逃走
逃げようと思い立つまでにそう時間はかからなかった。
わたしがいてはこの家はダメになってしまう。和也にとっては悪影響だし、母の戦いの足を引っ張ってしまうから。
財布と携帯電話だけを持って、部屋の窓の外をのぞきこむ。
憂鬱そうな黒い雲の渋滞が空を覆っている。雪でも降りそうな冷え込みだった。
「もしもし、優一?」
おそらく自宅にいるであろう優一に電話をかける。すこしでいい。彼と話しておきたかった。
彼氏はコール音に素早く応対した。
「どうした、こんな時間に珍しい」
時刻はまだ昼過ぎだ。
太陽の光が差し込まないせいで、夜のようなうす暗さだけど。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」
「――家にくるか?」
「いいの?」
「ちょうど母親もいないし、ミカンくらいなら用意できる」
和也は部活で留守にしている。テニス部は相当忙しいらしい。母は掃除をしていたが、気付かれないように玄関を抜けた。
隣にある結城家まではほんのわずかな時間でつく。
優一が玄関を開けるのと、わたしがチャイムを押そうとするのは同時だった。
「よう」
「お邪魔するね」
ジャージ姿というだけでは寒いのか靴下とパーカーを着こんでいる。おまけに家のなかでマフラーまで巻いているのだから相当の寒がりだ。
優一の家を訪れるのはとても久しぶりだった。
頻繁にお互いの家を行き来していたのは小学生低学年の頃までで、それっきり疎遠になっていた。家具や部屋の配置は変わっていないけれど、子供のころとは景色が違って見える。
「部屋、行こうぜ」
優一の部屋にはベッドと勉強机がおかれていた。教科書や参考書がきちんと整理されていて、本棚には少年漫画が並べられている。
ぬいぐるみやポスター類は一切ない。
――男の子の部屋だ。
「お茶出すからちょっと待ってて」
優一がもどってくるまでの間に、わたしの心拍数は跳ね上がっていた。
彼氏の部屋に上がりこんでしまったのだ。そういう意図できたのではないといえ、緊張しないわけにはいかなかった。
「で、用件って? 和也くんのこと?」
シスコンな弟の問題も解決しているわけではないが、わたしにはもっと大きな問題があるのだ。
「ちょっと信じられないことだけど――聞いてくれる」
わたしはキッチン・ド・ランカーのことについて洗いざらい話した。
電子レンジの向こうにある不思議な空間、美少年と口の悪い人工知能のこと、そして不条理な仕組みについて。
話し終えるまでに紆余曲折して、出してもらった熱いお茶がすっかり冷めてしまった。
ひと息にしゃべりつくすと、ちょうど飲みやすい温度になっていた。
「――そんなことが」
優一の反応はいくらか淡泊だったが、それでも目を大きく見開いていたので驚いていたのだろう。
「俺の母親も、それに?」
「参加してるってお母さんはいってた。ほとんどの主婦はそうだって」
「でも遥香は戦いたくない」
「うん」わたしはうなずいた。「あんなことしたくないって思った――恥ずかしいけど」
「で、逃げると」
「……うん」
わたしは、深く息を吸い込んだ。それを口にするには勇気が必要だったから。
「優一、駆け落ちしよう」
「断る」
あまりの素早い反応に、一瞬思考が停止した。
「駆け落ちしよ」
「外は寒い」
一世一代の頼みごとをこうも簡単に蹴りつけるとは。
それも理由が寒いから。
わたしは握りこぶしを固め、いつでも殴りかかれるように準備した。和也に対しての戦闘経験は豊富だ。
「よく聞け。俺は応援するつもりだ」
優一があぐらを組んだまま顔を近づけてくる。
「逃げることを?」
「おばさんの手伝いをすること。きっと将来必要なスキルになる」
「けど、わたし戦いたくなんてない」
「――だったら俺と結婚してくれ」
「へ?」
ふたたび思考停止。
優一はわたしの両肩に手をかける。
「俺と一緒になって、主婦になってくれ」
「え、あ、そんな――」頭がパンクしそうだ。「わたし働くつもりだし――」
「それでもいい。俺だって働く。けれど子どもができたときには、どうしても家にいなきゃいけない」
「子ども……」
「俺でもいい。遥香でもいい。どちらにせよ戦わなきゃならないんだ。家のなかにしろ、外にしろ。そのときにきっと役立つ」
「そんなことしなくていい方法は、ないの?」
「ないんだろうな、たぶん」と優一はいった。「家族を持つってのはそういうことなんだろう。昔からそうやって生活してきたんだ。形は違っても」
「――どうして?」
「子どものためだよ。遥香のお袋さんも、うちの母親も、父親だってそうだ」
母が逃げずにいままで戦い続けてきたのは、わたしたちのためだったのだ。
けど、わたしはその母の邪魔になっている。
「遥香のことを迷惑だなんて思ってるか? 家族っていうのは優しいもんだ。大切に思ってくれる人がたくさんいる。ちょっと失敗することなんかより、黙って逃げ出した方がよっぽど悲しませることになる」
和也も、言葉にだしていないけど母も、ひょっとしたら父も。
「足手まといになりたくないのなら頑張れ。それが恩返しになる」
わたしは優一の涼やかな瞳をじっと見つめ返した。水晶体の表面に、わたしの顔が映っている。
不意に、泣きそうになった。
「わたし帰るよ。お母さんと一緒に頑張る」
おもむろに立ち上がり、優一にありがとうといってから部屋を出ようとする。ふとさっきの言葉がよみがえってきて、耳が赤くなるのを感じた。
「ねえ、あれって本気」
「さあね」優一は笑った。「先に結婚しようっていったのは遥香のほうだからな」
幼稚園時代の甘酸っぱい記憶を引きずり出されて、わたしは赤面しながら部屋を出た。自室に戻ると携帯電話が震えた。
「俺も」
とだけメールには書かれている。
わたしの幼馴染で彼氏は昔からすこし言葉のたらない男なのだ。