終わらない日曜日
にち げつ かあ すい もく きん ど
まいにちすべてがすばらしく
きょうもあしたもあさっても
あさひにおはよう つきにおやすみ
いきてないて わらってしんで
それがどうしたこともなく
すったらはいて たべたらだして
うごめいているだけだとしても
わたしはたのしくありたくて
まわりをよごしてくらします。
日曜日のアワビさんの時間になると、決まって気分が悪くなる。明日、学校がなければいいのにと思ってしまう。一人でいるのにこのマンションは広すぎた。ホームサービスの人が来ないこの日はすごく落ち着くけれど、誰もいない寂しさを思い知る。家の電話は相変わらず鳴らない。更に、この時間帯にあの人は電話を取らない。この家の全てに何の意味もない。
仕方がない。そういうずるずるした気持ちで明日の準備をする。寂しくても私は間違えない。国語算数社会総合理科図工。しっかり鞄に詰めて日曜日が終わる。ベッドに入り今日はおやすみなさい。
目が覚めると私は色気のないベッドに縛り付けられていた。こんなことはありえない。私が学校に行くのを苦にみた夢に違いない。間違いないと確信したい。残念ながら手首や足首の金属製の手錠がそうは思わせてくれなかった。手品のショウよろしく縄抜けをしようと試みる。しかし、ただ耳障りな音が部屋に響いただけだった。だからといって誰も気が付きはしないのかもしれない。この部屋には窓がないのだ。手の届きそうのない場所に分厚そうなドアがただ一枚ある。
身代金目当ての犯行か、何らかの儀式の生贄か、はたはた未知との遭遇か。のっぴきならない。絶体絶命。空前絶後の大ピンチ。かよわき乙女としてはここら辺りでパニックに陥ってみたり、さめざめと泣いてみたりしておくべきシーンなのだけれども、私にはそんな女々しい余裕がなかった。冗談じゃない。思い切り手かせを鳴らし、飛んだり跳ねたりしてみた。外れない。しかしあきらめない。なんとかこの状況を抜け出そう。まずは胴のあたりをくるくる巻いている縄からだ。
「ええい、こんな所で根性を見せていないで外れなさいな。このスカポンタンのオタンコナスめ!」
「お目覚めのようだね。君が元気そうで何よりだよ」
おお、びっくり。晴天の霹靂。私はちょっとした小象くらいの激しさで暴れていたのでドアが開いたのに気が付けなかったのだ。つまり、何だ。私はとんでもない暴言を誘拐犯に吐いてしまったわけだ。誘拐犯の声には聞き覚えがあって、振り返りたくは無かった。だから私はその場しのぎで下らない言葉を羅列させる。全身が震えた。
「ごごっごっごめんなさい。あのう、私はさして愛されてもいないので身代金に期待は薄いというかいやいやそんなことはないと思いたいのですががが」
「何を勘違いしているかは知らないが、私の目当ては君だけだよ」
「そうですか。それはそれはお疲れ様です。あなたがどんなもの好きかは知りませんがこんな女はやめておいたほうがいいですよ。蓼食う虫も食べないセルライトまみれの産業廃棄物的な人間です。あ、でも東京湾の藻屑なんてのはおやめになってくださいな。地球が可愛そうって宇宙からの来訪者が遺憾の意を表明されますから」
私は困惑していた。視界に入れたくなかったが図らずも入ったそのお姿は全身が茶色で統一されており、なんだかセンスのよろしい感じのお洋服をお召しになっている。すらりと細身でモデルでもやればいいのにと思わざるを得ない。
「おはよう。相変わらずだね。安心したよ」
低くやや鼻にかかった声が脳内を揺らす。声は一日四十数回のラブコールで聞きなれている。顔も姿もこの一年でよく見知ったもの。神経質でかすかな足音が近くなる。やや面長な顔に憂いを帯びた二重のライン。細やかなまつ毛。眉毛も繊細な生え方をしている。だが、目だけは涼しげである。ふわふわ揺れる柔らかな毛質の髪は男性にしてはやや長い。甘い匂いはきっと整髪料のせいだろう。個人的に高ポイントを差し上げたいのは茶の洒落たメガネがインテリゲンチャ甘みでをにじませているところだ。
容姿もセンスも良い。拉致監禁をやってのけるくらいにはお金持ちの男性。物腰やわらか中身は外道。三文ドラマの筋書きのようだ。映画化してしまえ。需要がないから無理だろうし、出来ない理由が二者関係のおかしさにあった。ちなみにできない理由をここで注意書きしておくと、彼の年齢はおそらく五十代。そして私が○学生だからだ。小さな学生と書いて○学生。別名初等部。世知辛いこの平成の世の中では犯罪も犯罪もワイドショーが騒ぐ騒ぐ。
これらの見てくれ立場を踏まえてつまるところだ。私は彼のいかにもまともそうな見てくれに騙されてしまったらしい。あ、つまるところではない。まあ、彼が私を攫った理由は何にせよまんまとしてやられたのだ。
「こうして顔を合わせて話をするのは初めてではないかな。私のストーカーさん?」
バリトンのチョコレイトボイスが私の耳をくすぐる。この人は私の心を感興籠絡させる名人だ。幾度もめまいや動機や息切れに苦しんできた。けれど、今は気色の悪い犯罪者にしか見えない。嘔吐したい欲望が胃袋から込み上げてオエー。私も昨日まではストーカーの不審者であったと断言できる。こんなことを言える立場にない。だが、申し訳ないながらも棚にあげてもいいはずだ。なぜなら私は滝のような冷や汗で大変なのだからそれぐらいは許してもらわないと困る。同情を請える量が毛穴から出ているのだから、きっと読者諸君にも許してもらえるだろう。
「長谷川さん。いつからこんな変態紳士系キャラクタアに方向転換なさったのですか。ジャンクションはどこらへんですか」
長谷川仁志。そこそこのキャリア持ちで部下の面倒見がいい。ちなみに名前と性格は彼が務めている会社で聞いた。性格もルックスも悪くない。だが独身。それは彼のポリシーだと勘違いしていたがプライベイトの問題のようだ。ホモでない確証とともに知りたかったその理由に気が付いてしまった。悲しきかな。
「これが君と私の運命だから。それが理由ではいけないかね。想いあっているのなら結ばれよう。問題はない。幸せな二人で睦まじく。いやあ、めでたい」
こんなおかしな趣味の人がアットホームな家族なんぞ出来るはずもない。するならば相手もひどい変態さんか超絶マゾヒストかぐらいのレベルでなければ無理だ。私は影から見守るいたって普通のストーカーでその域には達していない。ぴっかぴかの常識人の私は拉致監禁ほど悪趣味なものはないと思う。好きならば、見守れ。意中の人を想うならばもっと他にやり方があるのではないだろうか。
「何が目的でございましょう」
「君は頭がいいようで、どうしようもなく抜けているところもあって、そこがまた愛らしいね。私がどれほど君を想っているのか知っていてとぼけてみせるのだろう。私にはわかる。君の考えが手に取るように!」
「それはあなたの建前で、本当に淀んだ本心、つまるところは」
どうということか。
慮外千万。吃驚仰天。茫然自失。顔面蒼白。周章狼狽。どう表してもしっくりいえないことをされた。キス、接吻、くちづけ、ベーゼ。むしろ、唾液を飲まされたというのが一番適当な表現だ。私にある衝動、はっきりいって吐き気が湧き上がる。私の考えるロマンティックでイノセントなそれとかけ離れたあれをされた。同じ行為でも小鳥がついばむような可愛いものではなくて、飢えた犬が骨までしゃぶり尽くすようなえぐさがその行為にあった。口が離れて第一声、
「わーおうげえろろろ」
気色が悪い。私のイメージが、世界観が、コスモが! どんがらしゃんしゃーんと音をたてて崩れ去っていく。もげらもげらと胃液が煮える、爆ぜる。嗚咽が漏れる、おぼろおぼろとこぼれる。
「長谷川さん。死にかけのロバの口臭にそっくり大賞」
「かわいいね。悪態のひとつひとつが興味深い」
「アナタは被虐趣味の、ソッチの道の方だったのですか?」
「どちらかと言えば攻める側だと自負しているのだが、いやはや。君の詩的なラブコールに心を動かされた結果だよ。毎日お電話ありがとう」
頭のおかしな男はボイスレコーダをポケットから取り出し再生ボタンを押した。
「長谷川さん? こちら恋する乙女1号機です。ぺこり。今日のネクタイは馬柄でしたねぇ。素敵素敵です。いつもはややいんきん無礼な印象の長谷川さんですが、今日のお茶目でおしゃんていなネクタイはまた違った印象を受けました。もちろん真面目でカッチリ七対三をキープしている長谷川さんも素敵ですけどおおおおわあああぁ長谷川さん長谷川さんはせがわさん長谷川さんハゼガワサアアアアンンンン」
それはまごうことなく私の声。なるほど、ヒートアップして高温になるとキンキンとかすれるわけだ。
「ちゃんとメモリにバックアップも取ってあってね。通勤時にはかかさずに聞いているよ。君は話にひねりをきかせてくれるから飽きが来ない」
「それはどうもありがたいことですね、へえ」
「君が面白いから。そういうわけで、君にはここで一生暮らしてもらおうと思う、たたき上げの私が天才の君を支配するために」
どういうわけやねん、と反論をせざる得ない。
「ひーとし君はそんなに頭が弱い子だったかな。捕まる前に自首しよう。警察は待ってくれないよ」
「たまには無茶なことがしたくならないかい。ふっきれてしまうことは君にないのかな。恋する乙女1号機君」
お主が知るわけもないよのう。名も知らぬ相手を好きになれるこやつの気がしれない。
「長谷川さんってええ、きち○いなんじゃないおおおお。あーたーま、だああいじょおおぶですかあああ」
私が暴言を吐くと長谷川さんは眉根を寄せた。なんとも言えずかっこいいはずの仕草。それがもはや気色悪いだけのくねくねした動作にしか見えない。
恋のパワアが冷めれば、目も覚めるということか。勉強になりましたね。
「……君がいじらしくなるためには、その動機づけが必要に見えるね」
外面ジェントリイな貴方はそんなことしないはずですのに、その発想はいかがなものかと思う。こんな男は彼ではない。そうか。これは長谷川さんじゃないのか。納得。これからはペド紳士とお呼びします。
「怖いもの知らずの君でも震えることもあるのだね」
そりゃあこれから何をされるのか、悪い意味での期待に満ち満ちた想いを禁じ得ないのですよ、ペド紳士。と、言ってやれれば良かった。怖くてそんなこと
「○ね、くたばれ、タ○キンもげろ、変態ロ○ペド野郎」
言えた。流石は口から先に生まれてきた女。自分の才能が恐ろしい今日この頃だ。
「……では、しばらくはさよならだ」
え、ちょっと。ちょっとちょっと。こういう展開ならば殴ったり蹴ったりロマンポルノ的な展開に持ち込んだり、もっとするべきところがあるでしょうに、あえての放置なのですか。流石である。変態は発想が根から違うのかもしれない。
* * *
腹と背がくっつく、いとひもじ。腹の虫がぎゅるぎゅると鳴いている。泣きたいのはこちらだ。しかしながら水分を奪われるような行為は得策ではない。もう何時間、何日食べていないのだろう。どこぞのバラエティ番組で人は三日水を飲まないと死ぬというのを聞いた覚えがある。そろそろ死んでも良いころあいだった。見損ねてしまった畜生め。スーパーなヒトヨシ君が貰えない。今週はアフリカ編だったのに、私がサバンナ状態でカピカピだなんて笑えてしょうがない。風呂に入らない生活なんて信じられない。トイレがなくてその辺でもよおすなんて汚い。日本でこのような生活を強いられているなど、解せない。
そんなことより唾液でも小便でも何でもいい。水、ウォーター。水、みずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみず。もう、この際大嫌いな牛乳でも構わない。給食なんて犬の飯だと思っていたそのひどく失礼な考えも改めよう。爪でも髪でも口に入ればなんでも食べようと思う。しかし、残念なことに体が寝台に縛り付けられているのだ。
「やあ、元気かあい」
能天気な声がドア越しに聞こえた。この状況で元気を保っていられるのならば、私は超次元生命体へクラスチェインジした方が良さそうに思われる。
「返事が無いということは、私の援助は無用と取ってもかまわないね」
デッド・オア・お返事ならば仕様がない。はらわたが煮えくり返っているが、ここは大人しく従った方が身のためであろう。
「はい、はい。返事はしますから」
二秒後、ペド紳士は嬉々としてドアを開けた。
「おお、いいねえ。素直で大変よろしい!」
ペド紳士は右手にシェイカーを持っていた。アルコールだろうが怪しい薬だろうが今の私はかまうまい。私が渇きから無意識にギラギラとした視線を浴びせていたときだった。
にやり、と外道畜生そのものの表情を露わにしたペド紳士は唾液をシェイカーの中に垂らしたのだ。緩やかに伸びる半透明な糸はシェイカーの中に落ちていく。私が飲むであろう液体の中にだ。
ぎょっとする暇もなくペド紳士もといゲス野郎は、シェイカーを用途のままに使いはじめた。振られる、混ざり合う野郎の加齢臭の元。おお、おぞましい! 身の毛もよだつとはこういうことを言うのだ。ここに来てから知りたくもないことを勉強しすぎている。時間の経った尿の与えるむずがゆさ、自らが放ちえる意外なる獣臭。とどめに、この男の底の見えない変態的な性癖だ。青息吐息が吐いても吐ききれない。私が抱いていた幻想ともいえる人物像との違いに遺憾千万、からの意気消沈である。
「今から解くが、暴れたらただでは済まさないと忠告しておこう」
何時間ぶりか、何日ぶりかの解放に心地よさを感じた。体中がばきばきでエコノミークラス症候群に陥りかけているようだった。ほうっとして気分と表情筋が緩んだまさにその瞬間である。
「飲みなさい」
そうくるだろうと薄々わかっていた。シェイカーをやけでむしり取るように受け取った私は、戦戦恐恐、それとも悲歌慷慨するべき場面なのだろうか。自暴自棄が一番近い言葉かもしれない。個人的には大いに泣きわめきたいところだけれども、気力が圧倒的に不足していた。
蓋を開けてみると水のようなものが、波紋を広げながら妙な泡立ちを誇っていた。内側の銀色が鈍く光っていた。ためらうほどに結露が私の手の甲に垂れる。私は何も考えないように石の心でもってシェイカーのふちに口をつけた。そうしてそのまま一息に飲む。なかば本能じみた衝動のようなものに駆られていた。無心に、ただ無心に飲み下す。体中に冷たさが浸みわたっていく。潤いが、広がる。ゲス野郎はいたく満足したように頷いていた。
「もっと欲しいか」
私は首振り人形のようにかくかくと頷いた。男は部屋を出て行った。手かせははめられなかった。私は笑う膝を奮い立たせて部屋を飛び出した。私は絶望した。よくある展開だ。ドアのすぐそばに男が二リットルのペットボトルを手に立っていたというだけのことなのだ。ペットボトルのラベルからデパアトなどでしか見られない高価な水だろうと推測できる。ボトルの水は私が飲んだ分、減っていた。
現実逃避にそこだけを見たまま、大の大人の男に突き飛ばされて私の身体は人形のように軽やかに転がった。これは、体重が軽くなっていたという意味と、関節が曲がるべきでない方向へぐにゃっとなったという意味の両方がこめられている。壁に頭をしたたかに打ち付けたのもつかの間、男は私の口にボトルの口をねじ込んだ。陸で溺れるような感覚だった。冷たいのか苦しいのか痛いのか恐ろしいのかわからなかった。
その途中、私は下腹部に違和感を覚えた。水が胃の中で暴れているようだ。強烈な痛みが私の腹部を襲った。だらけきった私の肛門は役目を果たすことがなかった。耳障りな音が炸裂。みずみずしい下痢便をまき散らすと、辺りに強烈な異臭が放たれた。溺れながらもわかるほどなのだから、けっこうな臭いである。
「どうだ、そうなるのか、ははあ。そうなのだね」
全て飲み終えてからの私はせき込んだり、鼻水をまき散らしたり忙しかった。落ち着いて呼吸を整えて、さあ、何が来るかと待ち構えたが鬼畜はじいっとこちらを見つめているだけだった。恐ろしいのは彼がきらきらと少年の瞳でもって私を観察しているところだ。バッタの足をもいで何日か様子をみた時、カエルの尻にストローを差し込んで空気を送り込んでいる時、純な好奇心の塊である。
ぎゃわぎゃわと喚く気もそがれて、私は壊れたレコードのように謝罪を繰り返した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
男はにたあ、と笑った。
「よしよし。良い子だ」
それならば、あと少しの慈悲を私にかけて欲しいものだ。そう悪態を心でぼやく。ゲス野郎の手が私に伸びてきた。もしかすると顔に気持ちが現れてしまっていたのかもしれない。殴られる、と身をきゅっと縮ませると頭に柔らかな感触が下りてきた。油にまみれた鴉のような髪をよしよしと撫でまわす手つきの優しさは私が長谷川氏に求めていたものだった。
「こんなに汚れて、可愛そうになあ」
これはいけない。こんな風に散々な姿になる目に合わせたのがこの変態であるというのに、私はこの男にどうしようもない好意が湧き上がってきている。これを人はストックホルム症候群というのだろう。ぼうっと恋心が萌え出るのが、わかった。
「そうだ、風呂に入ろう。それがいい」
男の太い腕が排泄物の付着した私の太ももの辺りを持って抱き上げる。男からはポマアドか何かの良い匂いがした。
「騒いだり、暴れたりしたら、わかるだろう。そのご立派な脳みそでなら」
その言葉を聞いても不快にならない辺り、私はずいぶんとおかしくなっていたのかもしれない。長谷川さんはぺちぺちと頭を叩いた。
「これでどれだけニューロンが死んだろうね。測れない。私に君は測れないよ」
私のどこが死んでいるか、説明してもいいのなら、魂が死んでいくのだけれど、彼にはきっとわかるまい。リマ症候群にもならない彼に何を話そう。
誘拐犯と風呂に入った。ナニな意味で手は出されていない。ともに風呂に入るよりも一方的に洗われていた時間の方が長かった。胸や尻、性器のあたりを洗われても抵抗はしなかった。ひどい匂いだと自分でも思っていたし、なにより体力と気力が限界に近かったからだ。総檜の浴槽に浸かっていると頭の奥で白いフラッシュが瞬いては消えた。男の膝の上がごつごつと骨ばっていて心地の良いものではないなあとぼんやり考えていた。
風呂から上がると、男に全身を丁寧に拭かれた。タオルはやわかくていい匂いがした。清潔な風呂から不潔なあの部屋に戻されるのはごめんだと思っていたが、心配は杞憂に終わる。リビングへ連れて行かれて私は驚いた。そこがモデルルームか、ちょっとしたホテルのように洗練された部屋だったからだ。モダンなソファへ長谷川さんは私を座らせた。尻が沈み込んで落ち着かなかった。しかし、髪を拭かれているのは心地よかった。
「一号機君」
男が呟いた。何を言ったのか聞き取れなかったので、私は振り返ってみた。男は満足そうにしている。
「一号君、きみはこれからもっとかしこくなるために色々なことをしなければならない。わかるね」
「わたしのおなまえはてんじょうこるりこです」
「ああ、ダメだよ。愛着が沸くとよくない。実験動物に名前は要らないものだ。もっとも君があの部屋で観察対象として生かされているのがお好みならばお望みのままだけれど」
変態紳士はマホガニーの棚から赤い首輪を取り出した。首輪は良い皮のものらしく、とてもぬめついた光沢を辺りに放っている。男は微笑みながら私の手に首輪を握らせる。素裸の私にただ一つだけ与えられたのは服でもパンツでもなく首輪だったのだ。
「選びたまえ。あの部屋で転がっているか、今これをつけるか」
本革らしいしっとりとした質感の首輪に手汗が染み込んでいった。てんじょうこるりこの指先は不器用ながらも自分で首に輪をはめることができた。首を重たくさせて、私は飼い犬になった。これは肩がこりそうだ。
「よし、そうと決まれば餌の時間だ。一号」
飼い主はエサ入れをガラス張りの食器棚から取り出した。まさかそんなものが出てくるとは思っていなかった。ご主人様はまるで日課のような手つきでシリアルを用意している。注がれた牛乳にシリアルが躍り、砂がこぼれるような音をさせた。ステンレスらしい犬用の食器は異様な金属光沢で私の食欲を誘っている。
「私の言うこと、することに疑問を持ってはいけない。君はただ従っていればいい。自分が人である証明をすることが叶わないならね」
我ながら無様だが、こうしていればどうやら食事にありつけるらしい。ああ、私は本当にけだものになってしまったようだ。ちくしょうめ。あんたの勝ちだよ。戦う前に目に見えていたことだよ。私が愚かだったのだよ。身に余る相手を望んだ罰がこれだ。
男の足元にとんとおかれたエサ入れに、私は首をつっこんだ。胃袋に物が入るのが嬉しくて涙が滲んだ。私は子供だ。無力の権化だ。だので、きっとおそらく多分間違いなくここから出ることは不可能。警察が見つけてくれるだろうか。無理な話だ。この男は完璧でぬかりなく、だからこそ私が惚れ込んだのだから。モルモットになる覚悟を決めなくとも、私はすでに屈して何もする気がおこらないでいる。それなのに、なぜか私は泣きながらお父さんとお母さんを呼んでいた。
「おかーさん、おとおさぁん……も、いやだぁ、いやだよう」
私の顔を覗き込む男の顔は相変わらず親切そうで、目だけが冷ややかだった。気づいていなかったけれど、この男の内側はとても冷たいのだ。おそらく。
「……君のお母さんは父親が好きだし、父親は仕事が好きだ。そして君も勉強だけが好きでいようとした。だが、それは難しかった。そうだろう。愛されたい気持ちで心の奥はどろどろだ。しかし、君のかしこさのわけ、記憶力の良さはその執着心によるものだ。感謝すべきはそこだけだよ」
「ちがうよお……おかーさんも、おとおさんもきっと心配して、待っていてくれてるはずだもんんん」
「どうだろうね。君の弟だか、妹だかがそろそろ生まれる。今は多少、気になるところもあるだろうさ。しかし、本当の二人の愛の結晶が一年二年、十年もすれば君に取って代わる。それぐらいわかるだろう。わかろうとしたくないだけで、君はわかっているのだろう。自分が出てきた理由が、父親の一夜の過ちによると。自分は白痴の天才或いはキチガイのその子供だと。お母さんと母親の、その圧倒的な性質の違いを。遺伝子の並びのずれを。自分がこの世の中にとっての異物であることを」
「知らないわかんない聞きたくないいい、いやいやいやいやいやいやいやいや、いやだ。いやだ、あああぁぁぁぁあああうううう」
「わかるよ! 君ならば、頭の良い君だからこそ! ああ、楽しい。いぃい気分だ。私はね、自分は特別だと思いあがって済ましているような人間、おかしさが理由で楽しくやっていっている人間が憎いのだよ。それと同時に憧れでもある。認めるまでが苦しかった。しかし、こうして認め、乗り越えることでもっと純度の高い気持ちが湧き上がると知った。君もそうだろう。好きだろう。愛しているだろう。自分の理想を私に押し付ける、それほどまで父親に愛されたがっていた。しかし、君は絶対に愛されない。父親の恋人の場所、そこに至ることがない。むしろ、その方が幸福なのかもしれないと私は思うのだよ。私は現に、君を手に入れておかしくなっている。もう私は自分でも自分がよくわからない。どういう風に考えて、そういう風に動き、何が好きで、何が嫌いなのか。なにもかもわからないのだよ。わたしは何がしたい? おしえてくれないか。君は頭がよいのだろう。おしえてくれ。どうすればいいのだ。私は誰だ。一体、なん、な、何者なのだ。どうしてこうして君とここにここにいるのだろうなああ……君は何だ?」
かくして、てんじょうこるりこは死に、わたしのなかの長谷川仁志も死んだ。ここにある残滓は知りたがりとモルモット。そう、つまらない鈍色の世界は、この美しく息の詰まる世界に。めくれ剥がれ捻じれ折りたたまれもとに戻ることは二度とない。考える事をやめ、私を遠くへやってしまおう。ミイラ取りがミイラなんて、アホも極まり栄えたものだよ。
そのまえに少しだけ、走馬灯が見えた。
彼は教育教材をつくる側で、私はその試験の結果がどうやってもおかしかった。それで、ちょっといくつか質問を受けたり、脳波を測ったりしていた。そのときの、こと。
私はこの世にあることの全て、ほとんどわかったつもりでいた。テストのほとんどは遊びのようで面白かったし、母親もおとおさんも私のその一部分のステータスにしか興味がなく、それだけがやりがいのある楽しいことだった。点数ばかりは満点の私は誰かと話をすることがなかった。相手がいなければ話し方を練習することもできなかったし、今更どうすればいいのかわからなかった。
長谷川さんは私によく話しかけた。家の過ごし方や、食べ物、好きな遊び。子ども教育研究コースのほんの数か月だけ担当だったのだけれど、そのときのことは私が覚えている胎児のころの記憶から、数か月前に食べたポテトチップスのバーコードの数、ここ最近の暮らし、どれ一つ忘れることができない私にとって、唯一のものだ。ときどき全て忘れてなくしてしまえたらいいのにと思う。でも、それだけは残しておきたいと胸を張って言える。あの時が楽しかったので、私はこんなにお喋りになった。
でも、てんじょうこるりこが死ぬためには全て手放さなければならない。わたしはこるりこであることを捨てる。いいこともわるいことも全て、外においやって、私はここに居続けよう。本当に体も死んでしまうまで、むき出しの心を晒し合って、せいぜい二人で壊れていればいいのだ。
【所属と愛の欲求】(しょぞくとあいのよっきゅう)
所属と愛の欲求とは情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。