意外な敵
ジャングルの入口に立っているだけだというのに強烈な威圧感が身体を押しのけようとしていた。ジャングルにいた猿から進化したはずの人間はいつのまにか故郷を恐れるようになっていた。視界はほとんどない。はるか頭上まで巨大な葉を茂らせている大木の隙間を埋めるようにツタが絡まり、足元には踏み場もないほどの下草が生えている。
緑の牢獄のなかには太陽の光はほとんど届かないだろう。
広大な電脳空間に再現されたジャングルは、視界の続く限りその猛威をふるっていた。
『今回のステージはジャングルとなります。制限時間はありません。なお、ステージ内にはトラやチンパンジーなどの動物が配置されていますが、それらをどう活用しても良いものとします』
E4の声と同じはずの、無機質な音声が忠告する。
わたしはジャングルのふちに落ちていた木の葉を拾い上げると、その感触を確かめる。
「……すごい」
「今回はよりリアルで広大な空間のテストも兼ねているのかもしれないわね。前回は東京の地下街で鬼ごっこをしたものだけど」
枯れかけた葉の、湿った感じが寸分の狂いなく伝わってくる。
わたしは顔を上げて、母と対戦するはずの相手の姿を探した。
『早坂夢人様、早坂喜美子様、握手をしてください』
アナウンスの声は同じ名字を告げた。ジャングルのなかから中年の男性と、わたしと同じ年ごろのセーラー服を着た女子高生が連れ立って歩いて来るのが見えた。
早坂夢人。
わたしの思い出のなかにぼんやりとだが、たしかに刻まれている名前。
「――久しぶりね、あなた」
「そうだな。遥香に会うのも、久しぶりだ」
「あなたがいない間に大きくなったでしょ」
「この前も見かけたさ。ずいぶんとまあ――」
その先の言葉はなく、ぶしつけにわたしの全身をくまなく観察する。中年のおじさんに見つめられるのはあまり気分のいいものではない。
だが、わたしはその人の顔から視線をはずすことができなかった。
「お父さん……?」
「覚えていてくれてよかった。遥香は昔からお父さんに似ていたからなあ」
「あら、私の面影があるってお義母様たちもいってたじゃない」
「ありゃお世辞だ」
「そんなわけないでしょ。和也のほうはあなたの性格を受け継いでいるみたいだけど」
「そうか。あいつも元気なんだな」
「テニス部で忙しくしてるわよ――ってこの前伝えなかった?」
「そうだったかもしれんが覚えてないな。もっと重大な案件があって忘れてた」
若かったはずの父を一気に十歳も老けさせた男は、わたしの肩をつかんだ。無精ひげが生えている。眼光は鋭いが、髪に白いものも混じっているようだった。
「遥香、お前彼氏がいるのか?」
わたしは反射的にうなずいてから、どうして十年以上も会っていなかった父がそんなことを知っているのだろうかと思った。
「あいつはいったい誰なんだ。というか別れなさい。あんな馬の骨に大事な娘をやるわけにはいかん」
「優一くんだって。お隣の」
娘のプライバシーなんて守るつもりは毛頭ないらしい。
それを聞くと、父は顔を真っ赤にした。肩を握る手に力がこもる。痛い。
「あいつか。あいつは昔から気にくわなかったんだ。見るからに女たらしっぽくて、チャラチャラして、生意気そうな顔をしている」
「そ、そんなことないよ」
「いいや、絶対にそうだ」父はぶるんぶるんと首を横に振った。「もっと早く引っ越しておくべきだったか。家のローンなんて娘の安全に比べたら安いもんだ」
「……お父さん? なにもそこまで嫌わなくても」
娘を案じる父にしてはやり過ぎている。
はたで見ていた母が、ぼそりといった。
「遥香が、お父さんと結婚する、なんてひと言もいわずに優一くんと結婚するっていい張るもんだから、すねてるのよ」
「そんなことはない。この世で嫌いなものは獅子舞と、お隣のひとり息子だけだ」
否定するが、眉毛がぴくぴくと動いているので嘘に間違いないだろう。和也と同じでわかりやすい癖だ。
「とにかく別れなさい。いいね」
「やだよ。っていうか、お父さんはどうしてわたしが付き合ってるって知ってたわけ」
「目撃したんだよ」父は吐き捨てるようにいった。「遥香が得体のしれない男と連れ立って歩いていたのを。母さんから定期的に写真を送ってもらっていたから、お前だとすぐにわかった。楽しそうにデートなんかしやがって」
「――もしかして、あのときの視線はお父さんだったの?」
三回目のデートで感じた不審な気配。
父が首肯する。和也といい、我が家にはロクでもない遺伝子が埋め込まれているのだろうか。
それよりも気になることがある。
「お父さん、夢を追うっていって家を出たんだよね」
誇らしげに笑う父に、わたしは疑問をぶつけた。
「それがどうして近所にいたの、たかだか電車で数駅のところに」
「あたり前だ。あそこに住んでるんだから」
嫌な予感がした。
「お父さんの夢って、なに?」
「主夫になることだ」
即答する。わたしは父の後ろに控えている女子高生に目をやった。
「あれは?」
「アシスタントの優花ちゃんだ。可愛い名前だろう。本当は遥香の名前も優花にしたかったんだが、母さんに反対されて――」
「趣味なんだよね」
「有能なアシスタントだ」
「わたしが娘だからというより女子高生が彼氏とデートしてたから激しく嫉妬したとか、そういうわけじゃないんだよね」
「もちろんだ」
眉毛が痙攣している。
わたしは肩にかかっていた父の手を払いのけた。
「夢を追いかけるためにプチ家出をしたって認識でいいの?」
「それは違う。昔から主夫になるのが夢だったんだが、母さんも主婦になりたいという主張を譲らなくてな。仕方ないから別居することにしたんだ。キッチン・ド・ランカーの話もあったし、収入源ができたのでちょうど時期も良かった」
「なのに家族と離れるのが寂しくて、結局近所のアパートに住んでるのよね」
母がとどめを刺した。
わたしは父に詰め寄る。なんて自分勝手なおっさんなんだろうと、呆れていた。
「この勝負、お母さんが勝ったら家に戻ってきてもらうからね。主夫は廃業。ちゃんと働いてもらいます」
「いいだろう。いっとくが、お父さんは強いからな」
自信満々に胸を張る。
それから、とわたしは付け加えた。
「そっちの女子高生風の人工知能にも負けないから」
「優花という名前があるんだぞ」
「うるさい。このJKオタク!」
このときわたしが怒っていたのは父親が変態だからであって、決して優花という名の少女が目を見張るほど可愛かったからではない。
艶やかな長い黒髪を腰くらいにまで伸ばし、清楚を具現化したみたいなたたずまいで父の三歩後ろに控えている。大きな瞳が、そろえられた前髪の下からのぞく。モデルというよりも、少女マンガにでも出てきそうなスタイルだ。
わたしの睨みつけるような視線にもめげず、にこりと微笑む。
同性から見ても可愛いと素直に思う。
「お母さんとわたしたちを放っておいて、近場で女子高生との同居を楽しんでいたなんて許せない。そのせいでどれだけお母さんが苦労してきたことか――」
「仕送りはしていただろう。それともなんだ、へそくりにでもしていたのか?」
「あんたの食費に消えてたのよ、遥香」
絶句する。
だが、わたしはくじけるわけにはいかなかった。
「とにかく、絶対に勝つからね」
母と父が握手を交わす。にこやかなのに火花の散るような緊張感が伝わってくる。すでに別居中の夫婦から、戦いに臨むランカーの表情になっていた。