プロローグ
それはまさに、ハイエナの闘争だった。
エコバッグを提げた主婦たちが朝の山手線さながらにひしめき合い、開幕のときを待っている。山手線がサラリーマンたちの戦争だとすれば、これは主婦たちの戦争だ。
わたしは改めて感じる圧倒的な恐怖にうちのめされそうになりながら、懸命に足を踏ん張っていた。
肉感などと口にしたら間違いなく圧殺されるだろう。だが、ふくよかなわき腹に貯えられた脂肪分は、どんな屈強なスポーツ選手よりも強くわたしを押しのけようとするのだ。
気を抜けばあっという間に戦場からはじき出されてしまう。
目標はただひとつ。本日限定の、産地直送、格安卵(おひとり様一パックまで)。
「遥香
はるか
、しくじるんじゃないよ」
「――わかって、る」
わたしをこの死地に連れてきた母を恨めしく思う。が、彼女がいなかったら戦線に並ぶことすら無理だったのも事実だ。
針の穴を通すように人の隙間をかいくぐり、卵のパックが山積みにされているコーナーを視野にとらえる。追いかけるのは母の背中。これを見失ったらアマゾンの激流に流されてしまう。
「卵はやわらかいからね。潰さないように気をつけるんだよ」
「その余裕が、あれば、だけど」
「あんたの身なんてどうなってもかまわないのよ。大事なのは卵を二パック確保することなんだから」
「…………」
実の娘を思いやる言葉なんて微塵もない。
わたしは母に殺意を覚えた。
そもそもわたしがなぜスーパーの特売コーナーなどという乙女に似つかわしくない場所にいるのかというと、母が睨みつけるようにして読んでいたチラシのせいなのだ。
価格の優等生のくせに値下げされた卵を買うために、母はお伴を探していた。普段は犠牲になるのは弟の役割なのだけれど、今日ばかりは不幸なことにわたしが白羽の矢を立てられた。
どこへ逃走したのか知らないが、弟が今朝の広告をしっかり確認していたのをわたしは目撃している。
上官、彼は敵を目の前に逃げ出したのです!
ならば貴様が来い!
という一方的な問答があって、わたしは鬼に引き連れられたというわけだ。
「ねえ、お母さん」
ちょうどそのとき、特売の開始を告げるベルが鳴り響く。死刑宣告の前に遺す言葉は、人の波に呑み込まれた。
「わたしのこと愛してくれています――かっ!?」
荒れ狂う奔流に抗うことは不可能だった。歴戦の主婦たちによる圧迫感は四方から襲いかかってくる。誰かの背中が口をふさぎ呼吸が出来ない。暗くなっていく視界。かすむ意識。もうダメだ、そう感じたとき――わたしの手にプラスチックの感触が押し付けられた。
「ほら遥香、レジに行くよ」
洗い物でがさついた手がわたしの身体を引きあげる。
人の海から顔を出すと、ぜいぜいと呼吸を整える。助かった……。
母はわたしを掴んでさっさとレジに向かうと、ふたつで六十円という破格の戦利品をバッグに詰め、足取り軽く帰路についたのだった。