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第五章【対峙】 1

 晴天。三日の雨を終えた空は高く遠く晴れ渡った。早朝、私はその色と空気を目に収めてから軽く眠りを取り、今に至る。灰色の彼はいつもの定位置、板間の右奥の片隅で未だその両眼を閉じ、微動だにしない。起きているのか眠っているのか良く分からなかった。


 私はおもむろに家屋内を見渡す。さして多くの時間を此処で過ごしたわけでは無いのに、何処か懐かしさを覚えるのは何故だろう。或いは元の私の家もこのような造りなのだろうか。


 そんなことを考えながら、私は座布団を引き寄せ座り込む。そのまま天井へと視線を向ける。暗く沈黙した木の板や渡された(はり)が映るだけで、取り立てて変わったことは無い。


 そう、此処では何も変わったことなど無いのだ。立ち並ぶ家々、行き交う人々。そして町の中心と思われる位置に存在する菓子商店、その生業(なりわい)、其処にいる人とあやかしのような猫。あやかし。自分で思い、私は今、唐突にその言葉がしっくり来ると改めて頷く。


 もう一度、灰色の彼の方へと目を遣ってみても、彼は今も先と変わらぬ姿でまるで置物のようにして静かに其処にいた。呼吸の音すら聞こえない。距離のせいだろうか。


 だが、それを差し引いても、およそ生物の息吹というものを彼からは感じ取りづらい。どうしてだろうか。たとえどんな姿をしていようと――それがまるで座布団のような猫のようなものに見えようとも――人の言葉を解し操る彼は間違い無く生きている筈なのに。それが少しばかり奇妙に見えるのは確かだが、灰色の彼も朽葉も生きていることは明らかだ。死人は口を聞かないのだから。


 昨日、朽葉は言った。僕達は無なんだ、と。無が有を気取っているものの集まりだ、と。そして私のことは、有だと。無と有。その違いは一体何だろう。


 私は再び灰色の彼から天井中心へと視線を移し、疑問の答えを探る。だが、分かる筈が無いのだ。此処に来てから考えがしっかりとまとまったことが一度も無い。柔らかな泥沼の奥深くへと沈み行く硝子のかけらを追うようなものだ、喩えるならば。


 それでも、昨夜の朽葉の言葉はそれぞれにかけらとなり私の脳内をひどく緩やかに、ぐるうりと廻り続ける。それは回転灯篭(かいてんどうろう)のようなもので、見ている内に私は何かを思い出せそうな郷愁とでも言うべきものを覚える。


 しかし、誰より私自身が良く分かっている。誘う郷愁は、ただそれだけのものであり、私にとって劇的な変化を思考や心情にもたらすものでは無いと。心地の好い、ぬるま湯に全身を浸しているようなものに過ぎないと。そして私には最早――或いは最初から――思い出せる、思い出すべき故郷の記憶が自らの内に無いことを知っていた。


 此処へ来て最初の間、私は何度、灰色の彼に名前を尋ねただろう。そのたびごとにはぐらかされてしまったので今でも私は彼の名を知らない。しかし、私はもう彼に名前を尋ねることはしないだろう。たとえ何かの気紛れで彼が私の質問に答えてくれた所で、私はそれに返すだけのものを持たない――つまり私は私の名前をいつの間にか忘れてしまっていることに気付いてしまったのだから。


 故郷も、自分の名前も知らない、思い出せない。それは普通なら恐ろしいことだろう。ある筈のものが胸中に無いのだ。失ったものを取り戻したいと考えるのが自然なことではないだろうか。しかしながら不思議なことに、私は今の自分の状況に恐怖は覚えていないのだ。理由は分からない。ただ、帰るべき場所があったこと、自らを表す名があったこと、それが今、記憶の中には存在しないこと。そういった事実のみが現実として私を包んでいる。それだけだ。


 ――お前はどうしたい?


 ――振り返ってみても、何処に戻れば良いのかも分からない。それでも私は、戻りたい。


 ――おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ。


 時間にして何時間前の会話だろうか。然程の時は過ぎていない筈だ。それなのに何処か遠く感じられる。私を含む三者の声が狭苦しい私の脳味噌の房室の一つを占有し、いつまでもいつまでも降り止まぬ雨のように楕円を描き、廻り続ける。


 いや、雨は止んだのだ。私は背後を振り返り、玄関引戸の向こう側で降り注いでいるのは雨雫ではなく陽光であることを確かめる。そう、今は晴れている。私の思考は今一つ要領を得ないようだ。自分でもそれは分かるのだが、その軌道修正が叶わない。私は今、何を考えていて何を考えるべきなのか?


 ――お前はどうしたい?


 灰色の彼の言が今一度、強く響く。

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