さ、本では感じない汚さ、綺麗なものが歪んでいるのがとてもかわいい。汚いものをさらに粉々にするのはもっと面白い。

 同じことの繰り返しと、覚えることと、先生のいうことにすること、親の前で良い子ちゃんでいること。初めての隠し事は、如何わしい本だった。私が壊れていい理由はそれだ。それ以外を壊さないために、そこだけを壊す。私が何となく嫌だった、その「何となく」を無くすには十分な下種を叩く。そのために。

 奴は喫煙者だった。ライターとタバコを取ったのは我が友だった。奴は呻くばかりだった。面白くないと思った。ちょっと脅しをかけるだけのつもりで私はライターを着火した。我が友がそれを奴の鼻先に近づけるように手を掴んでもっていった。油のこげる嫌な臭いがした。そこで私は初めて少しだけ、罪悪感を覚えた。このぐらいで止してやろうと思った。

「なんで」

我が友は私に聞いた。

「あんなに楽しそうにして、今更何をカマトトぶっている訳か知らない。でも、これは、絶対面白いから、大丈夫」

「それは流石にやりすぎだよ」

「そんなことない。もっともっと、かわいいアンタは汚いこいつを打って、殴って吐かせて、楽しんでいいんだ。私も楽しい。それでいいでしょ。やらないなら私がやったげる。そこで見ていればいい。きっと楽しいから」

 我が友の目がかっと開かれて、目玉が転げ落ちていかないか不安になった。我が友は私の後ろ暗さを燃やすように奴の肌を焦がした。呻きが悲鳴に変わった。私は笑っていた。楽しかった。うれしかった。いくらこういうことが大好きでもさすがにそこまで人でなしになる勇気は無かった。しかし、いざそういう場に遭遇すると私は確かにそういう風に出来ていた。心の芯までほっと暖まって思い知ることができたのだ。惨めで弱くて気持ちの悪いものを虐めることが人間は好むようになっている。

 我が友は私にライターを握らせた。私が考えるよりも早く、手が奴の身にまとうものを奪った。火だるまにしたいとは思っていない。この男が鼻水と涎にまみれて這いずり回っていればそれが一番良かった。

 惨めな豚のような男の指の毛、胸毛を焦がしては顔を覗き込んだ。奴はこの世の中の苦しいことを背負った顔をしていなかった。奴が下着だけでいるため、私は奴のそこの辺りが膨らんできているのを認めることができた。私はぞわぞわぞわぞわとはい回る気配を振り払うように、足を高く振り上げ、そしてその膨らんだところに降ろした。出たところを打ちたくなるのが人間の性だ。ボタンをぷちぷち潰すのも、こうしていることも本能の求めるところである。

「ねえ、楽しい?」

 我が友に答えるまでもなかった。私は尻から空気を入れられた蛙のようにのたうちまわる奴の腹を蹴り飛ばす。吐瀉物が靴にかかった。失禁すると楽しい声で辺りが満たされた。お気に入りのその靴の先で奴の顔を踏みつけた。ぐしゃぐしゃの奴はひどく人間のような痛ましい表情で苦しんでいた。私は笑う。我が友も笑う。獣のように、ごきげんな子供のように。

「……ああ。楽しかった。そろそろ塾が閉まるし、帰る?」

「そうだね、自習は捗らないということで」

 真夜中の居残り勉強会は成績を下げる一方だ。しかし、以前よりはるかに明るくなった我が子に親は苛立たなかったようだ。私が根暗でいるより遥かに何の問題もなかった。

「また明日、遊ぼうね」

 

私はいつも同じ電車に乗って通学する。決してタイムラインには逆らわない。予定調和で進む清らかなる通学生活。それがいけなかった。キヨスクで飴を買い、頬張りながら電車を待っていた。苺と合成甘味料の味を満喫していた時だった。私がいつも乗っている電車は急行の電車の通り道だった。ごうっと重い音で風が吹くあの不思議な感じにもようやく慣れたころだ。何のことはない。何もない。変わりない。

「……さん」

後ろから聞き覚えのある声がした。いつもは無表情なあいつがにやにや厭らしい笑顔を向けていた。私は途方もない恐怖を覚えた。

「幸せにする方法がわかったんだ」

後ろから押された私の身体は線路に躍り出るように飛び出す、というところまで妄想した。電車に挽かれたあとの身体のことは考えていなかった。私は結局、車輪にすりつぶされたり、窓ガラスに弾かれて叩きつけられたり、そうするのはあいつだった。まるで、その先に道があるような足取りであいつは黄色い線の向こう側に足を踏み出した。アッと声をあげた私の目をじいっと見たままに線路に吸い込まれていった。次の瞬間、肉の焼ける臭いと手をつないだ血や臓物が辺りを汚した。このあまりも鮮やかな色彩は、もし私が死んでもなお網膜に貼り付いて離れないだろう。まるで彼の心と同じように執拗に傍にいることであろう。誇張表現になっただろうか。少なくとも、あと五年は焼肉を食べられないのは確かだ。絶叫しながらも何故か冷静に頭は働いていた。青い夏空に蝉の声と私の声がしんしんと響く。二時間後には腐敗臭で地獄絵図。この有様は蝉が元気に鳴くような日の話だからだ。


 私はバスで学校に向かうことになった。少し時間がずれたくらいで何の問題もない顔で教室に入った。我が友の顔を見ると言葉がぽつりと零れた。

「あいつ、自殺した」

「……ふーん、そ。どうやって」

 我が友はあれを見ていないのでとても軽く物事をとらえている。わたしも見ていなかったのなら、そのくらいの気分だったろう。追い詰めるのは楽しくても、人殺しは楽しくない。私は駄目だ。

「私の目の前でさ、電車に飛び込んだ。幸せにする方法が何とかって言って……なんだか、私、すごく怖かった」

「で、次はどうする」

 我が友はわくわくと無邪気に言う。

「次って」

「他にまた気持ち悪いの見つけてこようか」

「ちょっと待って、どういうこと?」

「まだまだやろうよ、もっとずごいことしようよ。ね。そのために私は頑張ったんだ」

「え」

 我が友は興奮し、顔を桃色にしていた。一方、私はどんどん背中が冷えていく。血を一息に抜き取られていくようで頭痛と眩暈がしてくる。

「絶対、アンタはそういうのが好きだろうと思ったから、そこらの気持ち悪いマニアと違うって、私と同じもので出来ているって、だから、もっとしよう、大丈夫、アンタは幸いそういうのを惹きつける。私は駄目。全然だめ。やっぱりさ。好意を持たれた上で踏みにじるっていうのがいいよね。今回はたまたま、たまたまアンタの机に手紙を入れてくれって、そういう取引があったから、ちょっとはその気分を楽しめたけど……羨ましいよね。どんな気分? 自分を好きでいる相手を裏切るのって、楽しいよね。そうに決まってる」

「わた、し、私は、違う」

 我が友は眉を寄せた。悲しみと怒りと困惑がさっと軽く混ざられた顔をしていた。私はひとつひとつ身に染み入る言葉を告げていく。

「私の、幸せは、私が。気持ち悪いものを、気持ち悪いなあって、苛めていられたらそれで良かったの。好きだとか嫌いだとかはどうだっていいことなの。私が、いたぶっていられれば」

 私の気持ちを受け取った我が友は花の咲くような微笑みをたたえて私に囁いた。

「ごめん。次はそれでいこうか」

 私の罪は頑なだ。それが何なのだろう。一瞬だけ悪いことをしたような気分になる。それは、自分がひどいものだと思われることが恐ろしいからだ。許されれば許される限り。嗜虐の限りを、すぐにいい気になって、引き返す。私はハエトリグサなのだ。羽虫を食べて生きて行く。けれど誰ひとりとして何も食べずに生きられないと私は知っている。楽しいことしか目に入らないことは当たり前なのだ。

こんな話をしていようと誰一人気が付きはしない。カラオケに本にデートに映画にこの世の中の些細な楽しい事でいっぱいになっているし、その分が塾だとか親の重圧だとか不公平な扱いだとかそういうもので、もう沢山になっている。せわしない我々がなんとかやっていくために誰かを利用し、利用される。そうして社会は出来ている。寄生と共存、その内で弱い者が淘汰されることがあれど些細な問題ではないのです。

 その証拠に我が友は私を裏切るために飼殺そうとしているのだ。私にはわかる。同じ外道の私だからよくよくわかる。この女の欲望の向かうところにどういう絵があるのか、親友だからこそ予想ができる。好きそうなもの、趣味、その他のいろいろが。

私は愉快な我が友の目玉をシャープペンシルで突き刺した。ぷちしゅ。そのような勢いで何か溢れだした。彼女の瞼の裏から、私の心の底から。満ちる。溢れる。こんなに汚い我が友なのだ。怖がっているところに追い打ちをかけるのはきっとすごく楽しい。ただ、私が今ライターを持っていないことだけが残念だったのだが。

【可燃物】

可燃物(かねんぶつ)とは、通常環境において着火した場合に燃焼が継続する物体の呼称である。純物質に対しては可燃性物質(かねんせいぶっしつ)とも呼ぶ。また物体が継続的に燃焼する性質を可燃性(かねんせい)と呼ぶ。


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