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第一章【振り返れ】 6

 思わず下を見ると、彼が私を見上げている。この場合の、見上げている、というのは私個人の判断に過ぎない。何となく、彼が此方をじっと見ているように思えたのだ。彼は耳と尻尾はいつものように平面上から生やしてはいたが、その両目は閉じられていた。まるで、其処には初めから瞳など存在しないかのように。


 不自然に行動の止まった私を訝しむように、目の前に立つ彼女が先程よりも首の角度を大きくする。どうやら彼の声は彼女には聞こえなかったようだ。私は彼の言葉の意味を考えるよりも彼女に不審がられることを懸念し、手に持っていた最中(もなか)を口にした。噛むと、しっとりとした餡が広がる。


「お味は如何ですか?」


「ああ、おいしい」


「よろしかったらお求めになりませんか?」


 ふわりと舞う春の綿毛のように彼女が微笑む。それがたとえ万人に向けられた売り子としてのものであろうとも、私は確かに少なからず惹かれたことを否定出来ない。


「ああ、そうしたいが手持ちがなくてね」


 私は何故か少しの銭も持っていなかった。財布すらないのだ。気恥ずかしさを誤魔化すように頭に手を遣る私を、彼女は笑顔を崩すことなく見つめている。そして、春の風のように穏やかに口を開き、告げる。


「でしたら、何かお話を聞かせて頂けませんか?」


「話?」


「ええ。私、面白いお話を聞くことが好きなんです。特に気に入ったものは書き留めていて、そうしていつか草紙を出版することが夢なんです」


「へえ、それは素敵な夢だ」


 ありがとうございます、と彼女が微笑む。


「そういうわけなので、もし何かお話を聞かせてくれるのでしたら先程の最中(もなか)をお礼に差し上げます」


 私は、特別にそれが欲しかったわけでは無い。美味だとは思うが、私はさして甘いものを好まない。自分から甘味を買ったことは片手の指で足りる程だ。だが、どうしてだろう、「何かお話を聞かせてくれるのでしたら」という彼女の言葉が、まるで走馬灯のようにくるくると頭の中で廻り続けている。


 私は彼女の言葉に頷き、売り場の奥に設けられている小部屋で少しの間、彼女に話をすることにした。売り場には「休憩中」の札が立てられる。


 そして彼女に続いて売り場の奥へと足を進める私の後を、影のように彼が付いて来る。彼はいつも、こうしてずっと私に付き従うようにして決して傍を離れることは無いのだ。


「退屈なら他を見ていても良いぞ」


 私なりの彼に対する気遣いだったのだが、彼はそんな言葉など聞こえていないかのように相変わらず瞳を閉じたまま黙って私に付いて来る。


「狭い処ですけど」


 僅かに恐縮した様子で彼女は私に座布団を勧める。私は草履を揃え、座敷に上がり、礼を言って座る。すると彼女は小さな机の上に置かれたままになっていた、筆、硯、和紙の束を手に私の正面に座った。既に硯には墨が用意されていた。


「それでは、よろしくお願いします」


 改まって彼女にそう言われたものの、何を話せば良いかと私は逡巡した。面白い話と彼女は言っていたが、そう一括りにするにも話というものは多くあり、面白さにも様々な種類があるだろう。

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