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天才は、走らない

作者: 月井 朔
掲載日:2026/08/02

「走るくらいなら、謎のままでいい。」

 ふかふかのソファに深く腰掛け、僕——(あおい)は優雅に紅茶のカップを傾けた。

 「また始まった・・・。頼むから、少しは自分の足で現場を歩こうっていう気になってよね。」

 呆れ果てた溜息をついたのは、バディの(なぎ)だ。

 相変わらず人目を引く華やかな容姿をしているが、中身はとにかくじっとしていられない性分らしい。部屋の中を落ち着きなく歩き回り、窓の外を警戒するように見下ろしている。

 「歩くのはいいよ。でも『走る』のは僕の信念に反する。そもそも、現場を駆け回るなんて野蛮な真似、君という優秀な足があるのに僕がやる必要はないだろう?」

 「よく言うよ。()()()()()()が動きやすい靴で来て正解だったね。ドレスコードかなんだか知らないけど、蒼なんて、そんな歩きにくそうな靴で10mも走ったら即・捻挫するでしょ。」

 「捻挫どころか骨折の自信があるね。」

 僕がふっと微笑むと、凪は「威張るな」と額を押さえた。


 ———ガシャン!


 下の会場から、何かが割れる甲高い音と、女性の悲鳴が響き渡った。

 「・・・始まったみたいだね。」

 さっきまで落ち着きなく動いていた凪の目つきが、一瞬でハンターのそれに変わる。

 「行こう。蒼。」

 「あーあ。僕の優雅なティータイムを邪魔する奴は、どこの不作法ものかな。」

 僕がソファから立ち上がると、凪は一足先に扉を開け放ち、風のように廊下へ飛び出して行った。速い。相変わらず呆れるほどの足腰だ。僕は溜息をつき、コツコツとソールの音を響かせながら、マイペースに後を追った。

 「ん?」

 今、何か羽音のような音が聞こえたが・・・。まあいいか、凪を見に行こう。

 大広間へ降りると、会場はやや喧騒に包まれていた。部屋の中央、ガラスケースが砕け散り、台座の上に飾られていたはずの『標的』が消えている。

 「始まったのか?急いでトリックを特定しろ!」

 参加者の興奮した声が響く中、凪はすでに周囲の参加者をかき分け、現場の最前線で目を光らせていた。割れたガラスの散らばり具合、防犯カメラの位置、周囲の人間の動向——その超人的な観察力と行動力で、瞬時に現場の情報をかき集めていく。上部に輝くシャンデリアがほんの少し揺れていた。

 凪が僕の方を振り返り、すれ違いざまに低く囁いた。

 「ケースの鍵は壊されていない。ガラスの散らばり具合から、割られたのは内側からだ。・・・すり替えだね。」

 「上出来だよ、凪。おかげでトリックが分かったよ。」

 僕はお気に入りのハンディファンを作動し、犯行現場の中心に歩み出た。

 「皆さん、騒ぐ必要はありません。残念ながらこのゲームは、僕たちの勝ちのようです。」



 東京都千代田区、『国立帝都大学』

 理学部・工学部・情報学部など、偏差値70以上の者でなければ入学が許されない国内屈指の頭脳が集まる理系専門大学だ。

 一ノ瀬 蒼(いちのせ あおい)——国立帝都大学理学部3年、帝都大学設立以来初、入学試験を全て満点で通過し、特待生として入学を許された所謂、天才だ。

 天王寺 凪(てんのうじ なぎ)——国立帝都大学工学部3年、蒼がいなければ間違いなく学内1位の頭脳を持つ秀才だ。高校生時代は陸上競技に熱中し、100m走で全国大会優勝の経歴も持つ実力者でもある。

 帝都大学は入試の合格者から、最も成績が良かった者に新入生を代表して挨拶を、次に成績の良かった者に新入生を代表して『宣誓書』への署名を行わせる伝統がある。誓約書には帝都大学に関する秘密保持を守ること。自身の研究を社会の発展に還元すること。など、帝都大学の生徒として、社会規範となるよう努める内容が定められている。いわば校則みたいなものだ。この伝統行事を行なったため、蒼と凪は入学式の時からお互いのことは知っていた。壇上で行われた記念写真の際には、彼らの容姿端麗な姿、立ち振る舞いが周囲の目を引いた。頭も良い、顔も良いと、伝説の入学式・入学生だと少し話題になったことが記憶に新しい。


 「蒼‼︎道尾先生のDITECTIV X の新作が発売されるよ?予約した?」

 「そんなに興奮してどうしたんだよ。既に予約済みだよ。」

 「やった。また一緒にやろうね! 大学生活に疲れた時の癒しは、謎解きゲームが最高だよ。」

 凪はスマホ画面を蒼の鼻先に突き出しながら、子どものように跳ねていた。

 「今回の新作、協力プレイの難易度がめちゃくちゃ高いらしいよ。蒼とじゃなきゃ絶対クリアできないって!」

 「それは褒め言葉として受け取っておくよ。」

 蒼は紅茶のカップを置き、肩をすくめた。

 『DETECTIV X』シリーズは、帝都大学の学生の間で密かなブームになっていた。

 論理的思考力、観察力、推理力——その全てを要求される高難度ゲームは、この大学の生徒にぴったりだった。

 ある日、蒼の研究室の前で凪が待ち伏せしていた。

 「蒼、今日の講義終わった? 続きやろ!」

 「・・・君は本当に落ち着きがないね。」

 「だって蒼とやると、ゲームが映画みたいに面白くなるんだもん。」

 その言葉に、蒼は少しだけ目を細めた。

 自分の推理を面白いと言ってくれる人間は、これまでほとんどいなかったからだ。気づけば二人は毎日のように一緒に謎を解き、学内でも「蒼と凪はセット」と認識されるようになっていた。


 帝都大学の中央棟ロビーに、真新しいポスターが貼り出された。

 『帝都大学・学内謎解き大会 挑戦者求む』

 凪はそれを見た瞬間、蒼の腕をつかんだ。

 「蒼! これ絶対出よう!」

 「・・・君はイベントごとが好きなの?」

 「だって、学内の天才たちが集まるんだよ? 蒼となら優勝できるって! 」

 蒼はポスターを見つめ、静かに笑った。

 「いいよ。身体を使った捜査は君に任せるよ。情報さえ共有してくれれば僕が、謎を解く。」

 「蒼は本当に頭以外を動かすことが嫌いだよね・・・。まあいいや、バディ結成ね!」



 謎解き大会は帝都大学の名物行事となっており、今年は特に難易度が高いと噂されていた。

 帝都大学中央棟の大広間は、普段の無機質な学術空間とはまるで別物だった。シャンデリアが煌めき、赤い絨毯が敷かれ、参加者たちはドレスコードに従って華やかな装いをしている。まるで大学の中だけ時間がねじ曲がり、社交界の夜会に迷い込んだようだった。会場内は飲食自由であり、軽食やドリンクなどがバイキング方式でずらっと並べられていた。

 「蒼、見て。あれが今回の目玉じゃない。」

 凪が指差した先には、ガラスケースに収められた宝石のような装飾品。

 『帝都大学創立記念レリーフ』と書かれた札が添えられている。

 蒼はハンディファンを回しながら、興味なさそうに眺めた。

 「なるほど。盗難事件を模した謎解きか。参加者の観察力と推理力を試すわけか。」


 司会者が壇上に立ち、声を張り上げた。

 「参加者の皆さん、本日は帝都大学謎解き大会へようこそ! 今年の課題は、この会場内で発生するある事件を解決していただきます。皆さんはぜひ、ご自身が探偵や刑事になったつもりで、事件に臨んでください! 解決するのはお一人でも、グループでも構いません! 一番最初に事件を解決した人又はグループを優勝とします!」

 参加者たちがざわつく。

 「事件はいつ発生するか分かりませんが、それまではゆっくりとくつろいで下さい。アルコールも準備しています。飲み過ぎには注意してくださいね! それでは、帝都大学謎解き大会、スタートです!」


「お酒飲む?」

 凪がそわそわしながらケータリングを吟味していた。

 サンドイッチ、フルーツ盛り、パスタ、コーラ・・・何を取るか悩んでしまいそうだ。

 「これから謎解きするんだから、飲まないよ。どこかでゆっくり紅茶でも飲もうかな。」

 「じゃあ、2階に待合室があるから、そこで休憩してようか。」

 参加者はざっと100人くらいだろうか。さすがに全員の顔と名前が一致している訳ではないが、学内や研究室であったことのある奴らもちらほらいる。大学を挙げてのこうした企画はなかなか珍しい。大学生は比較的自由な時間が多く、遊び歩いている学生も多い中。こうして大学のイベントに大勢の学生が参加するということは、この謎解き大会は人気のイベントなのだろう。

 「この大会の主催って誰がやっているんだ?」周囲をキョロキョロ見て落ち着きのない凪に聞いてみる。

 「工学部の学生が中心に所属してる謎解きサークルだよ。ほら、YouTubeでも大人気のグループじゃん。たまにテレビにも出てたりするよ。『クイズ帝都knock』とかいうグループ名で。」

 「家にテレビはないし、YouTubeを見るほど暇な時間は、僕にはない。」

 「サークルの代表は工学部の石川さんだったかな? 謎解きは置いといて、機械工学とか量子デバイス、AIなんかの先進的な研究で大学から表彰されたり、メディアにもいくつか出演しているんじゃないかな。そういった専門分野を活用した人道支援や平和維持活動なんかにも積極的に取り組んでて、テレビでは『和製アインシュタイン』とか言われてたよ。」

 「人の活動にとやかく言うつもりはないけど、人道支援とか平和維持活動に積極的に取り組んでますって言ってメディアに出演するような人間は、基本的に信用ならないっていうのが僕の持論だよ。」

 雑談しながら僕らは2階の空き教室に着いた。ここは普段、来客用の待合室に使われているようだ。部屋の中央にあるテーブルを囲むようにソファが並べられている。壁には大学に関する表彰状や写真が飾られていた。西側の窓からは、建物の1階を見渡すことができ、先ほどの司会者が立っていた壇上が良く見える。僕はソファに腰掛け紅茶を飲む。

 「これから何か事件が起こるんだよね? さっきのレリーフも含めて会場に何か気になる点とか違和感とかもう見つけた?」

 「参加者はざっと100人程度。全員を知っているわけではないけど、工学部の学生が多かったかな。あとは・・・そう。スマホの電波が圏外になってる。多分謎解きの途中で調べたり誰かに連絡を取ることを防ぐために、この会場内に妨害電波を流しているね。」

 「本当だ。圏外になってる。圏外だとスマホが常に電波を探してフル稼働するから、バッテリーの消耗が激しいんだよね。残りもう30%なんだけど。最悪。」凪はスマホを振りながら、子どものように文句を言った。

 蒼は紅茶を一口飲み、静かに目を細める。

 「まあ、謎解き大会なんだから、通信遮断は当然だろうね。情報の持ち込みを禁止するのは、フェアプレーの基本だ。」

 「それは分かるけどさ……。蒼はいいよね、スマホの充電なんて気にしないで済むんだから。」

 「僕はスマホを使わないからね。」

 凪は呆れたように肩を落とした。

 「ほんと、蒼って文明に興味ないよね・・・。研究と紅茶と謎解きがあれば生きていけるタイプ。」

 蒼は肩をすくめた。

 「必要なものだけあればいいんだよ。余計なものは、思考の邪魔になる。」

 凪はその言葉に笑いながら、ソファに腰かけた。


 ———ガシャン!


 下の会場から、何かが割れる甲高い音と、女性の悲鳴が響き渡った。

 「・・・始まったみたいだね。」


 「ケースの鍵は壊されていない。ガラスの散らばり具合から、割られたのは内側からだ。・・・すり替えだね。」

 「上出来だよ、凪。おかげでトリックが分かったよ。」

 僕はお気に入りのハンディファンを作動し、犯行現場の中心に歩み出た。

 「皆さん、騒ぐ必要はありません。残念ながらこのゲームは、僕たちの勝ちのようです。」

 辺りは静まり返っている。それもそのはずだ。事件が発生してから今に至るまで五分程度しか経っていない。

 「おや。これは一ノ瀬さん。もう解けちゃったんですか? あまりにも早く終わると困ってしまうのですが。」

 男女数人のグループがこちらに寄ってきた。

 「あなた方は?」

 「失礼しました。私は『クイズ帝都knock』で脚本を担当しています。(かけい)といいます。周りにいるのは同じ帝都knockのメンバーです。今回の謎解き大会を主催しています。」

 「さすが、天才と名高い一ノ瀬さんですね。もうトリックが分かったのですか?」

 周囲の人を掻き分け近づいてきたのは、帝都knockの代表、石川だ。

 「ここの代表をしています。石川 郁人(いしかわ いくと)です。一ノ瀬さん、ぜひお聞かせ願えますか。僕たちのトリックを、どうやって見抜いたのか。」

 視線が一斉に蒼へ集まる。

 蒼はハンディファンの風を受けながら、ゆっくりと周囲を見渡した。その仕草は、まるで舞台の中心に立つ俳優のように静かで、無駄がなかった。

 「まず、違和感は『音』だよ。」

 蒼の声は、広い大広間の空気を震わせるように、ゆっくりと、しかし確実に響いた。

 「音?」と凪が小さく繰り返す。

 蒼は頷き、階段を降りてきた時のことを思い返すように目を細めた。

 「さっき、何かが割れる音を聞きつけ僕と凪がこの会場へ向かう廊下で、虫の羽音のような音がした。帝都大学の建物の多くは空調が最新式で、フィルターを通さない限り外気は入らない。羽音が聞こえるほどの大きさの虫が入ってこれるとは思えない。それなのに、耳に残る『微かな振動音』があった。もちろんモスキート音の類ではないよ。」

 蒼は指先で空気を切るように動かした。

 「人間の耳は、一定以上の高周波は聞こえない。だけど、限界ギリギリの周波数なら、音というより振動として感じることがある。あれはまさにその類の音だった。」

 凪は驚いたように目を見開いた。

 「蒼、そんな細かい音、よく気づいたね・・・。」

 蒼は肩をすくめた。

 「僕は慌てて走ったりしないからね。余計な雑音がないと、世界はよく聞こえるものだよ。」

 周囲の参加者がざわめく。

 蒼は続けた。

 「次に、ガラスの割れ方。凪が言った通り、散らばり方から内側からの破砕だと分かる。だが、内側から叩き割ったにしては、破片があまりにも細かすぎる。」

 蒼は床に散った破片を指先でつまみ上げた。割れたガラスの一部分は粉末に近いほど細かく砕けている。光を反射してキラキラと輝くその破片は、まるで砂のようだった。

 「人間が物理的に叩いて割った場合、ガラスは鋭い破片になる。

 だが、これは違う。一部の破片が均一で、粒子状になっている。つまり、これは衝撃ではなく振動による破砕だ。」

 蒼はゆっくりと立ち上がり、ガラスケースの残骸を見つめた。

 「ガラスの共振周波数に合わせて超高周波を照射すれば、物理的な接触なしにガラスを粉々にできる。これは工学部の学生なら誰でも知っている基礎知識だろうね。」

 石川の目がわずかに細くなる。

 筧が興味深そうに身を乗り出した。

 「超高周波・・・。なるほど、そこまで辿り着きましたか。」

 蒼は続ける。

 「そして、シャンデリアがわずかに揺れていたこと。誰かがぶつかったり、地震でもないのに、天井付近だけが微妙に振動していた。さっき聞いた羽音と、ガラスの破砕、シャンデリアの揺れ——これらを一つにまとめると、トリックが見えてこないかな?」

 凪がつぶやく。

 「・・・マイクロドローン。」

 蒼は頷いた。

 「僕の推理はこうです。台座の内部に、あらかじめマイクロドローンを仕込んでおき、定刻になるとドローンが発射され、同時に台座が反転する。レリーフは裏側へ隠され、表面には『何もない台座』だけが残る。」

 蒼は空になった台座を軽く叩いた。中から、わずかな空洞の響きが返ってくる。

 「発射されたマイクロドローンは、ガラスケースの内側で超高周波を照射し、ガラスを粉砕する。破片は外側へ飛び散り、あたかも外から割られたように見える演出になる。」

 参加者たちがざわめいた。

 蒼はさらに続ける。

 「そして、マイクロドローンは天井付近へ移動し、シャンデリアの装飾の陰に隠れる。

  サイズは1ミリ程度かな。人間の肉眼で、瞬時に視認するのは難しいだろうね。」

 蒼は視線を上げ、シャンデリアを見つめた。凪が走り出し二階に移動しようとしている。シャンデリアの確認に向かったのだろう。

 「さっきの羽音は、ドローンのローター音。シャンデリアの揺れは、ドローンが着地した時の微かな衝撃。そして、ガラスの粉砕は、超高周波による共振破壊。」

 蒼はハンディファンを止め、静かに結論を告げた。

 「このトリックは、工学部の技術がなければ成立しない。マイクロドローンの設計、超高周波の制御、台座の反転機構——それらを組み合わせて盗難事件を演出した。あえて犯人を指定するのであれば、それは帝都クイズknockに所属する工学部の学生ってところかな?」

 ざわついていた会場が沈黙に包まれる。

 「蒼! シャンデリアの隙間にドローンがくっついてたよ! めっっっちゃ小さい!」

 次の瞬間、石川が大きく笑った。

 「・・・参りました。一ノ瀬さん。ここまで正確に推理されるとは、想定以上です。」

 筧が感嘆の息を漏らす。

 「ガラスの粉砕まで言い当てられるとは。やはり帝都大学の満点合格者は伊達じゃないですね。」


 蒼は肩をすくめ、石川だけに聞こえるように囁いた。

 「これはあくまで前座でしょ? はっきり言ってやめといた方が身のためだよ?」

 石川の笑みが、わずかに意味を変える。

 「まあ・・・本番は、この後に控えていますから。」

 その言葉が、後に本物の事件の予告だったと気づくのは、もう少し先のことになる。



 蒼が推理を終えると、会場内からはパラパラと拍手が起きていた。

 「あのわずかな時間でよくトリックが分かったね。さすが蒼だわ。」

 シャンデリアに隠れていたマイクロドローンを親指と人差し指で器用に摘み、興奮した様子で声を上げながら、凪が近づいてきた。

 「はい、これ。こんなに小さいのに、飛んだり、高周波出したり、すごい技術だよね。」

 「お褒めにあずかり、ありがとうございます。」

 主催者である帝都knockのメンバーが声をかけてきた。

 「そのマイクロドローンはまだ試作品なんです。理想はローター音を無音にしたいのですが、ホバリングさせたり、旋回させたり、飛行させるためには、どうしても音がしてしまうのですよね。」

 白衣を身に纏い、眼鏡をかけたやや痩せ気味のいかにも博士っぽい姿の男性が話かけてきた。

 「工学部3年の御剣(みつるぎ)です。趣味の一環で帝都knockでは作問したり、技術提供したりしています。先ほどの回答、素晴らしかったです。」

 「ありがとうございます。おもしろいトリックでした。」

 蒼は明らかな社交辞令で雑に対応した。

 「今度は解決までにもう少し時間がかかるよう、より作り込んだトリックを考えておきますね。今度もぜひ参加してください。」

 蒼と凪は周りの参加者に軽く挨拶を終えて、会場を後にしようとした。

 「せっかくのイベントだったのに、蒼のせいであっという間に終わっちゃったね。もう少し楽しむ努力してよね。」

 「大丈夫。まもなく、本番が始まると思う。」

 「なにそれ? 名探偵は卒業して預言者にでもなったの?」


  ウウウウウーーーーー!!


 耳をつんざくような警報が、帝都大学中央棟全体に響き渡った。

 大広間の照明が一瞬だけ揺らぎ、参加者たちのざわめきが強くなる。

 「蒼・・・これ、学内のセキュリティアラームじゃない?」

 凪の声が低くなる。

 さっきまで華やかだった空間が、一瞬で緊張に包まれた。

 「全学内各位、一斉呼び出し。只今、帝都大学、東、研究室棟、地下保管室に侵入者を確認しました。学生は直ちに学内から退避してください。警備員は至急現場に急行してください。繰り返します。只今、帝都大学・・・」

 無機質な機械の合成音声が何度も何度も狂ったように、同じ内容をアナウンスし続けている。

 蒼は落ち着いた様子で静かに言った。

 「地下保管室か。あそこに侵入するってことは、大学の資料だったり、研究のデータを狙っているのか。」

 凪は走り出そうとしていた。

 「凪、ゲームじゃないよ。現場に行くのは、危険じゃないか。」

 「入学式の宣誓書、覚えてないの? 『帝都大学に関する秘密保持を守ること』、もし大学にとって大事なものが流出する危険があるのなら、それを守らなければいけないのは学生の勤めでしょ。」

 凪は言い終わると同時に研究室棟へ向かって走っていった。

 「んー。警備員とか警察とか、専門職の人たちに任せとけば良いのに。研究室棟までは地味に遠いんだよな。」

 蒼は周囲を見渡し、目的の人物を探す。

 「やっぱり、石川は居ないか・・・」

 蒼はマイペースに歩きながら、凪の背中を追った。



5 

 帝都大学研究室棟地下保管室——

 そこには、国の補助金を受けて研究が進められている数多くの最新技術が保管されている。特に世間から注目されているのは『量子演算試作チップ』だ。

 量子演算チップは、量子力学の物理現象を利用して超高速な計算を行う、量子コンピューターの頭脳にあたる半導体素子のことだ。従来のパソコンやスマートフォンに使われているCPUが古典的な物理法則に基づいて動いているのに対し、量子演算チップは原子や電子などの微小な世界の原理を利用してデータ処理を行う。つまり、従来のコンピューターでは何千年、何万年もかかる特定の問題を数秒から数分で解くアクセラレーターとして期待されている。軍事兵器、医療、金融、エネルギー、物流、AI——あらゆる分野の基盤を変える可能性を持つ、日本の未来そのものだ。

 帝都大学は長年の研究の結果、この量子演算チップの試作品を作成することに成功し、実用化に向けて、今もなお、国内最高峰の知識と技術で研究が進められている。普段は厳重なセキュリティのもと研究、保管されており、外部にデータが漏洩することを徹底的に排除している。

 しかし今日は、工学部の学生の多くが謎解き大会に参加しており、研究室は空。警備員も休日で手薄になっていた。

 気になることはそれだけではない・・・。量子演算チップの研究結果を世間に公表し、注目を集めたのは、工学部の(たいら)教授とクイズ帝都knockの石川だ。


 研究室棟へ向かう廊下は、夜の冷気が流れ込んでいるのか、妙にひんやりしていた。凪はその空気を裂くように走った。100m走全国優勝の脚力は伊達ではない。床を蹴るたび、風が背後へ流れていく。

 「地下保管室・・・狙いはあの有名な量子演算チップか・・・?」

 凪は階段を一気に駆け下り、地下フロアへ飛び込んだ。

 ———焦げた匂い。

 ———熱で歪んだ扉。

 ———そして、静寂。

 「・・・レーザーで焼き切った跡だ。」

 凪は扉の縁を触り、熱の残り具合を確認する。かすかにだが、熱感を感じた。

 「このレーザー跡は、ファイバレーザーか。たしか・・・。」

 凪は周囲を見渡す。保管室の対面にレーザー加工室がある。

 間違いない。レーザー加工室から照射したのか。ファイバレーザーであれば、瞬時にこのドアも焼き切ることも可能だ。

 凪は慎重に保管室の中へ歩みを進める。室内は焼け焦げた匂いが更に強く充満していた。所々、パソコンの画面が点灯しているが、室内の電灯は消えている。

 「誰かいるのか?」

 凪は静寂の空間に向かって声をかけるが、反応はない。わずかな明かりを頼りに壁伝いに歩き、電灯のスイッチを手探りで探す。スイッチを押すと、室内は煌々と灯りに照らされた。

 「ん・・・。」

 急な明かりで視界がぼやけている。凪は目を細め室内を見渡した。光学望遠鏡、透過型電子顕微鏡、核磁気共鳴装置、高速液体クロマトグラフ——専門的な研究機材が所狭しと保管されている。徐々に視界が晴れてきた時、部屋の奥に人影を見つけた。

 「誰だ?」

 凪の声に反応し、その人影はゆっくりと凪の方を振り返った。

 「ずいぶんと早いですね。警備員より先に学生が来るとは想定外です。」

 石川郁人はゆっくりと凪の方を向き、やや笑顔でこちらを見ている。右手にはあの有名な量子演算試算チップが握られていた。

 「石川さん? なぜあなたがここに。その量子演算チップをどうするつもりですか。」

 「なぜって。僕が研究、開発したこのチップをこんな保管室に残しておくのは、この国の損失だ。もっと有効活用しなければ研究した意味がないだろう?」

 石川は不気味な笑顔のまま、室内をゆっくりと歩き始める。

 「なぜこんなことをした。そもそも、その量子演算チップは君の力だけではなく、平教授の尽力のおかげで研究が進んだものだろう。こんなことして、教授の顔も大学の評判も、君の功績も全て台無しになってしまうよ?」

 「平教授? 君は本当にあの人が尽力した結果、この量子演算チップが出来たと思っているのかい? あの人はただ名声が欲しいだけの老いぼれだよ。研究自体は僕が独断で進めたのさ。僕の知識がなければ、この研究は成立しなかった。僕は別に名声になんて興味はなかった。世間に公表するのは教授でも大学でも誰でも良かった。僕はもっと研究して、世界を変えたいんだよ。この国は平和ボケしている。」



 「本日の記者会見は、これにて終了とさせていただきます。皆様、ご協力ありがとうございました。」

 眩しいフラッシュの嵐が収まり、フラットな照明が照らす特設ステージの上で、一人の高齢男性と若い男が深々と頭を下げていた。 壇上の中心にいたのは、当時まだあどけなさを残す、工学部に入学したばかりの石川郁人だった。

 「帝都大学、次世代の若き天才——平教授の右腕として、量子演算チップの基礎理論を証明した石川郁人くんに話を伺います! 今後この技術が世界をどう変えるか、意気込みをどうぞ!」

 押し寄せる記者たちのマイクと、過熱した好奇心に満ちた質問の数々が浴びせられる。

——「先生の助手としての感想は?」

——「若い君にとって、この大発見で得られる名誉と報酬はどれほどのものですか?」

——「日本を代表する科学者として、世界に一言!」

 当時の石川は、カメラに向けて均整の取れた笑みを浮かべ、用意された美しい言葉を淀みなく紡いでみせた。

 「この量子演算チップの研究は、人類の未来を明るく照らすものです。平和な世界の発展のために、僕のすべてを捧げます。」

  完璧な受け答え。メディアは僕を「和製アインシュタインの再来」と持て囃し、翌日の朝刊の一面を大きく飾った。

 だが、その華やかな表舞台の裏で、フラッシュの光が届かない控室の隅、僕は一人、冷めきった目で手元のトロフィーを見つめていた。

 カメラの前で大人が自分に求めていたのは、知性の賛美でも科学への純粋な情熱でもない。ただ「若くて優秀なアイコン」という広告消費にすぎなかった。 どれほど革新的な理論を構築しようとも、この国はそれを安全な檻の中に閉じ込め、横並びの平和という名のぬるま湯に浸かり続ける。危険な現実から目を背け、技術の本質すら正しく測れない無責任な大衆。 その構造のすべてが、僕の内部で澱のように腐り固まっていた。

 綺麗事を並べ立てる連中に、この頭脳の本当の価値は分からない。 あの日の記者会見で浴びた閃光の熱は、いつしか冷たい怒りへと変わり、僕の内側を完全に凍りつかせていった。

 この国は平和ボケしている・・・。


 石川は肩をすくめ、凪に向かい直した。

 「僕は海外の軍事施設と契約した。量子演算チップのデータを提供すれば、莫大な資金が手に入る。この技術で更に、軍事設備が発展すれば間違いなく日本の脅威になるだろう。世界が平和であり続けるには、隣国や大国を抑えるような軍事力が必要なんだ。僕は日本を本当の強国に変えるつもりだ。」

 「ばかと天才は紙一重というけど、あなたはばかの方みたいですね。そんなことをすれば、日本が脅威にさらされ、日本を強国にするどころか、周辺国から攻撃され発展途上国に成り下がることになりますよ?」

 「そんなことは知っている。今の日本は滅んでしまっていいんだよ。一度崩壊し、そこから再建することで、今までよりも強く、立派な国になるんだ。国の新陳代謝さ。」


 「まったく。理解に苦しむご意見ですね。」

 レーザーで焼き切られた扉から蒼がゆっくり入ってきた。

 「蒼! この騒ぎは全部、石川が原因だよ。」

 「分かってる。石川さん、これからどうするんですか。外はもう警察やら警備員やらで包囲されていますよ。器物破損、窃盗、国家転覆、終身刑は免れないのでは。」

 「そんなことは良いんですよ。いまこのスマホからデータを海外に送信すれば全てが終わる。新しい日本の誕生ですよ。」

 石川はポケットからスマホを取り出し、操作し始める。素早くファイルを選択し送信ボタンを押下した。

 「・・・ん? なぜ送信できない。」

 「スマホをよく見てくださいよ。今ここは圏外ですよ。」

 「ばかな。地下だろうと各所にWi-Fiを個別に設置してある。通信に問題が発生するはずがない。」

 「ジャミング。先ほど、中央棟で妨害電波を使用していましたよね? 筧さんにお願いして少々拝借させていただきました。今この研究室棟一体はあらゆる通信、レーダー、GPSを妨害、遮断しています。あなたの行動はすでに推理済みです。」

 凪は自分のスマホを確認する。確かに圏外になっていた。

 「蒼まじナイス! なんで分かったの?」

 「僕は慌てて走ったりしないからね。ゆっくり周囲を観察すれば誰でも分かることだよ。」

 石川は何度も何度も送信ボタンを押下していた。押下する度にエラーメッセージが表示される。石川はスマホを地面に叩きつけた。

 「本当にあなたの存在は邪魔ですね。本来であれば、学内の学生が謎解き大会に参加している中、この計画を実行するはずだった。それなのに、あなた方が即大会を終わらせ、あげくこの計画に気づき邪魔をした。・・・研究でもそうですが、邪魔な因子は排除するしかないですね。」

 石川は内ポケットからサバイバルナイフを取り出した。刃渡は約15㎝、切り付けられれば無傷ではいられないだろう。蒼はそんなことを呑気に考えていた。

 「君たちさえいなければ、新しい日本が誕生するはずだったのに。残念です。」

 石川はサバイバルナイフを右手に握り、素早く蒼に切りかかった。蒼は避けきれず、背中を壁に押し付けられた。石川の手が蒼の肩を掴み、上衣の布がナイフで乱暴に引き裂かれる。布が裂ける音が室内に響いた。肩口が破れ、胸元が見えそうになる。隙間から下着が見えていた。

 「君はこういう時、()()()攻撃する卑怯な奴なんだね。」

 「蒼から離れろ!」

 凪が勢いよく石川に飛びかかった。()()()()()()()()()()()()()()()()は一瞬で石川を捉えた。肩の筋肉は盛り上がり、腕は太く、石川の体を容易に押し返し、地面に拘束した。

 「傷害罪、殺人未遂も追加してもらおうか。ね、凪。」


 室内の物音に気付き警察官が駆けつけた。

 

「一ノ瀬蒼! 天王寺凪! お前らさえいなければ、この国は新しくなったのに!」

 

 石川は学内に響くほどの断末魔で叫びながら連行されていった。



 量子演算チップ盗難事件から1週間。

 帝都大学の表向きは平常を取り戻したが、地下保管室のセキュリティは全面的に見直され、研究棟の出入りには二重認証が導入された。

 蒼は中央棟ロビーのソファに腰掛け、紅茶を飲んでいた。凪は隣で、事件関係の記事をスマホで読みながら眉をひそめている。

 「石川さん、完全に軍事転用を狙ってたんだね。今日正式に逮捕されたみたいだよ。量刑は重いだろうね。」

 蒼はハンディファンを回しながら答えた。

 「合理的に考えれば、あの行動は破綻している。日本を強国にするどころか、国際的孤立を招くだけだ。でも、技術者が自分の研究を過大評価して暴走するのは珍しくないよ。」

 凪はため息をついた。

 「蒼は本当に冷静だよね。あの状況で服破かれても、よくあんな落ち着いてたね。」

 蒼は肩をすくめた。

 「慌てると判断が鈍るからね。下着を見られたときは、さすがの僕も羞恥心を感じたけどね。」

 凪は苦笑した。

 「それにしても蒼は本当に走らないよね。あの時も、俺が先に現場に着いたし。」

 蒼は紅茶を置き、凪を見た。

 「それでいいんだよ。君は現場を走り回って情報を集める。僕はそれを使って謎を解く。役割分担は合理的で、効率的だ。」

 「走ったり身体を使わないと解けない事件や謎もあると思うけどね。」 

 凪はすこしだけ拗ねたような口調で蒼に問いかける。


 「『走るくらいなら、謎のままでいい。』」


 二人の声がシンクロし、どちらともなく笑い合った。

 「そろそろ次の授業が始まるし、行こうか。」

 二人は並んで歩き出した。

 歩幅は違うのに、不思議と同じ速度だった。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。初めて小説を投稿したので、拙い点が多かったかと思いますが、これからも皆さんが面白いと感じていただける小説を投稿していきたいと思います。よろしければ評価いただけますと幸いです。

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