第六章【再会】 4
「これ、借りても良いでしょうか」
不意に私は幻想から呼び戻される。気が付けば少女は私の前に立ち、一冊の本を差し出していた。
私は慌てて首肯し、返答する。台帳を取り出し、朽葉に言われた通り、書物の題や著者名などを書き留めようとした。その時であった。目に飛び込んで来た題は【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】であり、それは朽葉に探すよう頼まれていた本だということに気が付いたのだ。その気付きが顔に出たのだろうか、少女は「どうかしましたか?」と尋ねた。
私はどう答えるべきか思案し、同時、この本を貸し出して良いものかどうかを悩んだ。朽葉に確認を取るべきだろうか。
「この町の北に沼があるのをご存知ですか?」
突然、脈絡の無いことを振られて私は少々、反応が遅れた。
「沼?」
顔を上げて尋ねると、少女は深く濡れたような瞳で私を見返した。
「そうです。結構大きな沼で、此処らでは割と有名なんですよ」
「いや、知らないな」
「良かったら、明日、私と一緒に見に行きませんか?」
少しだけ首を傾けて少女は微笑む。その細く頼りの無い三日月のような微笑みが、強く私を惹き付ける。だが、私は少女のことを知らない。初対面だ。初対面の筈だ。しかし、まるで旧知の仲のように目の前の少女は微笑む。私は、その笑顔に言葉では説明し難い感情を覚える。強いて言うならば先程にも思ったことだが、過ぎ去った昔日を思い返しているような。これは一体、何なのだろうか。
そして私は、本当に彼女と初対面なのだろうか。その柔らかな表情に見覚えがあるように思うのは、果たして気のせいなのだろうか?
「無理なら、良いんです。この本を貸して貰えれば、それで」
私の思考を断ち切るようにして、表情とは相反する張られた弓弦の如く、しっかりとした声音で彼女は言った。
そして、受付台の上に置かれた本の上に、その白く細い指を数本、添える。私は今一度、朽葉に確認を取るべきか思い悩んだが、彼女の芯の通った物言いに半ば押されるようにしてその本を貸し出すことにしてしまった。台帳には、それぞれ記入すべき欄が予め設けられている。それに従い、私は以下のように記入をした。
題:産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる
著:鳴日
人:春野華
著作者名は何かに引っ掻かれたようにして掠れており、全てが読み取れない。私は仕方なしに名のみを記入した。
少女は一つお辞儀をし、大事そうに本を抱える。
そして彼女が引き戸を開けた時、私はほとんど衝動に突き動かされるようにして言った。それは、ありきたりな言葉だった。しかし、私にとってそれはひどく重要な一言だったのだ。
「何処かで会ったことはありませんか」と。
少女はゆっくりとこちらを振り向き、次いで同様にゆっくりと笑った。少女の動作はその多くがとても穏やかで、まるで春の陽射しのようだった。春の小川のようだった。私は、ふらふらとそれに引き寄せられているのだろうか。
少女の唇が美しく弧の形を描いた後、鈴のような声で私を包み込むようにして言葉を放つ。
「お忘れですか? 二度程、お話を聞かせてくれたではありませんか。菓子商店で売り子をしていた者です」
――そうだろうか?
私が最初に思ったことは疑問だった。確かに、「菓子商店にいた売り子」と会ったことは数度、菓子代の代わりに話をしたことは目の前の少女の言う通り、二度ある。また、それ以上の関係性はありはしない。
だが、幾らそれだけの縁だったとは言え、そう遠い出来事では無いのだ。初めに出会ってから十日も経っていないだろう。それだけの日数で、私は私が出会った人間のことをすぐに思い出せない程に忘失してしまうのだろうか?
それに、「彼女」は菓子商店を辞め、故郷に戻ったと聞いている。確か、菓子商店の女主人が、そう言った筈だ。ならば、目前の少女は一体誰であろうか。そういった疑念が私の表情に滲んでいたのだろう、少女は私の疑心を掬い取ったかのように答えを教えてくれた。
「つい先日、菓子商店を辞めて故郷に戻ったんですが、此処の町が懐かしくなって。そういえば、お土産も何も買わずに帰ってしまったなあと思い、少しだけ戻って来たんです」
「そう、だったんですか」
「何だか、この世の者では無い者を見るような目ですね。そんなに不思議ですか?」
私が、此処にいることが。
言外にそう告げて、少女は再び美しく、ゆっくりと微笑む。薄暗がりの中でもそれと分かる程、その微笑は美しいのだ。ただ、それだけのこと。それだけのことなのに、胸がざわつくのは何故だろうか。黙りこくってしまった私を意に介した風も無く、抱えた本を持ち直し、少女は自らの名を名乗った。
「私、春野華と言います」
はるのはな。行灯の明かりの下、手元の台帳に目を落とすと、先程に私が書き記した「春野華」という文字が目に入る。
「あと数日は、この町にいます。この本を返す時、またお会い出来たら良いですね」
私の返答を待たず、あるいは欲せず、少女――元、菓子商店の売り子である春野華――は今度こそ戸の向こう側に去って行った。私はそれを何処か夢心地で見つめ、そして、しばらくの間、閉じられた戸から視線を剥がせないままでいた。