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第三章【遭遇、降雨】 8

 途端、まどろみの中を泳いでいたような私の意識が引っ張り上げられた。目線を下げると、濡れ鼠のようになった彼が今朝のように瞳を開けて其処にいた。そして彼は間違い無く、菓子商店の店主を見ている。いや、睨んでいると言った方が的確かもしれない。鋭く磨かれた闇夜のような視線を射るように注いでいる。


「何用だ」


 低く、彼が言った。


「ご挨拶だね。私は話があって来ただけさ。もう用は済んだ。お前にも言いたい事はあるのだが……」


 二者の間に沈黙が生じる。重圧のある空気が流れた。


「またにするよ」


 硝子(がらす)に亀裂を入れるように女店主は言い、ひらりと片手を上げて出て行く。開く傘の色は黄丹(おうに)。身に纏う物を赤系統で統一した彼女の後ろ姿は、一輪の花のようでもあった。同時に、何か不吉な、禍々しいものを覚える。思えば今日、私は彼女を見た時からずっと心に引っ掛かるものがある。雨に紛れて遠ざかる赤を見送りながら、私は記憶を探っていた。


「おい。あいつに何を言われた」


 足元の彼が私を見上げて尋ねる。その両目には、幾らか和らいだとは言え、未だ牙のような鋭利さが湛えられたままであった。


 私は気圧されながらも、菓子商店で売り子をしないか提案された事を伝えると、それでどう返答したのかと更に尋ねられる。私は彼に体を拭くよう布を差し出し、返事はまだしていない旨を話す。彼は安堵したように一つ大きく息を吐き出した。


「それで、他には? 何か余計な事を言わなかっただろうな」


「余計な事?」


「そうだ。さっきはまさにそれを言おうとしていただろう。私がお前に注意して行かなかった事も悪いが」


 彼は布をぐるぐると全身に巻き付け、それをぎゅっと自らに引き寄せるようにして水を吸い取らせると、ぱさりと落とす。そして大きく体を震わせた。雫の残滓(ざんし)が、ぱたたたと散る。


「私が、あの本を借りて来た事は内密にしろ。貸し本屋でも本来、門外不出の書物となっている。無理を言って借りて来たのだ。お前の為に」


 ひょいと土間に上がり、彼は私を改めて見る。


「出掛けにも言ったが、どうしてあれを私に借りて来たんだ?」


「……本当に、分からないか」


 微動だにせず、彼は呟くように問い返す。私は思わず息を飲んだ。


 まるで全てを見通しているとでも言うかのような彼の闇夜の瞳が、私を引き寄せ続ける。私もまた動く事が出来ず、其処にいた。風がページを捲るようにして書物の内容が私の脳裏に蘇る。


「私が昨日見たものは、夢では無かったのか」


 しばらく後、知らず俯き、私は半ば独り言のようにそう言った。


 見た事も無い、山のように巨大な金色(こんじき)の生物。丑三つ時に響き渡った、何かを引き摺るような不気味な音。生き物の背が割れ、その中に見えた血のように鮮やかな猩々緋(しょうじょうひ)。そして、其処に捕らわれるようにして存在していた――私の見間違いでなければ――数人の、人間の姿。それらが一時(いちどき)に思い出される。これらは皆、昨夜に読んだ書物に書かれていた事と酷似していたのだ。


 気付いているかもしれないが。そう、前置きして彼は続けた。


「あれは体験記だ。昔、此処を訪れた人間が書き残した。それは禁じられた行為だ。お前はまだ知らないと思うが、此処では幾つかの決まり事がある。その一つに、『此処での一切を書き記すべからず』というものがある。それを知った上で、その人間は原稿を書き、書にまとめた。勿論、誰に言うつもりも無かった。それは、ごく個人的な手記のような、趣味のようなものだったのだ。だが、禁は禁。どんなつもりであろうとも例外は認められない」


 彼は言葉を切る。顔を上げると、瞬きのない瞳が私を縛る。私は、恐る恐る続きを尋ねた。


「それで、その人間はどうなったんだ」


「死んだよ。もう遠く昔の話だ」


「……殺されたのか?」


「そう表現しても差し支えは無い」


 身が凍る思いとは、まさにこういう事だろう。私は背筋を急速に這い登って行くものがあった。しかし、今の話と私が、どのように結び付くのだろう。私もいずれ、その人間のように殺されると――彼はそう言いたいのだろうか。すると、私の胸の内を見透かしたかのように彼は再び口を開いた。


「お前が禁を犯しさえしなければ、殺されるなどという事は無いさ」


「禁と言われても、私は何一つそれを知らないのだが……」


「言葉で直に伝えられるものではない。追々、分かって行くものだ。此処で過ごしていく内にな。或いは、こうして私のように語る者がいれば例外となる」


 私は、其処で水に打たれたように意識を集合させる。今まで彼は多くを語らなかった。それがどうしたという事だろう、今の彼は非常に饒舌で、全貌とまでは行かないまでも明らかに核心に迫る話し方をし、私に情報を与えていた。


 私は、彼の身を案じた。先日の出来事が思い返される。菓子商店で、彼は私が試食しようとする行為を止めた。それはまるで、私を庇うような守るような、そういった心情がありありと見えるものだった。


 そして、店に座る白猫は言った。「どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手」と。もしかして彼は、この町での決まり事を破っているのだろうか。

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