キッチン・ド・ランカー
「……どこ?」
さっきまで生活感あふれるキッチンにいたはずなのに、いまや周囲は無機質なバーチャル空間のように四角模様を敷き詰めた壁紙におきかわっていた。
広さはバスケットコートが二面入るくらいだろうか。
現実ではないような気がした。少なくとも、電子レンジのなかに入りこんだのではないのだけは確かだ。
隣にはエプロン姿の母がのんきな顔で立っている。
わたしの唖然とした表情を見て、母はくすりと笑った。
「ここはプライベートルーム。何にもないけど、平和な場所よ」
「そんなことじゃなくて、わたしたちがどこにいるのかってこと! だって、さっきまでキッチンにいたはずでしょ、それがこんな変なところに――」
「心の準備はできてるかって聞いたでしょ。あんまりオロオロしてると笑われるわよ」
笑うのはあんただろうとか、「心の」準備なんていってなかったぞとか、文句はたくさんあるのだけれど、わたしは一番聞きたかったことを質問した。
「どうして電子レンジをいじっただけでこんなことになってるの」
「ここはね、主婦の聖域なの」
「――キッチンじゃなくて?」
「いったでしょ。キッチンには見えないだけでいろんなものが収納されている。この部屋もそのうちのひとつよ。ちょっと特殊ではあるけど」
「だって――だっておかしいでしょ。つい数秒前までキッチンだった場所がどうしてこんな広くなってるのよ。家だってそんなに大きくないのに」
「余計なことをいわないの。遥香、主婦の仕事ってなんだか答えられるかしら」
「掃除、洗濯、料理……とか」
「そう。だけどね、それだけじゃないのよ。あなたは知らないかもしれないけど世のなかの主婦にはランキングがあってね、日々それをすこしでも上げるために戦っているの」
「ランキング?」
初耳どころの話じゃない。
夢の世界に母があらわれて好き勝手な嘘を吹きこんでいる気分だ。
「なにそれ?」
「この辺の地域限定の制度らしいわ。ランキングが上がれば賞金が入って家計を助けられるし、生きていくうえで大切な特典を受けられるようになる。たとえばスーパーのクーポン券とか、ランクの上位にいけば温泉旅行なんかもあるらしいわね」
「うちも、それに加入しているの?」
「そうよ。もう長いことになるわね」
「お母さんは、いつから戦ってるの」
「もうかれこれ十数年になるかしら。お父さんが出ていった頃だったから」
「それを、どうしてわたしに――」
「あなたも戦うことになるからよ」と母はいいきった。「十八にもなるんだから、そろそろ主婦としての心構えを整えておかないとまともな生活ができなくなるわよ。もう結婚できる年齢なんだから」
「そりゃそうだけど、わたし働くつもりだし、そんな戦いなんて」
「最初は誰だってそう思うものよ。けどね、お隣さんだって戦ってるし、町内のほとんどの主婦はランキングに登録されている。収入が多いならわざわざ戦わなくてもいいけど、一般サラリーマンの給料じゃ足りないという人も多いの。とくにうちみたいな母子家庭は、戦わなくちゃ生き残れない」
父がいなくなっているにしてはパートの仕事にも出ない母を見て、収入は大丈夫なのだろうかと案じていたが、裏で家計を支えるために戦っているとは想像もしなかった。
「戦うって、危なくないの」
たとえ家計を助けられたとしても健康をそこなってしまっては元も子もない。
わたしたちは母がいなければ無力にも等しいのだ。
「バーチャル空間っていうのかしら、あまり詳しいことはわからないけど、こちらでどんなに苦しいことがあっても現実世界では反映されないようになっているから大丈夫。戦いでいちいち疲れてたんじゃ、主婦業は務まらないのよ」
さらりと説明する。
ちょっとだけカッコいい。
「でも、どうやって戦うの。お母さん、格闘技もなにもできないでしょ」
というか、全国の主婦のほとんどは戦闘能力を持っていないはずだ。わたしは昨日のスーパーでの出来事を思い出す。おしくらまんじゅうでもするのだろうか。
「そろそろ説明が面倒になってきたわね」
何たる言い草だ。
わたしの憤慨をよそに母は空中へ手をかざし、「純くん」とひと声かけた。
「お呼びですか」
背後から声がしたので驚いて振り向くと、アイドルグループのように可愛らしい顔立ちをした少年が立っていた。金髪に青い目。外人なので年齢は推測しにくいが、おそらく中学生くらいだろう。
服装はいたってシンプル。
黒のタキシードをきっちり着こなしている。幼い顔立ちのわりにしっかりして見えるのは、赤い蝶ネクタイだけのせいではあるまい。
「純くん、ちょっとこの子に説明してあげてくれるかしら。私じゃうまく話してあげられそうになくって」
「かしこまりました」
慇懃に頭を下げる。
わたしは美少年に視線をくぎ付けにしつつ、母を横肘で小突いた。
「だれ」
「専属の執事みたいなものかしらね。ここまでくるの大変だったんだから」
しみじみという。
たしかに身だしなみの整った彼は執事らしく礼儀正しい。純くんというのが名前なのだろう。呼びかけるとき母の頬がだらしなく緩んでいるのをわたしは見逃さなかった。
「お名前をうかがってもよろしいでしょうか」
声変わりしていないのか、ハスキーな声が心地よい。
わたしは前髪をちょっと整えてから、遥香だと告げた。
「早坂遥香様ですね。僕は純と申します。以後お見知りおきを」
優雅に一礼。
美少年というのはいつまで見ていても飽きないものだ。
『母親に似て、生意気そうな顔をしてるな』
天井から悪口が降ってきた。
わたしはむっとしながら見上げるが、誰の人影もない。
『それに頭も悪そうだ。まったく、遺伝ってやつは怖いねえ』
「E4、失礼な言動は慎んでください」
純くんがたしなめる。誰だ、この態度が悪い声は。
『アホそうな面したやつにアホっていって何が悪いんだよ。事実はちゃんと教えてあげなきゃな』
「僕たちは聞かれたことにこたえていればいいのです。余計なことを伝える必要はありません。たとえそれが事実だったとしても」
おいおい。純くんもさりげなく悪口に加担しているぞ。
執事とみえない声はしばらく言い争っているようだったので、わたしは母の方を見た。
「あれも人工知能のはずなんだけどね――どうもポイントが足りなくてバージョンアップできてないのよ。純くんにだいぶ使っちゃったからね」
「あれもってことは、純くんも?」
「そうよ。バーチャル映像だもの。ためしに触ってみれば」
わたしは純くんの背後から近付き、頭をなでてみる。幽霊のようにすり抜けてしまう。すぐそこに実体があるのに、不思議だ。すごくリアルなホログラムという認識でいいんだろうか。
「触れれば、あんなことやこんなこともできたんだけどねえ」
物騒なことをつぶやく母。
わたしはホストにはまる中年のおばさんを思い浮かべた。母と大差ないイメージが出来上がる。
純くんは確かに美少年だけど、母とは年齢がまるで釣り合っていない。わたしの弟にするのにちょうどいいくらいの年頃だ。
「純くんはね、ずっとポイントを貯めて三年前にゲットしたの。それまでは不愛想なおばちゃんだったんだから」
スーパーのポイントカードを埋めたら貰える商品券のようなものなのだろうか。
母がこんなショタコンだなんて知らなかった。たしかにアイドルグループは前から好きだったけど。
「で、あの無礼な声は」
「E4は最初からついていたやつだから、性能は悪くないんだけど言葉遣いがよくないの。慣れると和也みたいに可愛いもんよ」
「和也は下僕でしょ。わたしの食糧源なんだから」
「あんたがおかずを奪うから大きくなれないのよ。ちょっとは遠慮なさい」
「だったら量を増やしてよ」わたしはいってから思わず口をふさいだ。母はなけなしの食費を稼ぐために戦ってくれていたのだ。
「――ごめん」
「いいのよ。実際、最近はそんなに苦しいわけじゃないの。数年前までは純くんをゲットするために節約してたから、ちょっと我慢してもらっていたけどね」
「お母さん、キッチンに美少年を囲って楽しんでたんだね」
「毎日頑張ってるんだから、たまには贅沢したっていいでしょ」
あっけからんと開き直る。
「純くんもE4もそろそろ遥香に説明してあげてくれるかしら。私の戦いがどんなものなのか」
「失礼しました。直ちに」
バツの悪そうな顔で純くんがもどってくる。
なんて愛嬌のある仕草なんだろう。わたしが母だったらこの部屋に引きこもってるところだ。
『アホに説明するのはたいへんなんだよな』
「E4!」
『はいはい。んじゃ、いつものやつを展開するぜ』
天井の声がした次の瞬間、母の姿がなくなっていた。不安げなわたしに純くんが優しく解説してくれる。
「喜美子様はトレーニングルームに移られました。モニターに表示します」
いつの間にかエプロン姿ではなく、動きやすいスウェットに着替えている母が壁面に映し出される。周囲にはランニングマシーンや腹筋台があり、スポーツジムのような雰囲気だ。
母は手を振ると、トレーニングルームのなかを移動する。
すると、その先に見覚えのある空間が再現してあった。
「ご自宅のキッチンです」
「どうして戦うのにキッチンが必要なの。関係ないじゃん」
『なんも知らねえんだな』
E4が茶々を入れる。わたしと純くんは息もぴったりに無視した。意思の疎通が上手な人工知能だ。
「ランカーの戦いは二種類に大別されます。肉弾戦と、料理です。前者はフィールドで直接戦闘を行い、後者はキッチンでの料理を三名の審査員が評価します。両方の点数を合計したもので勝敗が決められます」
「……戦うって、どういうふうに」
「武器は認められています。ですが、調理器具に限られます。中華鍋やお玉が喜美子様の得意武器です。包丁類の使用も認められていますが、喜美子様はほとんど扱われません」
「包丁でさくっと倒しちゃったほうが楽なんじゃない?」
バーチャル空間というやつだからいくら身体に傷をつけても現実世界には関係ないはずだ。それなら威力の高い武器で圧倒した方が有利というものだろう。マシンガンやライトセーバーでもあれば簡単に勝負がつくのだけど。
「包丁は食材を切るためだけに使う、そうです」
「中華鍋やお玉は――」
「あれは人を殴るのに適した形をしているからいいのよ、とおっしゃっていました」
つまり母の気まぐれということだろう。
包丁を振り回している主婦なんて、夫の浮気が発覚したときくらいしか想像できない。
トレーニングルームにいる母はひとしきり準備運動をして、身体を温めている。
ようやくアリスの世界にも慣れてきた。
目の前で起こっている一連のことが夢だったとしたら、わたしは絵本作家にでもなれるレベルの想像力だ。頬をつねってみる。痛みはなかった。
「痛覚は遮断してあります。戦闘の妨げになりますので」
「そっか。戦うたびに痛がってたら嫌になっちゃうもんね」
わたしは納得してうなずく。
それにしても、日本の技術というやつは知らないうちにずいぶんと進化していたらしい。赤ん坊よりも速く走れる二足歩行ロボットを見てワイワイと喜んでいられる時代ではないのだろう。
『意気地なしだな、お前。そんなんじゃ早死にするぜ』
E4がからかってくる。幼稚園の男子みたいなしつこさだ。わたしに気があるのだろうか。生憎、実体のない人工知能に恋心を抱くような特殊体質ではないのだけど。
「ごめんね。わたしとあなたじゃ釣り合わないから」
『お、よくわかってんじゃねえか。世界最高の人工知能とバカ丸出しの小娘じゃ、月とスッポン、大トロとかっぱ巻きだからな』
こんな喩えをするやつが世界最高の人工知能であるはずがないとわたしは確信する。
それにしても、バカ丸出しって誰のことだろう。
「E4だっけ。あなたメンテナンスにだしてもらった方がいいよ」
『お前こそ脳に疾患があるんじゃねえのか。こんなのが主婦になると思うと、日本の未来は明るくねえな』
「あなたに心配してもらう必要はないから。わたしは立派なお嫁さんになってみせますから」
ふと、お隣さんの優一の顔が思い浮かんでくる。
高校生には、結婚なんてまだ遠い話だ。彼氏を作るので精一杯。
「喜美子様、準備はよろしいでしょうか」
純くんが確認する。
「ええ、はじめてちょうだい」
「了解しました。模擬戦闘レベル十七スタート」
「え、なに――」
わたしが質問するまえに母の姿がトレーニングルームから消え、なにもない広い空間に飛ばされていた。彼女の前には人型をしたのっぺらぼうがひとり。手には包丁を握っている。ひどく物騒なシチュエーションだ。
一方の母はスウェット姿からふたたびエプロンに戻っている。
主婦の世界ではエプロンが勝負服なのだろう。オレンジ色のそれをひるがえして、右手に持ったお玉で殴りかかる。
「模擬戦闘では自由にレベルを設定した相手と戦うことが出来ます。対戦相手はコンピューターが自動で操作します。現在のレベルは十七ですから、喜美子様なら準備運動程度の相手でしょう」
「相手は包丁持ってるよ。危ないじゃん」
「百聞は一見にしかずと申します。ごらんください、もう決着がつくところです」
『喜美子さんはわりと強いからな。包丁くらいじゃ歯が立たないだろ』
口の悪いE4がほめるのだから相当なものなんだろう。
わたしが純くんにすこし話しかけているうちに母は相手を叩きのめしていた。巨大な黒光りする中華鍋でのっぺらぼうの頭頂部を粉砕する。
鐘をついたような低音が響く。
実に痛そうだ。打ちのめされたのっぺらぼうはスッと消えてしまった。
「これが肉弾戦です。料理のほうは説明しなくてもご存知でしょう」
母の料理がプロ並みの腕前を誇っているのは、我が家の三食が証明している。主婦の戦いで勝ち残るために必要だったのだろう。そう思うと、なんの気なしに胃袋へ放り込んでいた食事がすごいものに思えてくる。
「――こんなことを、ずっと続けてきたんだ」
『かれこれ十年くらいか。喜美子さんも最初はひよっこだったんだぜ。お前ほどじゃないけどな』
E4の冗談につきあう気分じゃなかった。
戦うなんて、わたしには出来ない。包丁を持った相手と取っ組み合いなんて警察官にでもならないかぎりごめんだ。
痛くないとはいえ誰かと戦わなければいけないなんて、残酷なルールだ。
わたしのような可憐な乙女には似合わない――と言い訳するのは無理だろうか。
模擬戦闘を終えた母がすました顔で戻ってくる。わたしよりも背の小さい母が、一回り大きく見える。
「これが主婦の戦いよ。よく覚えておきなさい」
返事はしない。
すれば、嫌がおうにもこの世界に足を踏み入れなければいけない気がしたから。
「今日はこのくらいにしておきましょうか。あんたには刺激が強かったかもしれないわね。でも、これが現実なのよ。聖域の住人
キッチン・ド・ランカー
の、ね」