キッチンの奥
翌日の日曜日、わたしが目覚まし時計のアラームよりはるかに遅く目覚めると、リビングには母しかいなかった。年季のはいったソファーに腰かけてお茶を飲みながらテレビを観賞している。
わたしは朝食代わりのミカンをつかむ。
冬は太りやすい。夕食やおやつを目いっぱい食べるために、こうして朝食を抜くのだ。不健康だとかいわれても、この方法でわたしは魅惑のスタイルを保っているのだから妥協するつもりはない。
「和也は?」
「テニス部の試合。まだ暗いうちから出ていったよ」
「ふーん」
つまりこの家にはわたしと母の二人しかいないということだ。
父はずいぶん昔に家を出ていったと聞いている。わたしがまだ幼稚園児の頃だったからあまり覚えていないが、母と不仲だったような感じではなかったように思う。
それどころかよく家事をしていた……はずだ。幼少の記憶はアテにならないけど。
「もうすぐ十八になるのね」
「ぴっちぴちの女子高生ですもの」
「実はね、あなたにずっと隠していたことがあるの」
その言葉を聞いた一瞬でわたしの脳裏をスーパーコンピューター並みのシュミレーションがめぐっていった。心臓が警鐘のように高鳴る。
ぱっと浮かんできた選択肢から確率の高そうなものをピックアップ。
『遥香、あなたは私の子どもじゃないの』
『遥香、実はあなたには大金持ちの許嫁がいるの』
『遥香、あなたは魔王を倒す宿命を背負った勇者なのよ』
『遥香、新しいお父さんが出来たの』
……支離滅裂だ。
どう転んでもろくな未来は転がっていないような気がする。
わざわざ和也のいない時間を見計らってこんな話を切り出すのだ。きっと人生に関わる重大なことなんだろう。
乾いた唇をなめる。
「……なに?」
「キッチンにいらっしゃい」
「なんで」
「キッチンで話をしましょう。それがいちばん手っ取り早いから」
あれほど台所に踏み入れられるのを嫌っていた母が先導してキッチンに入る。
わたしは家の中ながら初めて体験する光景をまじまじと眺める。
シルバーに磨かれたシンク。食器棚にひな壇のごとく鎮座している食器類。一昔前のタイプの冷蔵庫。それから壁にしみ込んだ様々な食材の香りが、かすかに漂っている。
そこは異質な空間だった。
自分の部屋とは違う、リラックスできない。
家の中であるはずなのに誰かに見張られているような感覚。
「――ここで話さなきゃだめなの」
なるべくならそこに居続けたくなかった。リビングに寝転がってゆっくりしたい。――いや、キッチンから逃げ出したいのだ。
こんなにも居心地の悪い場所だとは思っていなかった。
「ここじゃなきゃ意味がないのよ。私がいくら説明してもあんたの堅い頭じゃ理解できないだろうし」
「お母さん……」
「キッチンにはね、見えている以上のものが収納してあるの。フライパンならそこの棚のなか、調味料は中段の引き出し、食材は冷蔵庫っていうふうにね。あんた、アイスクリームがどこにしまってあるか知ってる?」
「そこでしょ」
冷蔵庫を指さす。
「正解。冷蔵庫のどこ」
「えー」
わからない。
そういえばわたしは冷蔵庫の構造すら知らない。いくらキッチンに入れなかったからといってこれはマズいのではないだろうか。
母は一番下の引き出しを開けた。わたしの好きなアイスや冷凍食品が並んでいる。意外にも隙間は多い。
「冷蔵庫はね、たくさん詰め込むよりも間隔をあけたようがよく冷えるのよ。覚えておきなさい」
「どうしてそんなこと教えるの――もしかして」
お見合い前の花嫁修業なのかしら。
わたしの名推理はすぐさま否定された。
「あんたをもらってくれる親切な人がいたら、逆に詐欺なんじゃないかと疑うわね」
「…………」
「馬鹿な妄想はいい加減にしておきなさい。これから起こることは現実らしくないから、夢を見てるんじゃないかと勘違いするよ」
「なに、タンスをくぐるとファンタジーの世界に旅立つとか、そういうわけ」
「キッチンにタンスはないでしょ、バカ」
わたしの文学的教養は母の無情な言葉に踏みにじられた。あとでナルニア国物語を枕もとにおいてやろう。大いに反省するはずだ。
「じゃ、電子レンジがどこにあるかわかる」
お世辞にも広いとはいえないキッチンを見まわす。
お目当てのものはキッチンの最深部に鎮座していた。これも冷蔵庫と同じように、最新型のものではなく、わたしが小学生だった時に買い替えた古いタイプだ。
「それがどうかしたの」
「いまからやることを忘れないようにね。メモを取ってもいいけど、どちらにせよ一回きりしか教えないから」
「もしかして、秘伝のレシピを教えてくれるの?」
「あんた料理なんてこれっぽちもできないでしょ。我が家の秘伝を授けるにはまだ早いわ」
それよりも極秘レシピがあったことが驚きだ。
母は電子レンジに付いているボタンを操作すると、液晶に浮かんだ数字をわたしに見せた。四十五と書いてある。
おそらく四十五分間温めるということだろう。肝心の料理はなにも作っていないけど。
「それから目盛りを半分だけ回すの。反時計回りだからね。反対側にやってもなにも起こらないから気をつけなさい」
正しく操作すればなにかが起こるとでもいいたげな母の口調。節くれだった手が目盛りを半分回転させると、数字が浮かんでいたはずのパネルに「GO」というデジタル文字が表示された。
こんな設定が普通の電子レンジにないことはわたしにもわかる。
母はいったいどんな秘密を隠しているのだろう。それがまともであることを祈るしかない。昔見た映画のように隠し部屋が出てくるのかもしれないと期待半分に夢想する。
「準備はいい?」
母が真剣な表情で聞いてくる。が、わたしには何のことやらさっぱりだ。
とりあえず頷いておく。
いざという時には母に責任を取ってもらおう。
「それじゃ、目をつむっていなさい。――行くわよ」
スタートのスイッチを押す。パソコンの起動音みたいな電子レンジらしからぬ音が聞こえて、わたしはふわっと身体が軽くなるのを感じた。気付けば、わたしはキッチンでないところに立っていた。