表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/54

第一章【振り返れ】 8

「ありがとうございます。不思議なお話ですね、面白かったです。知人の方とは今もお会いになるんですか?」


「いや、最近は……」


 其処で私は言い淀む。自らがたった今、話した内容にあったように、自分が何かを忘れているような気がしたのだ。そして、それが思い出せない。私はまるで自分が話の中の男になったようにも思え、不可思議な感覚に陥った。


「どうかしましたか?」


 黙り込んでしまった私に彼女が声を掛ける。いや、何でもないんだと答え、私は立ち上がる。どれくらいの時間が過ぎたか分からないが、彼女があまり長らく売り場を空けるのも良くないだろう。


 私は休憩中の札が立てられたままであろう売り場を思い描き、そろそろお《いとま》するよと告げると、彼女も立ち上がる。先に行って最中(もなか)を用意しておきますね、今日は本当にありがとうございました、と彼女がお辞儀をする。心なしか「本当に」という言葉が強調されたように私は感じた。


 小部屋を出て行く彼女の後ろ姿を見ながら、私は先程に覚えた小さな引っ掛かりは一体何だったのかと思い耽る。知人の方とは今もお会いになるんですか? という彼女の言葉を今一度、反芻(はんすう)する。そして、ふと彼女が使っていた筆、硯、和紙に目を遣る。だが、特に何かを思い出すきっかけには成り得ず、気のせいかもしれないと思い直し、私は草履を履いた。


「振り返れ」


 不意に背後から聞こえた声に、その言葉のまま、私は振り返る。其処には、彼がいた。座布団のような、猫のような、灰色の彼が。


 そういえば話をしている間、彼は一言も口を開かなかった。話すことに気を取られていたので、彼がどんな様子でいたのかも分からない。


「ずっといたのか。退屈しなかったか?」


 彼は瞳を閉じたまま、じっと此方を見ているような気がする。何とも居心地の悪さを覚え、私は彼から視線を剥がし、小部屋を出ようとした。彼は私の後に続きながら、低く小さく呟いた。


「愚かな」と。


 それは独り言と称するには大きく、私に向けての言葉だとしたら小さく。ただ、まるで棘のように刺さる声だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ