十五夜の月曜日
「私はできることなら君の肛門と私の口唇を縫い合わせて、カタワのように辺りに転がっていたいと願うよ。でもそれだけではいけないのだ。まだ足りない。私は、君の身体から出た汚いものだけを取り込んで生きていきたい。ダニやハリガネムシ、ギョウチュウなどと同じようにね。私の身体を形作るのは君の鼻の油粕だったり、経血だったり、或いは汗や糞尿だ。ああ、なんと素晴らしい事だろう」
「……キチガイですよ、あなたは」
「君たち女はいつも私のこの崇高で慈愛に溢れる趣味をそう称する。しかし、君たちにこれほど強く私を愛せるかね。それが出来ないのなら口出しは無用だよ。しかも君は私の趣味を理解し、受け入れてくれているではないか。私たちは似たもの同士だ。仲良くしよう」
私の大好きだった15日は、私の人生で最も汚らしい日になった。
* * *
まず、腹痛で目が覚めるところに始まる。理由はちみどろのベッドシーツを見れば明白であった。私の月のものは非常に重い。致死量と思わしき血が毎度のごとく滴り落ちてくる。その量たるや圧倒的で、雨漏りどころの話ではなく天井が無理に引きはがされたような最大雨量なのだ。しかもこの古い血は腐りかけているようなひどい臭気を放つ。慌てて洗剤をぶちまけた水に浸しても私の下半身から新しい悪臭が垂れ流される。皮肉なことにこの日は私の大好きな15日だった。そのことに気が付いた私は敵なしだ。「七連勤」素晴らしい響きではないか。店長に会えない日曜日――昨日なんて私にとって厄日にしかならない。今日は月曜日、しかも15日。そして祝日につき。その条件だけで生臭さなど消し飛ばしてくれよう。
南国の鳥のように逆巻く頭髪をまとめあげて、私は職場へ赴いた。大口を叩いたのは良いが、カフェの立ち仕事は中々どうして辛いものだ。客こそ少ないにしろ丁寧にテーブルを拭いたり、サボタージュしていない風に立っていたりするのは忙しい。仕事を求めて一応通販の確認もするのだが、ごくまれに大量注文の箱詰めをするばかりで今日もメールボックスは0だった。
「……穏やかですね」
「実に、平和を感じますね。まあ、そちらの方が落ち着くので良しとしましょうか」
この中年は、平成の貴族か、はたまたやる気の放棄なのか私には測りかねる。
「今日も元気に給料泥棒日和です。こんな有能なアルバイターの役不足はありませんね」
「おや、のどかさん。では極細挽きのエスプレッソを淹れてごらんなさい。今日こそは粉にせず」
細やかな裏の仕事で私が誇れるのは皿洗いくらいだ。頼まれたものを作るにしろただの便所掃除にしろ店長曰く心遣いがなっていないらしい。
「お客様の手前、そんな優雅な時間を過ごす訳にはいきません。来られなくともお客様はいつも心に留めています」
笑顔ばかりが威勢がいいぞ。今日もその笑顔すら役に立てない状況が続いているが、御昼どきぐらいは来てくれるだろうと信じている。希望を捨てない心持でいこう。
「さあ店長、お仕事しましょう。勤労は国民の義務ですよ」
「ははは。まるで私が働いていないみたいな口ぶりはやめたまえ」
田舎ながらこの中途半端な大きさのビルを土地ごと持っているというのは、殿様以外の何物でもない。
「羨ましいですよ。こんな隠居生活は私の夢です。あ、田中さん」
私はこの際、仕事ができる女アピールを忘れなかった。どのお客が常連で何を買うのか、値段までも把握していると実力を知らしめるためにあくまでもさりげない口ぶりで呟く。
「ということは、モカの、あっ……」
田中さん猪年43歳、大根とねぎと豚肉を引き連れて凱旋中。いつもここでひどく長居を決め込む筈だが、今日はその気配が見られない。どうした田中!
「買い物帰りなのでしょうね。とおりすがったまでの」
「ひどい。神は死にました。この吉宮商店街は、あの大型ショッピングセンターに首を絞められる日々ですよ。まったく」
「まあ、ぼちぼち昼ごろにはいらっしゃいますよ」
その言葉のとおり、昼にはほぼ満席だった。ほぼというのがこの店のたかが知れている部分を表している。しかし、めったに客に満ちないこの店の店員にとってこの賑わいは珍しいものだった。特に、下腹部の辺りに痛みを抱えて頭痛薬と仲良くしている私にとっては一種の苦行だった。それでも私は唯一の取り柄である笑顔だけは輝かせて完璧な接客を試みていた。
午後にはまた穏やかさを取り戻し四時から閉店まで松坂のおじいちゃんが一人だけという微笑ましい状況になった。店内は平和を取り戻す。そのころには私の腰の辺りのだるさとお腹の痛みは限界を超えていた。ここからが、店長と私のアバンチュールのひとときだというのにお腹の痛みが抉りだす。
「のどかさん。今日はいつもに増して明るいですね」
「いいええ、ただ。何だか楽しくなってしまって」
この痛みと15日の喜びとでおかしな心理状況に置かれたので、午前中はせわしない雄鶏のような動きで働いた。
「何かいいことでもあったのですか」
それはあなたに秘密のお話。良くないことを全てを塗りつぶすコンクリートの
あ。
私に今日の疲れが忍び寄る。少しばかり立ちくらみがし、その場にしゃがみ込んでしまった。
「……腹痛ですか」
店長の人を見る目は素晴らしい。
「そんなことはないこともあります」
「そうだね。正直に言うのは君の素晴らしい美徳だよ。あとは私が片付けておくから帰って休むと良い」
「店長っ、ありがとうございますうう」
この人の優しさ、人を良く見ているところ、労りの精神。全てが理想的な男性のそれである。見た目だけでなく、いや、私はむしろ中身に惚れ込んで首ったけなのだ。フェミニストで少しずれたところもあって、上品で、繊細で、センシティブで……家路の喜びに財布を忘れて駆け出す愉快なのどかさんとは、吊り合う道理がなかった。
15日、それは私がこの喫茶店に足を踏み入れた日。名曲喫茶という異質な世界に魅せられた記念すべき日。そして、恋を教えてくれる人に出会った日。名曲喫茶とはいえ、田舎の辺鄙なビルにちょこんと居座っただけのこの店で曲の良し悪しの分かる客はいない。私は中学生のころ、吹奏楽をやっていた。だから多少の強要はあるつもりだったけれど、店長の知識の壺は誰よりも深く底なしだった。いつも大抵の場合この店ではヨハン・ゼバスティアン・バッハが流れており、仕事終わりには私がショパンを弾く。気が向くと店長はけだるげなバイオリンを聞かせる。文化的で美しい日々のはじまりを私は記念の日として愛で崇めている。
それまでは私という存在はなんて矮小で取るに足らない惨めな女子供だろうと思っていた。日々が灰を舐めるようだった。そればかりしか味わって来なかったので、甘いも苦いも舌が忘れてしまっていた。生きるために無味の砂を胃に流す。それがどうだ、今やコーヒー、ココアに紅茶、フレンチトースト、生クリーム、プティング……甘いものしか知らぬような顔で生きている。生きるために食べるのではなく、食べるために生きている! もちろん心には音の栄養が注がれ、私という木は根をはり、葉を茂らせるばかりであった。
店長が気になり始めたころは「この小此木のどかという雌は、人の良い喫茶店の主人を父親の代わりにしようと思っているのだろう」と自らを軽蔑したものだ。次第にその気持ちは薄れていった。背徳も、倫理も超えた強い愛を覚えた。弱音を吐くその姿を可愛いと思ったころには、もうすっかり夢中で彼に恋をしていた。彼が大好きだ。この15日ごと、彼が好きだ。財布を忘れたのだってきっと運命か何かがもう少しだけ彼と居させてくれるように仕組んだに違いない。粋な計らいをありがとう。
裏の調理場で店長が何かをこしらえているところだった。驚かしてやろう。私はいたずら心に駆られてそうっと身を潜めていた。出会った当初、彼のこだわりに関わる邪魔をすれば殺されかねない殺伐とした空気になったのだが、今やそのようなこともない。完璧な紳士に肩をこらせた店長とようやく打ち解けた感じがして、それが私の誇りだった。恋とはなんて素晴らしいのだろう。甘く浮かび上がるような喜びに満ち溢れ、世界は鮮やかになり、空気は美味しく、食事は喉を通らず、胸がいっぱいになる。寛大な精神のすべてを手にすることができる数少ない手段。私はこの人の愚鈍ともいえる緩やかさも、惨めな困り顔さえも好ましいと思っていた。
ここで私は店長がしている身の毛もよだつ行為に気が付いた。私の世界にひびがはいる。思い出すのも息の詰まる圧倒的な執着を目の当たりにした。男性として普通の欲求――自涜に耽っているのならまだ良い。店長がしている一連の動きに気が付いたときには、そうであろうと勘違いをした。しかし、彼はそのようなことはしていなかった。もっと直球的で純粋で、だからこそ反吐が出る事柄を繰り返す彼。私の前掛けの後ろ、経血が小さく浸みた、その汚れた部分を何度も何度も何度も指でなぞっているのだ。眼はうつろで、幸せそのものといった顔をしながら、無心で繰り返し続けているのである。
まず、私はそんな失態を犯してしまったということを悔やみ、それ以上に彼の異質な行動に困惑した。仕事中や帰り道はコートと前掛けで隠せていただろうが、確かに私の尻は湿気ていた。トマトピューレの染みや指を切ったなどのミスでついたものでないことはそれで確かとなる。店長が私の名前を呼ぶ。指がなぞるだけの回数「のどかさん」を呼ぶ。それは普段の優しさと私の求める確かな愛が込められていた。しかし、その愛の部分の甘い響きで彼が呼び掛けているのは、血のまざった子宮内膜そのものだ。「のどかさん」はそこに居ない。
呼べども喘げども物足りない様子の彼は世紀の大発明でもひらめいた研究家の明るい表情で裏口に向かった。喜び勇む早足だった。私は彼が求めたものを瞬時に悟った。神がかりのひらめきはこんな状況で発揮されるべきでない。職員トイレ。そこに向かう途中の暗がりには当然だが私が馬鹿みたいに口を広げて立っていて……
「あ、あは」
ご存じだろう。私の取り柄は笑顔だ。ところで、少しトリビアを言うとナマケモノの死ぬ間際の最後の行動はせめて苦しまないように力を抜くのだとケーブルテレビが喚いているように本当にどうしようもない状況に追い込まれたとき、人は笑うことしか残されてはいないのではないだろうかとなまつばの踊り食いと余計な詮索を跳躍するのでのどかさんは前世がミツユビナマケモノのプロジェクションと半時計回りにくしゃみを読点とした回る回る南アメリカの有毛目が過去する瞬間のリビドーなのですと嘔吐したがる怒りの生理痛に泳ぎなぞらえていたていたらしいががががが、かんにんなすってお殿様。
……しかして! 店長はというと、一瞬だけ焦りが瞳孔を揺らしただけで「忘れ物かな」といかにも彼らしい気遣いを私に捧げる。次の日に染みの一つもない前掛けを見て私は、彼への恋心が爆ぜた風船のように吹き抜けたのを知るのだ。
何もかもが目障りで気持ちが悪く見える。店長を見ていると。今までの真逆の心を抱えて毎日が鈍色に染まった。店長と同じ曲を愛でる感性すら憎らしく気持ちが悪く思える。ここで働くことはボレロや主よ人の望みの喜びよに似ていた。同じことの繰り返しのうちにだんだんと温かさを知るようなものだった。その旋律を嫌悪してしまったなら、地獄車に他ならない。
店長がピアノに付いた手垢を舐めとっていると知ると私はそのピアノに触れなくなる。だから私はこの店を辞めようと思ったのだ。
* * *
「こうなった経緯について、少しずつですがお話していこうと思います」
私はまっとうな人間です。あなたの内面と私の内面において何の差異も見出すことが出来ません。ただ私は女性の匂いや空気感に人一倍敏感でした。彼女は出会った時よりとても良い匂いがしていました。綺麗な匂いのする人は大抵の場合善良な人格を持ち合わせているものでしたので、彼女もそれに相当すると確信していました。そして、それは間違いではありませんでした。
彼女はとても良く働きました。明るく、美しく、そして圧倒的に若かった。しなやかな黒い髪が店の中でゆらぐ度、私は彼女への想いを押し殺しました。私は、静かな怒りに似たある種の罪悪感を抱えながら彼女を眺めておりました。私の鼻がぞっとする程、良く出来過ぎているという切ない自覚がありましたので、もしかするとそこからやってくる恐れだったのかもしれません。実は私のこの優秀な鼻が人に良く思われないことについて経験から重々了解がありました。
しかし、この美徳は美食の観点においては重宝されました。私の鼻は舌にも恩恵を与えておりました。それだけではなく、彼女との関わりの中では何にも代えがたい密やかな宝物でした。すなわち、それは彼女の脇もうなじも目のヤニも足裏の蒸れた薫りに至るまでが嗅ぎ分けられるだけの能力があったということです。
ある時期から、私は空腹感に満たされるようになりました。それは、彼女が傍らにいるときにのみせつせつと湧き上がるものでした。特に少しいたずらっぽく私と接するようになってからは毎日が地獄のようでした。例えば、飢えて腹の膨れた者の前に焼きたてのご馳走が並べられている。その誘惑に堪えるのは困難を極めました。私が逃避の手段として選んだのは、彼女の代替品を集めることでした。ストローやバンダナ、デオドラントシート。そういう臭いが濃く残っているものほど良かった。一時でも侘しさを紛らわせられました。
ある日のことです。彼女は月のものの日でした。私はその生臭さを彼女が店に来たときよりわかっておりました。ですので、彼女をはやく仕事から上げました。彼女の余韻に浸っていると、その匂いはまだ元があるというのに気が付きました。それは、彼女の経血が少しだけ浸みた前掛けでした。空気の中の薄い血の匂いに気づくことはしばしばありましたが、直に経血を嗅ぐのは初めてのことでした。それは、これまでにない強いかぐわしさでありました。男にない部分を感じれば感ずるほどに、私の穏やかな恍惚は高みへ上りました。それは、男の性欲ではなく、どちらかといえば食欲に似た無垢で切実なものであります。
彼女の血は酸素と結ばれ黒くなりつつありました。手触りは少しざらついていて、頼りの無い感じがしました。私は、幾度も彼女の血をなぞりました。胸が高鳴りと切なさで満ちていました。まるで初恋のようなその愛おしさは春先の桜の蕾によく似ていました。
私は彼女の血を欲しがり、手洗いに向かいました。そこには彼女のものであるかに関わらず、経血があるでしょう。この際、彼女から生じたものかはどうでも良かったのです。もっとも、彼女のそれであるのなら私は匂いでわかりますので、それが最大の幸福なのですけれど――しかし、彼女が、私の道を阻みました。忘れ物を取りに戻ったのでしょうね。彼女の瞳が私をじっと見ておりました。糾弾するわけでもない、恐れと驚きに満ちた血の気の失せた顔は蠱惑と絶望を私に与えました。あくまでも何も無かった風を装いましたが、彼女が私の行為に気が付いていたのは明らかでした。
それから彼女の拒絶と嫌悪が始まりました。私はひどく悲しみましたが、その後ろでニカワのような欲が育つのを感じました。それはあと少しで溢れようとしている震えた水面でした。なんとか取り繕うとすればするほど、彼女が私に抱いている信頼や憧憬が足元から崩れ落ちていくのです。崩れ落ちた瓦礫は、私のニカワの水かさをより増させてゆきました。(ここから荻原、息が荒くなる)
……彼女が、私の元を、去ると、告げました。私は何かに動かされるように彼女ににじり寄りました。それから彼女の鼻の頭からうなじを舐めたり、嗅いだりしました。私はただ、思い出だけでも残したかった。その方法として、そうしたのです。
「ああ、君は本当にとてもいい匂いだ。私はどうしようもなく君を好ましく想っていたよ」
私は素直に賛美を口にしました。するとしばらくそのままでわなないていた彼女が、突如せきを切ったように涙を流しました。解放しようという心が、動揺で定まらなくなりました。
「わたしは、あなたが好きでした。でも、もう。こんなの、意味がわかりません。ごめんなさい、たすけて、たすけてくださいゆるしてください」
その涙を、私は一滴も零さずすくい取りました。それは、確かに思い違いなどではなく、私への愛で満ちておりました。塩分の高い彼女の体液はたいそう美味でありました。しかし、その辛さは彼女の悲しみと戸惑いと恋心が混じり合っており舌を刺すようでした。これ以上、彼女を悲しませるのは私の全てを失うことでした。私は、彼女を押し倒し殴りつけました。まな板の鯉のように口を開閉させる彼女の頭に幾度も拳を振り下ろしました。冷たい床に何度か頭がぶつかると、彼女は動かなくなりました。しかし、私は彼女が生きているのがわかっていました。穏やかに空気を吐き出すその口臭が生のものでありましたから……私は、彼女を裸に剥きました。暴漢の抱くよこしまな心持はありませんでした。全ての匂いを忘れることのないように、覚書に残しながら丁寧に嗅ぎまわりました。彼女の脇は毛が少しだけ頭を覗かせていて、その毛根に舌を這わせているときなど死んでしまいそうな幸福でした。陰部のあたりは少しむっとしており、彼女の薫りがそこに凝縮されているかのようでした。足の指の又の靴下の屑を飲み下していると、自分が誰で何処にいて何をしているのかもわからなくなりました。ただ幸福で頭はぼうっとして、それからは
――
昔、祖父が鶏を〆るのを納屋で見ました。ふと、虚ろな脳内にその光景が浮かび上がったのです。私が雛のときから可愛がり、名前も付けた鶏でした。アサコの卵はとてもまろやかで幸せな味でした。太陽を白米に浮かべる。弁当を黄色でふわふわしたもので埋める。それだけがアサコの生きる価値でした。卵を産めなくなったアサコは逆さに吊るされて首を掻き切られました。それは祖父がやるところ無理を言い私が縊り殺した後の話でした。肉は次の日の朝食でした。何よりもその肉は私が生涯食したもののなかで一番美味なものでした。私の器官はおかしいのです。アサコとはプラトニックな関係でしたが、確かに私の初恋だったのです。ええ、比喩ではありません。ご存じの通り、鶏です。アサコの糞便も卵も肉も血の一滴も愛していました。私はこの手でアサコの細い首に小刀を突き立て、その匂いや湿度を感じてみたかった。いつも胸の片隅にあったそれを思い出してからは私は自分でも驚くほどに手際よく始末をつけました。
のどかさんの白い首を、調理場の包丁で撫でました。あっさりと赤い線が入りました。そして間もなく血が弾ぜ、勢い良く飛び出してきました。私は慌ててその喉首へ噛みつきました。のどかさんは跳ね回りましたが三回ほどで肉の反射行動なりました。血は留まるところを知りませんでした。鉄の味が口内に広がり、彼女が体の中へ入るのを感じました。喉を越え、食道から胃へ。もちろん、血の匂いはそこら中に漂っていました。出血に収まりがつくと、そこで私はようやく私がしたことに気が付きました。不思議と後悔はありませんでした。彼女からは生の薫りが失せました。でも、もっといいものを私は手の内に収めました。その時から今までしっかり彼女の死臭がこびりついておちないのです。こんなにも素敵なことはない。あなたがこの頭痛のするような甘い匂いをお分かりにならないのは残念です。それはいいとして、そうです。そのあとからが更に良い。
その日は手を洗い服も着替え家路につきました。職場に着替えを置いていたことをこんなに有難がったのは初めてです。翌日の早朝から私は店を閉めると裏にこもってのどかさんを解体しました。可食の部位を分けなければいけなかったからです。特に脂肪は食べられたものではないので、切り分けなければなりません。もっとも、彼女は肉付きの良い方ではありませんでしたから、この作業は楽でした。だから、彼女の身体の大部分は食べることができました。臓腑は食べられる部分ばかりでもありませんでしたので、首に巻きつけたり鼻に詰め込んで私に薫りがよくよく染み付くようにしました。あのオレンジやピンクの色味はいかにも少女趣味的で心底可愛らしいものでしたよ。ええ、本当に。他にも、乳房に浮かぶ白い脂肪や、腸の辺りの少し黒く艶めいた感じは彼女の心に触れるようだった。っあ、っあ。
焼いたり、煮たり、茹でたり、何日にも渡って彼女を味わいました。彼女の遺品を眺めながら肉を食んでいると、途方もない解放感を覚えました。私は彼女の芳香に囚われていたのです。思い返せば、アサコの世話も面倒でおっくうなものだった。私は、私の心を掻き回す悪女から解き放たれ、ようやく人になれたのです。澄み渡る、晴れ晴れとした青空が心に内に広がりました。それまでの薄汚れた気持ちは胃液に溶けて排泄とともに放たれました。
あの女の骨をしゃぶるだけの私の元に現れたのがあなたがたです。それで、ここに至る訳ですが、私は何の悔いもありません。男女の関係の行きつく先は、そのほとんどが心中でありますが、私たちの場合、そのような陳腐なところで留まりません。今も彼女は私の血肉として巡り、私の皮膚、胃液からは彼女の甘い麝香のような恍惚が生き続けているのです。
ほら、私をよく嗅ぎなさい。明るく、美しく、若い匂いがするでしょう。臭い、老いた男の空しさなどどこにもない。もしこれがあなたがたには及ばない考えならば、無心で私の肉を貪ればいい。よろしいか。これは広報運動の一環であります。そうして、世界中が彼女の素晴らしい臭気に満ち溢れるのです。理解ができませんか。ああ、あなたは途方もない白雉だなあ。そら、そこのあなたがたこそがキチガイだ。その上、欠陥している。私の鼻にも脳にも舌にも端にもかからない。だから、この匂いが、喜びがわからない、私の鼻は完成された人類の英知だ。ほら、私の掌、口、耳の裏。甘い、あああ甘い。カタワのあなたがたにはおわかりになれない。至極残念なことだ。残念な度合もわかるまい。あまくだるいこの匂い。めしべの腐ってただれたような、ひどくお上品な肥溜めのそのむせかえる薫りだ。あは、あははははは。
【家禽】
家禽とは、その肉・卵・羽毛などを利用するために飼育する鳥の総称。または野生の鳥を人間の生活に役立てるために品種改良を施し飼育しているものをいう。