初戦
夜、ベッドに入ったはいいものの寝付けなくて、メールの着信もない携帯電話を無暗にパカパカ開閉していた。
パソコンや携帯の画面は寝る前に見ないほうがいいと聞いたことはあったが、そうせずにはいられなかった。
厚い毛布をはいでカーテンを開けると、いかにも冷たそうな黒い夜空のなかに三日月が貼り付けられていた。窓を開ける。氷が吹いた風がわたしのパジャマをあおった。
「――あーあ」
時計を見ると夜中の二時を回っている。
わたしは部屋の電気をつけると、和也の部屋の前まで行こうと決意した。
階下にいる母を起こさぬよう二階の廊下をしずかに渡る。和也の部屋は斜め向かいだ。
「……あんたはちょっとおかしな弟かもしれないけど、わたしなんか好きにならないように頑張りなよ。わたしもあんたのために頑張るからさ」
小さな声でそう告げる。
わたしは無音の道を戻ると、あらためて毛布をかぶった。
和也は部活でいないので、わたしと母は気兼ねなくレンジの前に倒れこんだ。
すぐさま見慣れたバーチャル空間が視界を覆いつくす。白い、無機質な壁紙はいつもより無感情だった。
「お待ちしておりました。こちらがデータになります」
純くんが空中に四角を描くと、その場にモニターができあがり、次の対戦相手のプロフィールを表示した。
「都筑さん――三十代か。ランクはお母さんよりもかなり下だね」
「油断しちゃだめよ。どんなに実力があっても初めのうちは低いランクなんだから」
母はちっとも緊張していないようだった。
普段と変わらぬ表情で、淡々と相手のデータを読みこんでいく。
「得意分野は戦闘、勝率は三割程度――」
「お母さんって、料理と戦闘のどっちが得意なの?」
「料理に決まってるじゃない」
即答された。
「戦いなんて生臭いもの、実生活にはなんの役にもたたないでしょ。数学と国語みたいなもんよ。難しい方程式なんか覚えてるよりも漢字が書けるほうが有益ってわけ」
「料理はあんまり教えてくれないよね」
目玉焼きを作った朝以来、わたしは料理の手伝いをしていない。
絶望的な才能のなさに愛想を尽かされたのかと思っていた。
「あんたがふたつのことを同時にこなせるくらい器用だったら教えてたんだけど、ピアノも右手と左手どちらかしか弾けなかったじゃない。だからやめといたの」
「昔のことを……」
「人間は成長してもたいして変わるものじゃないのよ。要は気の持ちようなんだから」
そのとき、ブザーが鳴って試合開始三十分前であることを告げた。
「じゃ、行ってくるわね」
といって母はトレーニングルームに準備運動をしにいった。バーチャル空間であっても事前に身体を動かさなければ、力を十分に発揮できないのだ。
わたしもE4の待ち受けるモニタールームに移り、操作の最終確認をすることにした。
巨大なモニターがわたしを呑み込もうとでもいうように大口を開いている。練習用のプログラムを起動させると、指を走らせた。
『いよいよ本番だな』
天井からE4が話しかけてくるのが聞こえた。
『ここまで来たら教えられることはない。あと三十分じゃなにが上達するってわけでもねえからな。せいぜい緊張しないよう諭すくらいだが、いっただけで簡単にできるようになるならお前みたいなトンマの世話を焼く必要もないんだよな』
いまはのんびり会話する気分じゃない。
失礼な人工知能は、さすがに日本製というだけあって最低限の空気を読むことはできるらしく、数分もすると押し黙った。
三十分はあっという間に経過した。
「それでは、会場へご案内いたします」
純くんの指示に従って、わたしと母はプライベートルームからまったく見知らぬ空間に移動する。
試験会場のような張りつめた雰囲気。
「こちらが今回の会場になります」
目の前に広がっていたのは、映画で見るような狭苦しい中華街だった。香港かどこかをモチーフにしたのだろうか。
読めそうで読めない漢字をのせた看板や、ぼろきれのようなテントを張った露店が幅の狭い道路の両脇に詰まっている。雑多な食べ物のまじった匂いが漂ってきそうな風景だ。
ただひとつ異様なのは、そこに人間がいないことだった。
詰め込まれた建物は、同じくらい密集した人の流れがあるからこそ映えるものだと初めて気付いた。
廃校になった小学校のように、そこは寂しげな街並みをたたえているように見えた。
「これ――どこまで続いてるの?」
わたしは建物の一角をのぞきこんだ。
うす暗い店内はどうやら食堂らしかったが、幽霊さえも出てきそうな気配はない。
「戦っていても不便のないくらいには、かしら」
「トレーニングのときとは全然違うんだね……」
「戦闘ではバーチャル空間のシュミレーションテストを兼ねています」
「テスト?」
純くんがうなずく。
「バーチャル空間では現実と違って、すべてをデータで表現しなければなりません。しかし本当にすべてを再現しようとすると、世界中のコンピューターを使っても足りません。どこまで現実を省略して表現できるのか――また、不測の事態においてどうやって対応するのか、などを検証しています」
この戦いはすべて研究開発に関わっているのだと、いまさらながらに思い知らされた。
ひょっとしたら軍事開発の一環なのだろうか。そうであれば、これだけ大規模なキャンペーンを展開するのもうなずける。
だが、いまのわたしにはキッチン・ド・ランカーの裏事情まで勘ぐっていられる余裕はなかった。
「あちらが本日の対戦相手――都筑様です」
中華街の向こうから、ふたり連れのおばさんが歩いてくる。
片方は青いエプロン姿。これが都筑さんだろう。三十代と記入されていたが、それよりも若いように見えた。会社を寿退社したばかりというような雰囲気を出している。
もう片方はおそらく純くんのと同じ人工知能なのだろうが、容姿は比べようのないくらい劣っている。なにせ都筑さんよりも老けていて、底意地のわるそうな目をしているのだ。髪にはご丁寧にも白髪が混じり、頬の肉もたるんでいる。
おそらく、純くんの前任者だった人工知能もこんな感じだったのだろう。不愛想なおばさんだと母はいっていた。
「よろしくお願いします」
ふたりの対戦者たちの手がさし出される。
都筑さんは、ちらりとわたしに視線をやった。
「娘さんですか?」
「ええ。――今日がはじめてのオペレーションなんですよ」
「それはそれは……」
チャンスだといいたいのか、舐められたものだといいたいのか、好ましくない視線がわたしの全身をなぞる。
真剣勝負の舞台になに小娘を呼んでんのよ、という悪意を隠そうともしない。
都筑さんは口元を歪めた。
「記憶に残る勝負になるといいですね」
「ええ」
ふたりの戦士は握手を終えると、それぞれの待機場所へ向かった。