挫折
わたしに割り当てられた部屋はトレーニングで使っているものよりも明るく、ペットボトルの飲み物までおかれていた。現実には飲んでいないのだとわかっていても、喉をうるおす感覚は本物だった。
部屋の広さは八畳くらいだろうか。
中央に巨大なモニターがあり、今回の舞台となる中華街の閑散とした様子を映し出している。
映像には母の姿しかない。相手の動きはわからないということだろう。視界に入るのは母の周囲五メートルといったところ。
待機所では純くんと話しながらリラックスした様子を見せている。長年、ランカーの戦いに身をおいていただけあって落ち着いた素振りだ。
わたしは深呼吸をひとつすると、モニターの前にある専用の座席に腰をおろした。
「――こちらの声は聞こえてる?」
母からの通信だ。
バーチャル空間ではマイクを使わなくても交信ができるらしい。将来は電話が必要なくなるのだろうか。
「感度良好」
「あんたはいつも通りやってくれればいいからね。ただ、全力は尽くしなさい」
短い激励を残して、母は待機所からワープした。
モニターの映像が中華街に戻る。どうやら街の各所には定点カメラが設置されているらしく、無人の街並みも確認することができる。そこを相手が通れば気付けるし、逆にこちらはカメラに警戒しなければならないということだ。
わたしは母に、カメラの位置と思しき場所を伝えた。
ステージをすべて把握しているわけではないので、正確な座標までは判断できない。とりあえずそれらしき位置を教えただけだ。
「相手はどこにいるの?」
わたしは母に聞いた。
「さあ? ランダムで決まるから、私の知ったこっちゃないわ。いきなり背後をとられるなんてことがないように気をつけてちょうだいね。もし奇襲されたらお小遣いを半額にするから」
「そんなぁ」
「嫌だったら警戒しておきなさい。相手だって遊びでやってるわけじゃないんだから」
母の目が厳しくなる。
そのとき、『それでは、対戦を開始してください』というアナウンスが流れて、舞台の幕は切って落とされた。
まっさきに母は隣にあった安ホテルらしき建物に飛びこんだ。
標準武器はお玉と中華鍋。オレンジ色のエプロンをひるがえしながらビルの階上へと疾駆していく。
「こういうときは上をとったほうの勝ち」
疑問に思っていると、母が解説してくれた。
無駄口は叩かない。ぶっきらぼうにも感じられる口調から緊張感が伝播してきた。
不自然なほどに散らかった屋内には死角が多い。いつどこから敵があらわれるともわからない。わたしはひとまず武器交換のことは忘れて、モニターに映る影に注意を向けることにした。
しかし、数分がたっても画面の乱れはない。
わたしは母にそのことを報告した。
「――陽動作戦をかけてみようかしらね」
「ようどう?」
「わざとカメラに映りこんで、敵に居場所を知らせる。襲撃しに来たところを返り討ちにするのよ」
「あ、それいいかも」
「敵も馬鹿じゃないわ。あんたのサポートがなければ絶対に不可能な作戦だからね」
「……はい」
作戦はシンプルだ。わたしの頭が悪くて覚えきれないからではない。シンプルな方が万が一のときに備えやすいのだ。
まずは母が定点カメラに姿を映す。
すぐさま場所を移動し、ビルの屋上に陣取る。屋上は視界が開けているから奇襲される心配もない。
「敵影なし」
「了解」
もしも屋上まで来ようと思ったら、必ずどこかのカメラに引っかかる。そこに直接勝負をかける。直接戦えば、実力は母の方が格上だ。それはランクの数字が証明している。
なんの変化もないまま五分が経過し、十分となった。
瞬きひとつしないものかと目を見張っていたせいで、瞳が痛い。都筑さんの姿は一向に出てこなかった。まるで鬼のいないかくれんぼだ。
「……ねえ」
「なによ」
「作戦変更した方がいいんじゃないの?」
「……煙くさい」
唐突に、母がいった。
「は?」
「あんた、ちゃんとモニター見てるでしょうね」
「もちろん――ん?」
雑然と家具が散乱している建物のなか、赤い光がちらちらと瞬いているのが見える。それだけではない。ほとんどの画面で炎の色が勢力を増しはじめていた。
乾燥しきった物体にとりついて、火炎はどんどんと大きく成長していく。炎の美しさに見入っている間に、気付けば視界のほとんどが赤く染まっていた。
間違いない。火事だ。
「まさかそんな大胆な手をつかってくるとはね――」
母がビルの屋上から下を覗き込む。そこには、ガスバーナーを持った都筑さんが仁王立ちしていた。
「遥香、アイスピック」
「え?」
「アイスピック。はやくしなさい」
ようやくそれが武器交換の指示だったのだと認識すると、わたしはパネルをタッチしてお玉をアイスピックへと変更した。
迷いなく地上にいるもうひとりの主婦へ投げ下ろす。
鋭くとがった弾丸は、ほんの一瞬前まで都筑さんが立っていた場所に突き刺さった。茫然としていると母からさらにアイスピックを要求される。両手に凶器を持った母は次々と雨のように武器を投擲する。
――怖かった。
アイスピックが刺されば人は死ぬ。バーチャル空間では痛みもなく、人も死なない。それなのに手が震えた。機械的にアイスピックを供給し続ける右の指は脳の制御を振りきったみたいに動いている。
母は巧みに都筑さんの進路を先読みして建物のなかへ逃げ込まれないようにしていたが、相手の武器が中華鍋に代わると、投げるのをやめた。
「遥香、ここからの脱出経路は?」
母の声がうつろに通り抜けていく。
「階下にはいけない。隣二軒の建物は燃えている。どうやって逃げるつもりかしら」
廃墟という油を注がれた炎は、いまや業火と化していた。とめどなく大きくなる火柱を確認する必要はない。あと数分もすれば母のいるところまで火が迫るか、建物が耐えきれなくなって崩壊するのは必至だった。
隣のビルに飛び移るにしても、先手を打たれている。都筑さんは通りをはさんで向かい側のビルの屋上にのぼっていた。
飛べば、間違いなく遠距離の攻撃を受ける。さきほど母がやったように。
「時間がないわ。なにかアイデアをひねり出しなさい」
「……わかんない」
「やりなさい」
「わかんない!」
思考が停止していたというよりは、あらゆる情報をいきなり詰め込まれたみたいな感覚だった。なにも考えられない。優一に告白されたときも、和也に告白されたときも、こんなにパニックになったりしなかった。
モニターに流れる映像は刻一刻とタイムリミットを近づけている。
わたしはそれらを茫然と眺めていた。母の怒声がいやだった。ひょっとしたら声を荒らげているわけではなかったのかもしれない。でも、そのときのわたしは激しく叱責されているようにしか感じられなかった。
「――遥香」
「……わかんないよ」
「あんたはオペレーターだけど、その前に私の子どもなんだから、困ったときには頼りなさい」
「お母さん――わたし、もう無理だよ」
「じゃ、今日のところは応援してあげるわ。ニクキリボウチョウ、ふたつね」
無意識のうちに指が動いていた。
母の両手に肉切り包丁が装備される。
そして、片方をブーメランのように思い切り投げ放った。向かい側にあるビルまではおよそ十五メートル。その距離を、左にカーブしながら頭ほどもある巨大な包丁が舞う。
引き寄せられるかのように襲いかかる包丁を敵が避けた瞬間、母はビルの真下に向かって跳躍した。
幅の広い包丁の刃を壁面に突き立てながら落下していく。わずかに減速した彼女の身体を、露店のテントが受け止める。
「ブルース・リーに感謝しなきゃね」
そうつぶやくと、すぐさま都筑さんのいるビルににもぐりこむ。
あっという間の出来事だった。相手も屋上で応戦するつもりはないらしく、ビルのなかへ戻る。階段を駆け上がる母の周囲には、様々な障害物がおかれている。
外れかけたドア、なぜか転がっている椅子、誰かの飲みかけのビール瓶。
身を隠して待ち伏せをするにはうってつけの舞台だ。都筑さんがどこに潜んでいても感づくのは不可能に近い。バーチャル空間に気配という概念はあるのだろうかと、ふと思った。
母は全十階層のうち七階まで来ると、足取りをゆるめた。
そこに誰かがいるのを知っているかのように警戒した様子で進んでいく。
「遥香」
という声がして、
「オタマとチュウカナベよろしく」
ショートカットキーに登録されている装備に交換する。臨戦態勢に入ったのだろう。都筑さんが待ち伏せしているという確信があるのだ。
わたしは、自分がまだ何も報告していないことに気付いた。
「私が指示したらすぐに反応できるよう準備しておきなさい」
母は次の瞬間、全力で廊下を走りはじめた。
ありとあらゆるところに死角があるのも構わず、フロアの端まで疾駆する。半開きになった空室の横を抜け、ビール箱の山をジャンプ一閃で乗り越え、廊下の角に迫る。
死角となっている位置から打ちこんできた都筑さんの出刃包丁と母の構えた中華鍋が、鈍い音を立てて衝突した。
続けて、二合、三合と打ちあう。
お玉で包丁の切っ先をうまく反らし、隙ができたところに中華鍋をぶつけようとするが、都筑さんは後ろに下がって回避した。
トレーニングとはまるで違う。実戦においては一瞬の気の緩みも許されない。
「――まさか火を放って来るなんて思いもしなかった、とでもいってほしいかしら」母はすっとお玉を地面と平行に構えた。「うちの娘が初心者だと見こんでの作戦だったんでしょうけど、あいにくそれくらいは想定済みなのよ。だてにキッチン・ド・ランカーをしてるわけじゃないわ」
都筑さんは無言で、出刃包丁とフライパンを顔の近くにもっていく。ボクサーのような構え方だ。
「わざと相手に弱点を見せるなんて、バカのやることだと思う? あんたも子どもの親なら覚えておきなさい。どんなに自分の子どもが可愛くたって甘やかしてばかりじゃ育たないのよ。ちょっと私たちが苦しいくらいで、せっかくの教育の機会を奪ってしまうようじゃ失格ね」
「……それは、どういうつもり?」
「子育ての先輩からのアドバイスよ、よーく心に刻んでおきなさい」
ひと回りは年の離れているだろう相手に向かって、母が連撃を仕掛ける。
お玉のジャブをはさんで、中華鍋の大振りが次々に繰り出される。トレーニングでも見たことのある動きだ。
都筑さんは大振りになった中華鍋の一撃をかわすと、カウンター気味に出刃包丁を振りかぶった。
――次の一手は。
母があの攻撃を回避しそこなうことは考えない。防御のための道具はそろっている。それよりも大事なのは、素早く反撃に移ること。母の指示が来るよりも先に、菜箸を選択する。E4との訓練では一度もできていなかった操作。
母の口元がうっすら笑った気がした。
出刃包丁の側面をお玉で叩く。肩口すれすれを包丁の刃が通過した。その直後、一対の武器が突きだされる。フライパンで防ごうとするが、間に合わない。
わたしは目をつむった。
間違いなく母の一撃は相手の心臓をとらえていた。武器をとり落す音が聞こえて『早坂喜美子さんの勝利です』というアナウンスが流れる。
『勝利ポイント五十対十――引き続き、料理バトルへ移行します。ランカーには十分間の休憩が与えられます。オペレーターは各自待機室へ移動してください』
一連の戦闘を振り返る暇もなく、わたしは待機所へとワープしていた。
「お疲れさまでした」
純くんが出迎えてくれる。母は普段通りの表情で、ペットボトルを口にしていた。
待機室のテレビ画面には、自宅のキッチンと瓜ふたつの試合会場が映し出されている。わたしは力なく地面に座り込むと、頬が濡れたのを感じた。
涙を見られたくなくてうつむく。
「あんたはよくやったわよ」
母の励ましにこたえることはできなかった。震えた声を聞かれたら、泣いているのだと悟られてしまう。
無言の時間が続いて、母が料理対決に向かうと、わたしは顔を上げた。無表情の美少年が立っている。
「お母さんは――こんなことをずっと続けてきたんだね」
「はい」
「純くんもオペレーターは苦しかった?」
「僕は人工知能ですから」
「誰かと戦うのって、全然いい気持ちじゃないね。どうしてスポーツなんかするんだろう」
「僕にはわかりかねます」
「キッチン・ド・ランカーってどうして戦わなくちゃいけないの。普通の主婦として暮らしていけないの」
「人間は戦いながら生きていくものです。サラリーマンだって形は違えど戦っています。そして、戦いを求める人々がいるのです」
「企業が? 軍が? わたしこれ以上、戦いたくなんてない」
「……戦うのは悪いことだと思いますか?」
「他人を平気で傷つけられるような人間になんてなりたくない」
「主婦とは基本的に誰からも感謝されない仕事です。毎日食事を作り、洗濯をし、掃除機をかけ、買い物に出かけても、ありがとうの声をかけてさえもらえない。一年に一度、母の日だけとりつくろったような感謝の気持ちを伝えても、それで満足できるものでしょうか。誰だって仕事をすれば評価されたいものです。その声を代弁しているのが、キッチン・ド・ランカーなのです」
純くんは抑揚のない声で続けた。
「戦うのはつらいでしょうか。勝利すれば嬉しい。ランクも上がる。評価される。努力が結果に結びつく。主婦にとっては理想的なシステムです」
「でも、こうしなきゃ生きていけないから、無理やりやらされてるんでしょ」
わたしは声を大きくした。
美少年に諭されそうで、納得してしまいそうだったから。
「戦いに参加しなければ生活が苦しいのは事実です。ただ、生きていけないというほどではない方もたくさんいらっしゃいます。切り詰めた暮らしをすれば営みを継続することは可能です。それでなお、なぜ戦うのをやめないと思いますか? 家族のためです。そして、自分のためです」
「…………」
「企業や軍に利用されているのだと気付いていても、ランカーは戦いをやめません。自分の大切な人のために戦う」
「だからって――」
「僕が決めることではありませんが、ランカーが戦う理由は確かに存在します。誰も傷つかない戦いになんの不満があるんですか」
わたしは言葉に詰まった。
黙って膝を抱えたまま、料理の対決が終わるのを待つ。わたしひとりでは帰ることすらできない。
『料理ポイント三十対四十五――トータル四十対九十五で早坂喜美子さんの勝利となります。本日の対戦は以上です、お疲れさまでした』
母が帰ってくる。
わたしは、足手まといだ。