私はティターニヤ?
いろんな所を案内され説明を受けたけど、うわの空。なにひとつ頭に入ってこなかった。そして気がつけば庭園のベンチに腰かけて、手をつないでいる。
不思議。こんなこと初めてなのに、なぜか前にもあったような……
横を向いて彼の目をのぞけば、彼は嬉しそうに微笑んでくれる。魔法にでもかけられているのかしら、私。
「大丈夫だった? 俺のガイド」
下町にいるかのように話しかけてくる彼は、とても皇帝様とは思えないほど打ち解けやすそうな方。でも……それはあくまでお人柄。現実は雲の上の人。私の手に届くような方じゃないわ。今日は一生に一度あるかないかの幸運に恵まれただけよ。
幸せな気分から一転。悲しくなってうつむくと、彼の手がもうひとつ伸びて私の右手を包み込んだ。
「ここからは、俺の独り言だと思って聞いてくれ」
「……は、はい」
真剣な眼差しに、私は気圧されうなずいた。彼の瞳には私の顔がハッキリと映っている。見初められるほど美人じゃないわ。私のどこに惹かれたのかしら。
「ティターニヤ。これは君の名前だ。六千年以上も前に俺が呼んでいた君の名前だ」
「えっ!?」
思ってもみない発言に驚いて声を上げると、彼は「シーッ」と人差し指を立てた。
「独り言だから」
「は、はあ」
「この元素界は俺の魂があるべき世界で、他の世界とは隔絶されている。それでいて異世界の礎として四大元素を生み続けている不思議な世界だ。異世界へ供給しているのはわずか一パーセント。しかしそれでも多過ぎるくらいだ。それだけ高濃度な元素が渦巻いている」
トイチ様は言って私の手を放し、ベンチから立ち上がった。
「秘宝石を消滅させて精霊界からこっちへ飛んだ時、俺は地球でも精霊界でもいいから戻れないだろうかと方法を探った。結果としてはダメだった。魂が生まれたばかりの頃なら四大元素にまぎれて行けたかもしれない。魂という単体は物質的じゃなく小さいからだ。でも俺の魂はすでに大きい。物質じゃないのにもかかわらず質量がある。しかも身体の寿命は来ない」
彼は振り向き、私の前に片膝ついた。その動作に驚き焦っている私に、彼の目は優しく輝く。懐かしむように、愛おしそうに。
「もう奇跡は起こらないと知っていた。だから俺は諦めた。この苦しみはいつか時に押し流されて思い出になるだろうと信じていた。現実は甘くなかったよ」
彼は皮肉げに笑み、再び私の手を握った。
「一日も思わない日はなかった。千年経っても二千年経っても薄れることはなかった。もちろん今でも。君のほうから来てくれるなんて本当に夢みたいだ。もしもまだ俺を想ってくれているのなら、もう一度やり直してくれないか」
胸が熱くなるような告白。でも私は困惑するばかりだった。だってそうでしょ? 彼は私を見ているの? その言葉は私に告げられたの?
……違うわ。彼が見ているのは私じゃない。私に似ている誰か。彼は面影だけを見ている。ティターニヤという女を見ている。私を見初めたわけじゃないんだわ。
私は彼の手を払って、ベンチから勢いよく立ち上がった。
「私はティナです。ティターニヤじゃありません」
声が震えた。彼は黙って私を見上げたけど、私は目をそらせた。涙があふれた。短すぎた恋に泣いた。
「さようなら」
私は走り出した。エントランスに向かってひたすら。彼は追いかけて来なかった。
やっぱり夢だったのよ。こんなことあるはずない。私を好きになってくれる人なんていないのよ。みんな言うわ。〝狂ってる、哀れな女〟だと。
「——?」
私は両手で涙を拭いながら、ふと立ち止まった。廊下が長すぎて疲れたからじゃないわ。憎らしいくらい長い廊下だけど。エントランス、どこよ。
「私、いつそんなこと言われたのかしら」
思い出せない。確かに言われた気がするけど、たった十六年の人生よ。父も母も私を愛してくれているし、友達にも恵まれている。そんなことなんてなかったはず。
「うーっ。フレアあ、どこなの?」
こんなことになるのなら、浮かれてないでしっかり見学していれば良かったわ。せめてエントランスの場所くらい把握しておくべきだったのよ。
私はとぼとぼと歩き始めた。そのうちどこかに突き当たると思って。
しばらくすると、「ティナ!」と呼ぶ声がした。フレアの声。たすかったわ。
こうして私は宮殿をあとにした。もう二度と来ることもない。学校を卒業しても絶対に来ないわ。
馬車の中でフレアに泣いていた理由を話すと、彼女は彼に対して怒ってくれた。だけどここだけの話。皇帝様に向かって楯突くことはできないわ。たとえフレアでも。
「もういいのよ、フレア。私、諦められる。まだなにも始まってなかったんですもの」
最後は笑ってそう言えた。
でもフレアと別れて帰宅し、自分の部屋へ戻ると憂うつになってしまった。優しく輝く彼の目を忘れられない。あの眼差しを私のものにしたいと思ってしまう。愚かね。
私がティターニヤなら彼に愛されるの? ティターニヤより先に出逢っていれば、彼は私のものだったの?
すっかり塞ぎ込んでいると、母が戸をノックして入って来た。
「もうすぐお夕飯よ」
「いらないわ」
「どうしたの。あんなに楽しみにして出かけたのに。ドレスがいけなかった?」
「違うわ」
「じゃあどうして? ちゃんと話してくれないと、お母さん責任感じちゃうわ。ドレス一着くらい買ってあげれば良かったって」
私はたまらなくなって、母に抱きついた。誰かにこの気持ちを打ち明けないと破裂しそう。
「なぜなの!? どうして私、ティターニヤじゃないの!」
すると母はひどく驚いて、私の背をさすった。
「あら! どうしてその名前を知ってるの? お父さんに聞いた?」
「……え?」
「その名前、あなたがまだお腹の中にいるときに決めていた名前よ。おかしいでしょ? インスピレーションってやつね。でも名前は三文字って決まりがあるわ」
驚いて顔を上げると、母は微笑んだ。
「やっぱりお役所には認めてもらえなくってね」
「……うそでしょ」
私は呟いて、茫然としながら床にへたりこんだ。
私がティターニヤ? どういうことなの? 彼が言ったことは本当だったの? ああ、分からないわ。なにも分からない。
その晩は不安と恐怖に脅えて眠った。とても殺伐とした夢を見たわ。一人で何かを求めてさまよう姿は魔物のようだった。人々の冷たい視線にさらされながら、かすかな希望にすがりついている、みっともない私。泣くことにも疲れて見上げた空には、薄れてゆく面影があった。
あの人……
翌朝、目覚めるとフレアが私を迎えに来ていて、「今日、学校行けそう?」と心配そうに首をかしげた。
私は力なく首を横に振った。
「フレア、私、ティターニヤみたいなの。でも分からないの」
フレアは目を丸めたあと、私に寄って手を取った。
「もう一度会ってみる?」
私は少しためらった後、ゆっくりとうなずいた。
学校を休んで、フレアと私は再び宮殿の前に立っていた。エントランスへの階段を上るのが怖い。そんな私をフレアは黙って見守っていてくれた。
いつまでもそうしていると、息を弾ませてエントランスから出て来た人がいた。トイチ様……彼は急いで階段を下り、そばに駆け寄ってきた。
私は彼を見つめて、彼も私を見つめた。私はドキドキして、戸惑いながら言葉を紡いだ。
「お……お母さんがね、私の名前、ティターニヤってつけるつもりだったらしいの。それで、私——」
オドオドしながら告げると、彼は明るく微笑んだ。
「焦らなくていい。すぐに思い出すよ」
私の目には涙が溢れた。
「信じていいの?」
「いいよ」
私の肩を抱き寄せる彼の目は、はっきりと私を見ていた。私に似た誰かを見ているんじゃない。昨日そう感じたのはきっと、過去の私を見ていたからだわ。だけど今は違う。彼は今の私を見ている。