■第六章:尻焼は天国か地獄か
ここは山梨県笛吹市———。石和の夜は、まだどこかざわついていた。
健康ランドの入口には、仕事帰りのサラリーマンや観光客らしき人たちが、眠そうな顔で列をなしている。浴衣姿でタバコをくゆらせる者、スマホを見つめながら欠伸を噛み殺す者。それぞれの疲れを抱えた人間模様が、煌々とした看板の下に集まっていた。
時刻は深夜0時。
私は仕事を終えた足でバイクを飛ばし、石和まで一気に走ってきた。エンジンの熱をまだ纏ったまま、駐車場にバイクを停めると、冷えた夜風が一気に汗を奪っていく。
入口の脇に、見慣れたシルエットが立っていた。伊藤だ。
だがその姿は、ひどくボロボロだった。聞けば、前日からほとんど寝ずに山梨を回っていたらしい。身延の街をうろつき、観光らしき観光もした上で、仮眠室に滑り込もうとしたが、すでに満員で寝床がなく、結局ほとんど眠れていない。
「……おう」
口数少なく片手を挙げる伊藤。その目の下にはくっきりと隈が刻まれていた。
正直、私も大差なかった。会社を出て、そのままバイクに跨ってここまで走り続けてきたのだから、体力も気力も底をつきかけている。二人して疲労困憊。旅の始まりにして、すでにゴール前みたいな顔をしていた。
健康ランドの入口からは、温泉の匂いとラーメンのスープの匂いが混ざり合って漂ってくる。身体は休めたいが、心は走りたがっている。そのせめぎ合いが、互いの表情に妙な高揚感を与えていた。
「寝れたかい?」
「いいや、全然よ。そっちは?」
「仕事終わりそのままだからな。既に眠いよ」
深夜の石和で、極限のコンディションから始まる旅。まともじゃない。だが、だからこそ「バカげたことをやってる」という実感が、逆に心を軽くするのだった。
石和健康ランドを出て10分そこそこに場所ある深夜のドン・キホーテに立ち寄った。
眠気に沈む街の中で、そこだけは昼のように明るく、時間の感覚を失わせる空間だった。
棚には色とりどりの菓子や弁当が並び、夜勤明けの作業服姿や、遊び帰りの若者たちがそれぞれの事情を抱えた目で商品を吟味していた。
私は迷わず、缶詰のスパムやチーズ、クロワッサン、チリソースをかごに放り込んでいった。保存が利き、衝撃にも強く、腹を満たすに十分な品々。旅の食糧は選択肢ではなく戦略だ。夏場ということもあり、常温で腐らないものを中心にかごへ放り込んでいく。
「……なんでそんなに買い込むんだ?」
キャンプでもないのに食料を買い込む姿に疑問に思ったのだろう。
「それが尻焼の近くにはなんもないんだよ」
なんたって今回目指す尻焼温泉は秘湯中の秘湯。川底から湧きだす熱々のお湯が川の水と混ざりあってちょうどいい湯になる、所謂“野湯”というやつだ。温泉ならば近くに何かしら店があるのでは、と普通は思うだろう。だがそうじゃない。山々に囲まれたその場所には商店など一軒もなく、辛うじて自販機がぽつんと置かれている程度。宿も近くに一軒だけあるが、泊まったことはないし、そもそも旅人を当てにして成り立つような環境ではない。最寄りの道の駅まで出るにも一時間近くかかる、とんでもない山奥にあるのだ。
だからこそ、今この明るい蛍光灯の下で選ぶパンや缶詰が、夜明け前には唯一の糧となる。旅の準備というより、生き延びるための備えに近かった。
買い物を終えて外に出ると、夜風が袋を揺らし、カサリと乾いた音を立てた。その響きは、今から踏み込もうとする世界が、日常とは断絶された領域であることを告げているように思えた。
リアボックスに食料を詰め込むと、バイクの重量がいつもよりわずかに重く感じられる。背中にのしかかるのは荷物だけではなく、これから始まる「挑戦」の予感でもあった。
深夜の石和を抜け出し、街の灯が後ろに遠ざかるにつれて、空気は少しずつひんやりとしてくる。アスファルトに伸びるヘッドライトの帯が、ただ一本の道を私たちに指し示していた。
韮崎に差しかかるころ、私はウインカーを出して給油所の看板を指さした。
「ここで入れていこう」
伊藤さんはメーターをちらりと見て、怪訝そうに首をかしげる。
「まだ2メモリしか減ってないぞ?」
実際、私のタンクも同じような状態だった。普通に考えれば、走り切るには十分な量。だが、私は知っていた。
尻焼へと続く道のりは、ガソリンとの戦いそのものだということを。
かつて何度もその道を走ったが、ガソリンスタンドの数は驚くほど少ない。むしろ近くに住んでいる人間が車社会の上でどうやって生きているのか疑問に思うほどないのだ。故に一度逃すと次に出会えるまでがとてつもなく長い。しかも、山道はひたすらに高度を上げていく。一定の速度で流す平地とは違い、アクセルをひねるたびに燃料は勢いよく減っていく。
計算上は足りるかもしれない——しかし、山奥の道に「計算ミス」は許されない。
私は給油ノズルを握りながら、タンクに響くガソリンの音を聞いた。金属の底を打つ低い響きが次第に満ちていき、安心感へと変わっていく。伊藤さんも観念したように給油を始め、やがて二台のエンジンが再び夜を裂いた。
あの山の奥へ入っていけば、頼れるのは己の判断と、タンクに入った燃料だけになるのだ。
やがて韮崎市に入り、国道20号から141号へ折れる。真夜中の道路は暗く、過去の感覚だけを頼りに走っていた私は、知らぬ間に横道へ逸れてしまっていた。住宅街の坂道を山なりに登っていく。
「おい、これ……方向ちゃうぞ」
インカム越しに伊藤さんの声が飛んできた。
はっとしてミラーを覗き込む。確かに、見慣れた道筋とは違う。地図を確認すれば一目瞭然、完全な凡ミスだ。
「悪い、折り返そう」
苦笑交じりに答えると、伊藤さんは「やっぱりな」と小さくため息をついた。
引き返しの最中、不意に視界が開けた。
眼下には甲府盆地の夜景が一面に広がっていたのだ。闇を背景に、無数の光が川のように連なり、星座が地上に降りたかのように瞬いている。
「……すげぇな」
インカム越しに聞こえた伊藤さんの声は、驚きと感動で震えていた。
バイクを止めて、二人でしばし黙って眺める。
間違えたからこそ出会えた光景。私達はバイクを止め、しばし黙って眺めた。凡ミスのおかげで出会えた偶然の景色。胸の奥にじんわりと熱が灯る。
人生には間違いもある。だがその間違いも、こうして折り返してみると意外と悪くない景色が待ち受けていることだってある。だからこそ、間違えてもいいんだ。折り返す道でしか得られない何かがあるのだから———。
141号線に戻って、北へとひたすら走る。エンジンの鼓動と夏の夜風の匂いに包まれながら、インカム越しの会話が途切れることはなかった。話題は今書いている物語のこと、日常の細かな出来事、これから先にやりたいこと。何でもない会話の連なりが、不思議と心を満たしていく。
幼稚園の頃から共に苦楽を分かち合ってきた相手だからこそ、沈黙すら心地よい。私が十八で専門学校へ上京した後も、縁は途切れることなく続いた。互いの距離は時に遠くなり、生活のリズムも違ったはずなのに、気がつけば隣にいる。兄弟よりも深く、人生の折々を並走してきたのは紛れもなく彼だった。
ヘッドライトの光に浮かび上がる道は果てしなく続いている。だがその道のりは、どこか過去と現在をつないでいるようにも感じられた。振り返れば幾つもの岐路があった。だが、結局この道を共に走っていること自体が、何よりの答えだった。
無理は禁物である。眠気と疲労は旅の敵だ。私たちは都度都度コンビニへ寄り、煙草をふかしたり、缶コーヒーを買ったりしては、また少し走って次のコンビニで休む。その繰り返しの中で、じわじわと距離を稼いでいった。
南牧村の小さなコンビニで休憩していたときのことだ。夜の空気は山の冷たさを帯び、街灯の下に停まった一台のバイクがやけに存在感を放っていた。インディアン・スカウト。マットなシルバーに塗られたタンクが、夜の闇に深く沈むように光っていた。
オーナーらしき男は車止めに腰掛け、タブレットを片手にしきりに何かを探している。画面を食い入るように見つめ、指先がせわしなく動いていた。
その様子がどうにも気になった私は、缶コーヒーを二本買い、一本を差し出した。
「バイクかっこいいですね!インディアンとはまた渋いですな。ところでこんなところで何かありましたか?」
顔を上げた彼は三十代半ばくらいだろうか。日に焼けた頬に疲労の色が見える。
「……ガソリンスタンドを探してるんです。残り、ほとんど無くて」
タンクを指差すと、エンプティランプがペッカリと付いていた。深夜の山間部、開いているスタンドなど望み薄だ。
「ここから先、しばらく無いですよ。戻るにしても今やってるのは韮崎とかその辺まではないんですよね」
私の言葉に、彼は苦笑いを返した。
「やっぱりそうですか……やっちまいましたね」
ガソリンを分けてやれればと思ったが、現実はそう甘くない。インディアン・スカウトはハイオク車である。私のバイクはレギュラー仕様で、そもそもどうにもならない。伊藤さんのバイクはハイオク仕様だが燃料を抜くには外装を外し、ホースを噛ませる必要がある。そんな大掛かりな工具は持ち合わせていない。結局、分け与えることは断念せざるを得なかった。
「いやぁ、助けようにも無理やな」
そう告げると、予想外にも彼は笑っていた。
それをきっかけに会話が思いのほか広がった。聞けば、納車されたばかりのインディアン・スカウトで、星を撮りに来たのだという。しかも下調べは一切なし。ただ「星が見たい」と思い立ち、ハンドルを握り、山奥へと走ってきたらしい。
その無鉄砲さに、私は思わず頷いてしまった。
——やっぱり、バイク乗りという生き物は面白い。
燃料計と睨めっこしながら、それでも「どうにかなるだろう」と笑う姿は、どこか昔の自分を見ているようでもあった。旅に理屈は要らない。無謀ですら、笑って語れば物語になる。
インディアン乗りのお兄さんに別れを告げ、私たちは再び闇の道へと走り出した。
だが、ここからが本当の試練だった。
さらに山奥へと進むにつれて、休める場所は目に見えて減っていく。コンビニも、街灯すらも数を減らし、ただ黒々とした森の影が左右から迫ってくる。時間の感覚は曖昧になり、ただ単調に流れるヘッドライトの光だけが「進んでいる」という事実を知らせていた。
睡魔は、静かに、しかし確実に牙を剥き始めていた。
何度かバイクを停めて休憩を挟む。だが、その効果は一時的なものに過ぎない。休んだ直後は少し回復したように思えても、再び走り出せばすぐに瞼の重さが戻ってくる。眠気はもはや敵兵ではない。地面から染み出す瘴気のように、全身をじわじわと絡め取ってくるのだ。
さらに追い打ちをかけるのが、胃袋を満たした水分だった。眠気覚ましの缶コーヒー、ペットボトルの水、お茶。次から次へと流し込んできた液体が、今や強烈な尿意となって逆襲してくる。
カフェインは覚醒の刃ではなく、ただの強制排尿成分と化していた。もはや敵を追い払うどころか、足を止める枷にしかなっていなかった。
インカム越しに伊藤さんの呻く声が聞こえる。
「……やべぇな。眠すぎて笑えてきた」
「分かる。もうこれは拷問やな」
互いに声を掛け合うことで、かろうじて意識を繋ぎ止めていた。だが、それすらも長くは続かない。会話が途切れるたびに、暗闇の中で思考も途切れそうになる。
「……ちょっと、頭が割れそうだ」
伊藤さんがインカム越しに呻いた。声には本気の辛さが滲んでいた。
コンビニの明かりが遠くに浮かんでいるのを見つけ、私は迷わずハンドルを切った。
駐車場にバイクを停め、伊藤さんはシートに突っ伏すようにして動かない。
とっさに頭に浮かんだのは、睡眠不足による低血糖だった。私は店内に駆け込み、ラムネ菓子を手に取って戻る。
「ほら、これ食え」
袋を開けて手渡すと、伊藤さんは半ば無意識のまま口に放り込み、しばらくして「……甘い」と小さく笑った。
二人で駐車場の片隅の芝に倒れ込む。夜露が草を濡らしていたが、そんなことを気にする余裕もなかった。
ただ、仰向けになった瞬間、息を呑んだ。
そこには、都会では決して見ることの出来ない満天の星空が広がっていた。
白い帯のように流れる天の川、瞬く無数の星々。その一つ一つがこちらを見下ろしているかのようだった。
私の心は一瞬にして奪われた。どんな夜景も、この空には敵わない。
「……きれいだな」
伊藤さんがぽつりと呟く。私は頷くだけで精一杯だった。
疲労と眠気に支配されていた身体が、星の光で包み込まれるように静まっていく。自然の癒しに、思わず二人とも微笑んでしまった。
やがてまぶたが落ちる。エンジンの余熱も、コンビニの灯りも、すべてが遠のいていく。
その夜、私たちは星空に守られるようにして、ほんのひとときの眠りに落ちていった。
20分ほど芝の上で仮眠をとっただけなのに、目覚めたときには不思議と身体が軽くなっていた。星々の光に見守られた眠りは、ほんのわずかでも確かに私たちを癒してくれていた。
再びバイクに跨り、エンジンをかける。吐き出される排気音が夜の静寂を震わせ、意識を現実に引き戻す。気を取り直して走り出すと、道はやがて軽井沢へと差しかかっていった。
しかし、そこには新たな試練が待ち構えていた。
真夏だというのに、標高を上げるごとに気温は下がっていく。道中の温度計に映った数字は「14℃」。街の熱気を抜けた直後の身体に突き刺さる冷気は、想像以上に鋭かった。
最初は心地よい涼しさだと感じていたのも束の間、指先が痺れるように冷えていく。グリップを握る手がじわじわと感覚を失い、スロットルを回す動作さえぎこちなくなる。夏用グローブでは到底防げず、風は刃のように肌を削いでいった。
「……さみぃな」
インカム越しに伊藤さんの声が漏れる。冗談めかした調子を装ってはいたが、その声もどこか震えていた。
眠気を乗り越えたばかりの身体に、今度は寒さという敵が襲いかかる。まるで自然が、次々と異なる形で私たちを試してくるかのようだった。
「もうちょっと行けばコンビニあるはずや」
私はインカム越しにそう告げ、寒さに震える心を励ました。伊藤さんも「助かるわ……」と力なく応える。
ヘッドライトに照らされる道はひたすらに続く。カーブをいくつも越えても、目指す光は現れない。次こそ、次こそと信じて走るが、待ち受けているのは闇と冷気だけだった。
だんだん会話も途切れ、唇はかじかみ、指先は感覚を失っていく。呼吸のたびに冷気が肺を突き刺し、走るほどに体温は奪われていく。
やがて私は内心で違和感を覚えた。あれほど記憶に残っていたはずのコンビニが、どうしても姿を見せないのだ。
後になって調べてみると、その店はすでに潰れていた。Googleマップの履歴に、赤々と「閉業」の文字が刻まれていた。
——幻を追って走っていたのか。
そう気づいた瞬間、寒さ以上に心が冷えた。
やがて東の空がうっすらと白みはじめた。山影の向こうから染み出すように滲んでくる光は、真夜中の寒さに凍えた身体をゆっくりと解きほぐしてくれる。
気温がほんの数度上がっただけなのに、頬を打つ風はどこか柔らかさを帯び、指先のかじかみも少しずつ戻ってくる。
「……やっと夜が明けるな」
伊藤さんの声は、安堵と疲労が混ざってかすれていた。
走り続けた道の先に、ようやく見慣れたコンビニの看板が見えた。緑と赤の光が、朝焼けの中でぼんやりと浮かんでいる。時計を見ると、すでに5時近くになっていた。
あの幻のコンビニに裏切られた後だけに、その光景はまるで蜃気楼が実体を持ったかのように、眩しく感じられた。
駐車場にバイクを滑り込ませ、サイドスタンドを立てた瞬間、二人とも言葉にならない笑みを漏らした。何かを成し遂げたわけじゃない。ただ「生きて辿り着いた」という事実だけで、十分すぎるほどの喜びだった。
自動ドアをくぐると、店内の冷房が肌に触れ、途端に現実に引き戻される。並んだパンやホットスナックの匂いが、空っぽの胃袋を刺激した。私たちはエナジードリンクを手に、レジへと並んだ。
外に戻ると、空はすでに薄いオレンジ色に染まり、山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。夜の闇と寒さを越えた先に現れた朝は、ただの一日の始まり以上の意味を持っていた。
朝の光を浴びながらコンビニを後にする。ここから先に同じ安心はもうない。最後の補給を終えた今、あとはひたすら山へ分け入るのみだった。
リアボックスに詰め込んだ食料の重みが、奇妙に現実感を与えてくる。振り返れば、自動ドアの向こうに並んでいたパンや缶詰が、どれほど贅沢に見えることか。ここを過ぎれば、もうそんな選択肢はなくなる。
エンジンをかけ直し、二台のバイクはグネグネとした細い山道へと入っていった。舗装はされているが、道幅は狭く、両脇は深い森。夏だというのに、路面にはすでに茶色い落ち葉が溜まり、所々で陽に焼けた枝が散乱している。アクセルを開ける右手に自然と力がこもる。前輪がわずかに浮き、リアがズルリと滑る錯覚を覚えるたび、心臓が跳ね上がった。
山の空気は濃く、湿り気を帯びた土の匂いが鼻を突く。普段なら、このあたりでかすかに硫黄の匂いが混じりはじめるはずだった。尻焼温泉が近づく証拠であり、私の中では旅の「到達点の予感」でもあった。
だが、その日は違った。森の奥から漂ってくるのは、ただただ濃厚な土と緑の香りだけ。硫黄の気配は一切ない。
「……妙だな」
インカムに漏れた独り言は、誰に答えられるでもなく、風にかき消されていった。
ただの気のせいか、それとも何かが変わってしまったのか。その違和感を胸の奥に抱えながらも、私たちはひたすら山を登っていった。
ついに、という思いが胸を支配していた。曲がりくねった林道を抜け、砂利の駐車場へバイクを止める。もうこの際、砂利とかどうでもいいぐらいにはそれまでの道のりが険しかった。ガランとした静けさが余計に達成感を押し上げる。ここまでの道のりのしんどさが、一瞬にして逆回転していくようだった。疲れで落ちかけていたテンションは、川面に立ちのぼる湯気を見た途端にぱあっと弾けた。
期待のあまり、服を脱ぎ捨て、達成感のままに飛び込んだ。
「……冷てぇ!」
予想していた熱さとは真逆だった。川の流れが強すぎて、せっかく湧き出た熱は水にかき消され、むしろ朝の空気と混じって冷たさを増していたのだ。肩まで浸かれば鳥肌が立ち、凍えるような寒さが全身を包む。悪い方の意味で眠気も疲労も一瞬で吹き飛ぶほどの衝撃。
伊藤も飛び込んできて、同じように叫んだ。
確かに川底からはぶくぶくと泡が立ち、熱い湯が湧き上がっているのが見える。けれど、それは流れに呑み込まれてほんの小さな「島」のように点在しているだけだ。場所を探り当てない限り、この川風呂はただの冷水浴にすぎない。
「嘘やろ!これで温泉なんか!?」
歯をガチガチ鳴らしながら叫んだ。その情けない声に、私は寒さを忘れて笑ってしまう。
温泉というより、サバイバルゲームだ。温かいスポットを探して川底を手探りしながら、ようやく指先にぬるっとした熱を感じたときの喜びは、まるで財宝を掘り当てたようだった。が、束の間冷水に流されて消えていくのだ。
岸辺にかつてあった岩風呂は、跡形もなく取り壊されていた。以前ならそこに入れば間違いなく温もれたはずなのに、今や頼れるのは川の流れだけ。安牌を失った衝撃は大きかった。
仕方なく川底の熱い箇所を探しては、石を積んで囲って“即席の湯船”を作ってみる。だが、結果はぬるま湯。肩まで浸かっても温泉というより微温水プールに近く、鳥肌が引くことはなかった。
それでも諦めずに探り続けて、ようやく見つけたスポットは——まるで自然の罠のようだった。
ほんの数十センチの差で世界が変わる。源泉に近づきすぎれば肌を焼くほどの熱湯。けれど離れると一瞬で冷水に変わる。その狭間で絶妙なポジションを保ち続けなければならない。
「熱っ! ……いや寒っ!」
「おいこれ拷問やろ!」
伊藤と交互に叫び声を上げながら、私たちは温泉と冷水の境界線に翻弄され続けた。
そんな我々のもとに、一人のお兄さんが近づいてきた。タオルを肩に掛け、どこか申し訳なさそうに笑っている。
「工事の影響で、しばらくダム放流してるんですよ。だから冷たいんです」
耳を疑った。先に知りたかった。
どうやら岩風呂が取り壊されたのは5月のこと。そして、このダムの工事は先月から始まったばかりだという。
思えばこれまでにも「今日は少し外したな」と感じる尻焼はあった。だが、今回ほど外れを引いたことはなかった。間違いなく“過去最低”の尻焼温泉。
それでも、不思議と嫌な気持ちは残らなかった。
伊藤が湯上がりの煙草をくゆらせながら言う。
「次リベンジする、いいきっかけになったぜ」
その一言に、私は大きく頷いた。
失敗もまた、旅の燃料になる。次はもっと熱い湯に浸かれるはずだ。そう思えただけで、冷たい川風呂すらも笑える思い出に変わっていた。
駐車場の片隅に腰を下ろし、リアボックスから食料を取り出す。
スパムの缶を開け、持ってきたサバイバルナイフでざくざくと切り分ける。クロワッサンチーズと共に挟み、チリソースをぶっかければ即席サンドの完成だ。
「このスパムってさ、メールの迷惑フォルダの“スパム”の語源らしいぞ」
眠気でろれつも怪しいままに、そんな雑学を口にしながら頬張る。脂と塩気が空腹の胃袋に染み渡り、思わず二人でうなずきあう。
眠気に抗えず、二人して近くの道の駅にバイクを滑り込ませた。
ベンチに座っても意識が飛びそうで、まともに会話も成り立たない。施設に併設された温泉で仮眠を取ろうと思ったが、開館はまだ数時間先の午前11時から。入口の張り紙がやけに恨めしく見えた。
売店で買った名物の花豆ソフトを口に運ぶ。冷たさと甘さが一瞬だけ眠気を追い払い、頭の奥にじんわりと糖分が行き渡る感覚がした。
セミの鳴き声が途切れなく響く。山の上だけあって街ほどの暑さはない。けれど疲労が限界に達した身体には、それすら重くのしかかる。気がつけば私はコンクリートの階段に仰向けになり、空を仰いでいた。
青一面の空を、赤とんぼがすっと横切る。
ひんやりとしたコンクリートが背中を支え、目の奥にこびりついていた熱と疲れを少しずつ溶かしていく。
ここまで走り続けてきた自分が、まるで大地に抱きとめられているような、そんな安堵を覚えた。
頭を掻きむしりながら、乾いた声で言った。
「……これからどうするよ?」
伊藤は即答した。
「さっさと長野平野を抜けて、石和の健康ランドを目指そう」
その言葉に、胸の奥で何かがカチリと引っかかった。
「夏の盆地の洗礼に、睡眠不足……確実にやられるぞ。ナシだな。もしお前がどうしても行くなら、俺は群馬経由で帰るぜ」
伊藤が眉をひそめ、声を荒げる。
「じゃあどうするんだよ!」
互いに視線を逸らさずに言葉をぶつけ合う。
眠気と疲労で思考は鈍り、口調も強くなる。苛立ちはもう隠せなかった。
なかなかにまとまらない意見。
「……ビーナスラインは? 涼しいし、帰り道だ」
伊藤は首を振り、疲れ切った声で答えた。
「そんな体力ねぇよ」
再び沈黙。
蝉の鳴き声と、照り返す日差し。
言葉を交わすたびにすれ違い、気持ちが遠ざかっていくのを感じた。
もう、どう考えても埒が明かない。
眠気で頭は回らず、どうやったってこのまま二人が別れゆく未来しか思い描けなかった。
——どうでもいいや。
投げやりな気持ちで口をついて出た案が、
「……上田から白樺を経由して帰るってのは?」だった。
言った瞬間に自分でも苦笑する。
確かに白樺湖は涼しい。だが考えてみてほしい。
距離的には一番の遠回り。疲れ切った身体にとって、あり得ない選択肢だった。
まともな判断力を失った人間が出す案は、大いに的を外すものだ。
だが、伊藤の答えは意外だった。
「……のった! それで行こう」
拍子抜けして思わず笑ってしまう。
往々にしてバイク乗りとは馬鹿なのだ。冷静な判断よりも、その場の勢いと「面白そうかどうか」で進路を決めてしまう。
そうと決まれば話は早い。
重い身体を引きずりながらも、再びバイクに跨る。エンジンの鼓動が眠気を強制的に叩き起こし、アクセルを開ければ心臓まで震えるようだった。
一度気合いが入れば、バイク乗りは早い。
警戒にアクセルをあけ、二台のバイクは迷いなく山道へと走り出した。
山道は単調なカーブばかりだった。だが、二人で走れば退屈とは無縁だった。
メタルギアソリッドが好きな私たちは、互いに「スネーク」と「オセロット」を演じながら、バイクチェイスごっこを繰り広げる。インカム越しの台詞回しと、カーブを抜けるたびの加速が、ただの道をアトラクションへと変えていった。
嬬恋村に差しかかると、畑の向こうから巨大なトラクターが現れた。キャベツ収穫用のモンスター級マシン。その巨体が後方から迫ってくる様は、まるで映画に出てくる怪物に追われているようだった。
「やべぇ、逃げろ!」
笑いながらスロットルを開ける。伊藤も合わせるように加速し、二人でトラクターから逃げ惑う少年兵になりきった。
三十路を迎えた少年たちは、まるで本物の少年のように無邪気だった。
汗も疲労も、しばし忘れてただ夢中で駆け抜ける。大人になった今だからこそ、そのひとときは何よりも尊いものに思えた。
途中のコンビニに寄り、アイスボックスを買った。
そこにエナジードリンクを注ぎ込むと、キンキンに冷えた即席モクテルが完成する。
「ほら、パリピドリンク」
ふざけてそう呼ぶと、伊藤は吹き出して笑った。
「ストローぶっ刺すとよりそうだな」
二人でじゃれ合うように笑いながら飲み干す。
冷たさと炭酸の刺激が全身を駆け抜け、脳が一気に覚醒していくのがわかった。
不思議なもので、こうして馬鹿みたいに笑い合っているうちに、さっきまでまとわりついていた疲労も眠気も、どこかへ吹き飛んでいた。
再びバイクに跨れば、道のりは驚くほど軽やかに進んでいった。
白樺湖をかすめるように走っていたときだった。
空はさっきまで青く澄んでいたはずなのに、気がつけば雲が厚く覆いはじめていた。
ぽつり、ぽつりと大粒の雨がヘルメットを叩く。
最初は夏の夕立かと思った。だが、違和感があった。音が妙に硬い。
腕に当たる衝撃も、知っている雨のそれとは明らかに違っていた。
ふとジャケットの袖に目をやると、白い塊がシワの上に転がっていた。
——雹だ。
気づいた瞬間、次の一撃が肩に落ちた。
「いってぇ!」思わず叫ぶ。
アスファルトには次々と白い粒が弾け、バイクのタイヤを打ち据える。
雨ではない、氷の弾丸だった。
雹に打たれながら走るのは初めての経験だった。
たまたま目に入ったお土産屋の一角にある食堂へ、慌ててバイクを滑り込ませる。
雨宿りならぬ“雹宿り”。
店内は観光客の姿もなく、がらんと静かだった。
窓際の席に腰を下ろし、二人揃ってコーヒーを注文する。
湯気の立つカップを手にしたとき、ようやく心臓の鼓動が落ち着いていくのを感じた。
ガラス越しに広がるのは、銀色の空に覆われたレイクビュー。
水面には雹が波紋を描き、まるで無数の小石が湖に投げ込まれているかのようだった。
その光景に吸い込まれるように、自然と会話は深いところへと流れていった。
伊藤が、仕事のことで鬱屈していると打ち明けた。
「もう、どっか行きてぇんだよな。本気でさ。毎日同じことの繰り返しで、頭が壊れそうだ」
声はやせ細っていて、普段のふざけた調子は影を潜めていた。
私は黙って彼の言葉を聞きながら、カップの縁を指で撫でた。しばらくしてから、言葉を選びつつ口を開く。
「人生は、好きに生きればいいんだと思うよ。どうせ死んだら何も残らないんだから、悔いなく生きた方がいい」
続けて、私は自分が上京した経緯を話した。好きなことをやってみたくて出てきたこと、だが自由には不自由も伴うということ。選ぶことは同時に捨てることでもあり、何かを得れば何かを失う――そんな話を、静かな声で重ねていった。
「生きている間に成し得られることは限られている。かつては俺も大成したいと思ったけど、藤山寛美みたいな大物でも、いつかは忘れられてしまう。時は人を忘れさせるんだ。でも誰かの中で生き続けられるなら、それでいいんだよ。むしろそれがいい。人が本当に死ぬのは、誰かに忘れられたときなんだ」と、私は続けた。
自分でもどこかで聞いたような言葉だな、と思いながら口にしていた。だが、言葉は嘘をつかない。湯気の向こうの湖面に小さな波が立ち、それを眺めるように伊藤は黙って頷いた。
しばらくして、私がふと冗談めかして言った。
「もし俺が先に死んだら、頼むから俺のことは忘れないでくれよ」
その言葉に、伊藤は少し驚いたような顔をして、それから笑った。笑いはぎこちなかったが、本心が混ざっていた。彼はカップを掲げ、「わかったよ」とだけ言った。二つのカップが小さくぶつかり合い、コーヒーの香りが部屋に満ちた。
外の雹は大粒な雨へと姿を変え、まだ降り続けている。けれど窓越しの銀色の景色を見ながら、私たちは確かに、少しだけ軽くなった気がした。
雨の音はやがて弱まり、窓の外の湖面に広がる波紋も少しずつ落ち着きを取り戻していった。
厚い雲が消えることはなかったが、降り止んでくれただけで十分だった。
外に出ると、濡れたアスファルトが鈍く光り、冷えた空気が頬を撫でた。
再びエンジンをかける。重たい身体に鞭を打つような音が、今は妙に心地よい。
楽しさと、嬉しさと、そしてほんの少しのアンニュイをタンデムシートに乗せながら、二人は再び走り出した。
背後に過ぎていく白樺の並木は、まるで静かに見守る観客のように佇んでいた。
農道に出たところで、私のインカムの電源がぷつりと落ちた。
よりによってそのタイミングで、空から大粒の雨が叩きつけてきた。
私はレインコートを持っていなかった。ずぶ濡れのまま足を止めざるを得ず、状況を伊藤に伝えることもできない。インカムの沈黙が、まるで二人の絆まで断ち切られたように感じられた。
側道にあった大きな木の下に逃げ込み、雨宿りする。タバコに火をつけてみたが、葉はすぐに水を吸ってふやけ、頼りなく煙を吐き出すばかり。湿った煙をくゆらせながら、途方に暮れた。
「……ここで二人の旅が終わるのか」
そんな思いが頭をよぎった。
やがて雨脚がわずかに弱まったとき、ポケットの携帯が震えた。伊藤からの着信だった。
「この先の信州そばの製麺所で雨宿りしてる。そこで合流しよう」
一瞬、終わったと思った旅が、細い糸を伝って再び繋がった。
バイクにUSBを差し込み、インカムを充電しながら製麺所へと向かう。
店の軒先で迎えてくれた店員さんが、タオルを差し出しながら言った。
「雨、大変だったでしょ。ゆっくりしてっていいからね」
その一言に胸が詰まった。閉店間際で片付けに追われていたはずなのに、気遣ってくれる。長野は、やはり温かい土地だ。
涙がこみ上げるのを誤魔化しながら、私たちはお礼の代わりに蕎麦を買った。
「なんか、温かいお土産だな」
笑い合いながら袋をぶら下げ、再びエンジンをかける。
外はまだ小雨だった。けれどその雨は、さっきまでの絶望とは違う、どこか優しい雨に思えた。
しばらくは充電しながらの走行で、インカムは沈黙を続けていた。
それでもジェスチャーで互いの状態を伝え合いながら、無言のまま山梨へと入っていった。
やがて充電も回復し、ようやく再び声が届くようになったとき、胸の奥から安堵がこみ上げた。
言葉があってもなくても、伊藤とは心で繋がっている。そう改めて噛み締めながら、残りの道を走った。
健康ランドに着く直前の道で、またしても二人して迷子になった。
それはまるで、今の人生に迷っている自分たちの姿のようでもあった。だが、二人なら乗り越えられる。
そう信じさせてくれる相棒がいることが、何よりの支えだった。
紆余曲折を経て、石和健康ランドにたどり着いたのは夜の七時ごろ。
10数時間前に見送ったあの光景が、目の前に再び現れたとき、帰ってきたのだと実感した。
武装解除して、まっさきに風呂へと飛び込んだ。
熱いほどに温かい湯が全身を包み込む。その瞬間、尻焼で味わった冷たさが一気に遠ざかり、身体の芯まで解きほぐされていくのがわかった。
川の中で震えながら探したぬるい湯溜まりとは正反対の、確かな熱。
「何の気なしに入る風呂」が、これほどまでに心身を満たすものだったとは思いもしなかった。
当たり前だと思っていた日常。
けれど、こうして極限をくぐり抜けた後に味わえば、それがどれほどの贅沢かを思い知らされる。
生きてここまで辿り着き、今こうして温もりに包まれている。その事実が、何よりも尊いものだった。
風呂上がりは大広間へ直行した。
名物の山賊焼を頼み、ジョッキビールで二人して乾杯する。
にんにくを追加して盛られた山賊焼は、ガツンとしたエナジーの塊のようで、旅で削られた体力を一気に回復させてくれた。
山梨の恵みに感謝しつつ、空腹も手伝って皿はあっという間に空になった。
食後、喫煙所で一服する。
「……大変だったけど楽しかったよな」
私がそう言うと、伊藤さんは煙を吐きながら笑った。
「次こそは、最高の状態の尻焼を味わいたいもんだぜ!」
「また会おう」
そう言葉を交わし、別々の部屋へと散っていった。
それぞれの時間を過ごし、翌朝、またそれぞれの岐路へと立つ。
天国か地獄かで言えば、あの二日間は間違いなく“地獄”に等しかった。
だが、地獄の中でしか味わえない天国が、確かにそこには広がっていたのだ———。
久しぶりの更新です
ココ最近めっきりメンタルを崩してしまっており
なんだかなぁと思う次第です
異動なりなんなりの時期ですし、
皆どこかで春の陽気に当てられるんでしょう
そんな、筆者ですが
この体験をどこか面白く、おかしく捉えていただけて
少しでも前を向く力添えになれたらなと思っております。
沢山の思いを乗せて、バイクは走り出す。
人はバイクには追いつけないけれど、歩き続ければ同じ場所へとたどり着けますからねぇ
一歩一歩ゆっくり歩いていきましょう




