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■第四章:三ノ宮の情け


 まだ夜の残り香が漂うこの時間、箱根の坂を下り切ろうとしていた。群青の空の奥に、うっすらと朝の気配が差し込んでいる。

 ワインディングを抜けるたび、視界がぱっと開け、遠くの街の灯りが宝石のように散りばめられていた。点と点が線となり、これから迎える一日の地図を描いているかのようだった。

 風は少し冷たく、頬を刺すたびに目が冴える。その冷たさすら「これから先も走る喜び」を知らせる合図のようだった。

 アクセルをひねると、排気音が朝の静けさを突き抜け、胸の奥に弾むように響いた。正面に広がる沼津の街は、これから目指す神戸・三ノ宮の光へとつながる入口に思えた。闇と光の狭間を駆け抜けるこのひとときは、未来の幕を開ける合図のようだった。

  昼には三ノ宮に着いているはずだった。そう信じて、夜明け前から飛び出した。箱根を抜けたときの高揚感は、まだ胸に鮮やかに残っていた。

 だが、静岡に差しかかったころ、空気の匂いが変わった。湿った土の匂いが、風に混じって鼻を刺す。遠くの山並みは灰色にかすみ、雲が墨を流したように濃く覆いかぶさっていた。

 「予報は晴れじゃなかったのか?」

 そう思った矢先、フルフェイスのシールドに大粒の雨が叩きつけられた。ひと粒、ふた粒が一瞬で轟音へと変わり、視界は白い水幕に閉ざされた。

 最初はすぐに止むと思った。だが違った。線状降水帯は容赦なく空を支配し、地面を叩きのめした。アスファルトの色はみるみる黒く変わり、轍は川のように水を集めて流れた。

 カッパを持ってきていないことを思い出した瞬間、全身が冷たさに縛られた。シャツは肌に張りつき、靴の中は瞬く間に水たまりとなった。グローブは水を吸って重くなり、指先の感覚が鈍っていく。

 東北の大雨の時を思い出すほどに降り注ぎ、アクセルを開けても、エンジン音は水を噛んで「ボボッ、ボボッ」と鈍く呻くだけだった。進みたいのに進めない。止まりたいのに止まれない。選択肢はどちらにも転倒の影を孕んでいた。

 胸の奥で「昼には着く」という予定が音を立てて崩れていく。計算していた距離も、時間も、すべてが水に流されていく。本当の意味で———。

 やがて冷たさは、ただの感覚を越えて、心の芯まで蝕んでいった。走っているのに、前に進んでいないような感覚。孤独と焦燥だけが、雨音とともに私を包み込んでいた。


 普段から長靴を履いている私にとって、多少の雨なら恐れる必要はなかった。だが、この日の雨は違った。防水であるはずの長靴は、水を遮るどころか逆に雨を貯め込む容器へと変貌した。アスファルトを叩く大粒の雨は、路面を跳ねて容赦なく足元へと流れ込み、気づけば靴の中は小さな水槽のように満たされていた。

 屋根付きの休憩スポットを見つけるたびに、私はバイクを止めて片足ずつ長靴を脱ぎ、逆さにして水を吐き出した。ジャーッと流れる冷たい水は、しばしの解放を与える。だが、それもほんの数分のこと。再び走り出せば、雨粒が無数の針となってシールドを叩き、タイヤが巻き上げるしぶきが膝から下を容赦なく濡らしていく。数キロ走るだけでまた元通り。止まっては水を抜き、走ってはまた溜め込み——まるで雨に弄ばれているかのようだった。

 牧之原に差しかかったとき、雨脚はさらに強さを増した。空は墨を流したように黒く、風も加わって前進を拒むかのようだった。体温が奪われ、靴下が肌に貼りつく感覚が不快でたまらない。私はそこで思い切って靴下を脱ぎ、素足で長靴を履き直した。「濡れた布を貼り付けるよりはマシだろう」と自分に言い聞かせながら。だが、その選択が後に思わぬ代償をもたらすことになるとは、その時は知る由もなかった。

 掛川を越える頃には、道路そのものが川のように変わり果てていた。白線は消え、ただ濁流のように流れる水が道の形をかろうじて示すだけ。車のテールランプが水面に揺れ、赤い光がにじんで心細さを煽る。私はハンドルを握る手に力を込め、歯を食いしばってアクセルを調整した。だが、進めば進むほど冷えが骨身に染みていく。

 浜松では、ついに全身が雨に支配された。シャツは肌に貼りつき、グローブは水を吸って鉛のように重くなり、指先の感覚は失われていた。走るというより、水の中を掻き分けて進んでいるような錯覚に陥った。心のどこかで「今日はもう神戸には辿り着けないかもしれない」と弱音が芽生えた。

 豊橋に近づくにつれ、雨はさらに激しさを増し、道は完全に冠水していた。バイクのエンジンが「ボボッ」と鈍い音を立てるたびに、不安が胸を突く。前へ進めば転倒の恐怖、止まれば寒さが心臓を締め付ける。進んでも地獄、止まっても地獄——そんな二択しかなかった。

 屋根の下で水を吐き出す作業は、もはや儀式のようになっていた。片足を抜き、逆さにして水をジャーッと流す。冷たい水がアスファルトを流れ落ちるのを眺めながら、「どうせまたすぐに溜まるのだ」とわかっている。その虚しさと絶望感は、ただ雨に濡れる以上に心を削いだ。

 胸の奥で「昼には着いているはずだった」という予定が崩れていく音がした。予定も距離も、すべてが水に流されていく。前に進むたび、私の希望は雨に溶けて消えていくようだった。

 毎度毎度書いてて思うが、本当に天気に恵まれない。


 午前十一時半、刈谷に入ると、空は一転して晴れ渡っていた。ついさっきまで視界を奪っていた土砂降りが嘘のように、青がどこまでも広がっていた。濡れた服に太陽の光が差し込み、じんわりと温もりが戻っていく。身体中が冷え切っていたせいか、その温もりはただの日差し以上に、心を解きほぐしてくれるようだった。

 立ち寄ったのは「YES!8」というアメリカンダイナーだった。コンテナハウスを改装した店は、有刺鉄線付きの鉄柵に囲まれ、敷地には大きなサボテンが無造作に突き出していた。風に揺れるアメリカ国旗がカサカサと音を立て、ここだけ日本のど真ん中ではなく、砂漠地帯のハイウェイ沿いに迷い込んだような錯覚を与えていた。

 席に着き、ハンバーガーを頬張ると、香ばしいバンズの香りとジューシーな肉汁が口いっぱいに広がった。雨に打たれ、冷え切った体を慰めるように、その温かさが胃に落ちていく。ソースの甘さと塩気が舌に残り、フライドポテトの油が「生き返った」と言わんばかりに血となり肉となっていくのを実感した。こんな一口が、走行の苦行を一瞬で報われたものに変えてくれる。

 食後、愛車を店の前に停め、いつものようにカメラを構えて写真を撮っていた。そのとき、店の従業員のお姉さんが笑顔で近づいてきた。


 「お客さんのバイク、すごくかっこいいですね!もしよかったら、お店のインスタに載せてもいいですか?」


 突然の申し出に一瞬戸惑いながらも、胸の奥で嬉しさが跳ねた。撮影会のように角度を変えたり、カスタムについて質問されたりするうちに、体の芯にまで誇らしさが広がっていく。雨に打たれ、冷え切って、心が折れかけた数時間が、この一瞬のためにあったのかと思えるほどだった。

 太陽の下、異国の空気に包まれ、愛車を誇れる喜びに満たされる。「YES!8」は、私にとって旅の救いの刈谷ロードウェイ・オアシスとなった。

 名古屋を抜ける頃には、ずぶ濡れだった服はようやく乾いてきていた。アスファルトから立ち上る熱気が背中を温め、乾いた生地が肌に張り付く感覚に、少しだけ安堵を覚えた。ああ、これでようやく落ち着いて神戸まで走り切れる——そう思った矢先だった。

 四日市の手前で、空が突然黒く落ちた。次の瞬間、ヘルメットのシールドに大粒の雨が叩きつけられる。粒が砕け、視界はたちまち白く滲んでいく。乾いた身体はまた冷たい水に奪われ、さっきまでの安堵は一瞬で打ち消された。

 雨雲レーダーでは「高速側は晴れ」と表示されていた。希望を託して料金所を抜け、アクセルを開けた。だが伊賀に入るまで、予報を嘲笑うように激しい雨は止むことなく続いた。

 速度を増すほどに雨粒は鋭さを増し、頬や首筋に針を突き立てるような痛みを与える。グローブ越しの手にまで衝撃が響き、歯を食いしばらなければ顔を上げていられなかった。もはや雨というより、無数の小石をぶつけられているようで「これは拷問だ」と苦笑するしかなかった。

 乾きと濡れの繰り返し。救いの晴れ間はほんの束の間で、またしても大雨に試される。走り続けるその道は、まるで「ここから先を進む覚悟があるか」と問いかけてくる試練のようだった。

 伊賀を抜け、名阪国道を経て湾岸線へと差しかかる頃、空はどんよりとした鉛色に覆われていた。雨は上がったはずなのに、湿気を含んだ空気は重く、海から吹き上げる風は冷たく肌を刺した。安堵を覚えるどころか、むしろ胸の奥で不穏なざわめきが広がっていった。

 普段から私は、神奈川から東京へ走る際にも湾岸線を避けていた。ベイブリッジを渡るたび、橋を繋ぐ金属の継ぎ目にタイヤを取られ、バイクがわずかに滑る。そのたびに心臓は跳ね上がり、下に広がる東京湾の水面がいやでも目に入る。横風が吹けば身体ごと煽られ、ハンドルがふらつく。高所恐怖症の私にとって、あの数分間は常に「命綱の上を走る」ようなものだった。シールド越しに景色を見渡す余裕などなく、ただ前を見据え、ゴールデンボールを縮み上がらせながら耐えるだけの時間だった。


 ——その恐怖を知っているからこそ、大阪湾岸線に足を踏み入れた瞬間、背筋が粟立った。目の前に現れた橋は、東京で見慣れたそれよりもはるかに巨大で、鋼鉄の骨組みが空へ向かってそびえ立っていた。海を跨ぐ一本道。欄干の低さと海面の近さが、逆に「落ちれば終わり」という現実を突きつけてくる。

 走り始めると、横風が容赦なく襲いかかってきた。バイクは軽く浮き上がるように左右へ揺れ、私は必死にタンクを膝で締めつけた。グローブをはめた手のひらは汗でじっとり濡れ、ハンドルを握る指先まで痺れる。速度を落とせば後方から迫る大型トラックに呑まれる、かといってアクセルを開ければ開けるほど風の刃は鋭くなる。恐怖と現実の板挟み。シールドに当たる風切り音は、金属を擦り合わせるような不快な唸り声となり、鼓膜を震わせた。

 視界の端に大阪湾が広がる。灰色の海面に白い波頭が次々と砕け、橋脚に叩きつけられては砕け散っていた。下を見てはいけないと頭ではわかっていた。だが恐怖は逆に視線を引きずり込む。ちらりと見えた波間が異様に鮮明で、そのたびに「もし今転倒したら、この海に真っ逆さまか」という想像が頭をよぎる。金属の継ぎ目をタイヤが越えるたび、ガタンと音を立てて車体がわずかに跳ね、その度におきゃんたまがキュッと縮み上がった。

 そして橋はひとつでは終わらない。渡り切った先にはまた次の橋が口を開けて待ち受けている。救いの出口などなく、恐怖は連続する。橋脚が海に突き刺さる景色が繰り返し現れ、そのたびに胸が締め付けられる。まるで巨大な怪物の背骨を渡っているかのようだった。

 ハンドルを取られまいと上体に力を込めすぎて、肩や首は石のように固まった。ヘルメットの中で呼吸は浅くなり、酸素が足りないように頭がぼうっとする。鼓動は速く、不規則で、耳の奥で太鼓を叩かれているように響いた。背後から迫るトラックのライトが橋の鉄骨に反射し、影が巨大にうねって視界を揺さぶる。逃げ場はなく、ただ前へ進むしかない。

 一本目を渡り切った瞬間、全身の力が抜け、ハンドルに突っ伏しそうになった。だが視界の先には、さらに長く高い橋が待っていた。絶望感がのしかかる。まだ終わらないのか。まだ試されるのか。頭の中で何度も「帰りたい」という言葉がよぎったが、道は一本きりで、引き返す勇気すら奪われていた。

 大阪湾岸線——そこは走行する者の心を丸裸にし、恐怖を余すことなく突きつけてくる道だった。私は縮み上がる感覚を抱えたまま、ただ無心でアクセルを握りしめていた。

 橋を渡り切ったときには、腕も肩も石のように固まり、呼吸さえまともにできなかった。湾岸線の風と高さにさらされ続け、記憶は途切れ途切れで、ただ「落ちるな」「耐えろ」と唱えるだけで必死だった。

 ようやく神戸市街へたどり着いたころには、時間の感覚もあやふやで、身体は鉛のように重かった。ハンドルを握る手は汗でじっとり濡れ、グローブの内側で指がふやけていた。

 気づけば時計の針は午後四時を回っていた。集合は五時。まだ間に合う。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥では別の恐怖が広がっていた。

 三ノ宮の街へ入ると、今度は高速の恐怖とは違う種類の圧迫感が待ち受けていた。人と車と信号が入り乱れる一通地獄。路地へ入るたびに「ここは一方通行か?」と怯え、標識を見落とすまいと目を皿のようにして走る。ぐるぐると同じ道を回り続け、正解を見つけられないまま、時間だけが容赦なく過ぎていく。

 橋の上では「風」に怯え、街中では「道」に怯える。恐怖の種類は違えど、金の玉が縮み上がる感覚は変わらなかった。

 ようやく駐輪場を見つけてバイクを停めたとき、肩の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。歩き出した足取りはふらつき、まるで戦場を抜けた兵士のようだった。

 店に辿り着いたのは、まだ集合時間よりわずかに早い頃だった。だが扉を開けた瞬間、視界に入ったのはすでに揃っていた同級生たちの顔だった。笑い声と煙草の煙が入り混じる空間に、私はひとり遅れて迷い込んだ旅人のように立ち尽くした。

 案内されたのはお座敷席だった。靴を脱いで上がる瞬間、嫌な予感が胸をかすめる。朝からずぶ濡れになり、牧之原で靴下を脱ぎ捨てて素足で長靴を履き、そのまま何時間も雨水と汗にさらされ続けてきた。乾いたように見えても、中身はすでに「発酵」の領域に入っていたのだ。

 足を一歩畳に踏み入れたとたん、周囲がざわついた。

 「……なんか臭くない?」

 「おいおい、どっからだよこれ」

 笑い混じりの声が飛び交い、空気が一気にざわめく。次の瞬間、矢印のように一斉にこちらへ視線が集まった。私は顔が熱くなるのを感じながら、どう取り繕えばいいのか迷った。

 「……悪い、俺やわ」

 観念してそう口にすると、場の空気は一拍の沈黙の後、爆笑に変わった。

 緊張で強張っていた肩が少しほぐれる。旅の泥と汗と雨が混ざり合った「臭さ」が、逆に同窓会の空気を和ませるきっかけになったのだ。

 金玉が縮むような湾岸線の恐怖を越えてきた末に待っていたのは、こんな物語よりも、もっと人間臭い「長靴のオチ」だった。恥ずかしさと同時に、妙な安心感すら覚えた。

 爆笑の渦の中、ふと視線をずらすと、その輪の中に高校時代の元カノがいた。懐かしさと驚きが一度に胸に押し寄せる。笑いに肩を揺らしながらも、どこか落ち着いた眼差しでこちらを見ている。その隣の席が空いており、自然と私はそこに腰を下ろすことになった。

 だが、直後に気まずさが襲ってきた。さっきまで笑いのネタにされていた「臭い」の元凶は紛れもなく自分だ。隣に座った瞬間、「ごめんよ、臭いかも」と小声で謝った。

 ところが彼女は眉ひとつ動かさず、むしろ少し微笑んで「全然気にしてないよ」と言った。その何気ない一言に、不思議と救われる。周囲の笑い声がまだ残響のように響いている中で、ふたりの間だけ別の空気が流れているように感じられた。

 本来なら酒に逃げたい場面だったが、この日はすぐに別の旅に出る予定があった。ウーロン茶だけを口にしていると、「飲まないの?」と問われ、「このあと走るから」と答える。高校時代ならできなかった距離の取り方を、今は自然にできているのが不思議だった。

 そのまま帰るつもりでいた。だが、不意に袖を引かれる感覚があった。

 「少しだけ、抜け出さない?」

 彼女の言葉に逆らう理由はなかった。気づけばふたりで店を抜け出し、夜の街へ出ていた。ドン・キホーテでヘルメットを工面して、シートに跨った彼女を背に、エンジンをかける。都会のネオンを受けて光るクローム、響き渡る排気音。背中に感じる温もりと、柔らかな感触に一瞬ムフフと思うのは胸にしまった。夜風が頬を切り、神戸の街が目の前に広がっていく。

 走りながら、ふと高校の入学直後のことを思い出した。あの頃、私はいわゆる“高校デビュー”の真っ只中で、まだ肩に力が入りっぱなしだった。そんな私の制服の袖を、いきなり彼女が引っ張ったのだ。

 階段の踊り場まで連れていかれた瞬間、正直、背筋が凍った。——焼きを入れられるんだな。しかも相手は女子かよ。そう思って身構えた。だが次に口から出たのは、まったく予想外の言葉だった。

 「好きです。付き合ってください」

 頭が真っ白になった。気づけば「ごめん」と断っていた。だが、それで終わらなかった。翌日も、翌々日も、彼女は同じ場所で私を待っていたのだ。制服姿のまま、諦める気配などまるでなく。

 そのしつこさが、いや、諦めない強さが気になり始めた。気づけば私は観念したように「わかった」と返し、ふたりは付き合うことになった。

 今こうして背中に感じる体温は、あの頃の彼女と変わらない。袖を引っ張られるたびに、あのときの勢いと真っ直ぐさが重なって見える。


 やがて港へ出る。海は街の光を映して静かに揺れていた。観覧車の灯りが遠くにぼんやりと浮かび、潮の匂いが風に混じる。ふたりはヘルメットを脱ぎ、しばし無言でその景色を眺めていた。過去と現在が一本の道のように繋がっていくのを、言葉よりも先に心が理解していた。

 彼女は昔から私のことをよく知っている。だから私は、大船渡での出来事を語った。冬の湖畔の別れ、酒に逃げて声がすれ違った日々、そして——子どものことを思い出すのが何よりも辛かったこと。無邪気に笑う顔や小さな手の感触が、今も胸に残って離れないこと。

 「別れるのは辛かった。でもね、一番辛かったのは、あの子が当たり前にいた時間が自分の世界からそっと抜け落ちていくのを見ていることだったんだ」言葉にするほど、胸の奥の石のようなものがカチャリと音を立てて動く気がした。

 話し終えた後、空気が少し重くなった。波の音も、街灯の光も、どこか遠い。いまここで笑い合っていたはずなのに、過去の影がすっと入り込んでくる——そんな瞬間、背後から暖かい感触が私の胴に触れた。


 彼女は両腕をしっかりと回し、背中から私を抱きしめた。全身を預けるような強さと温もりに、思わず息が詰まる。

 「……生乾きで臭いよ」

 照れ隠しのように小さく呟くと、すぐ耳元で返事があった。

 「いいよ、そんなの」

 その一言には一切の迷いも冗談もなく、ただ真っ直ぐに私を受け止める優しさがあった。

 「よく頑張ったね」

 その囁きは、高校の頃と変わらない真っ直ぐな響きを持っていた。両腕に抱え込まれた瞬間、自分の中で長くざらついていたものが、音もなくほどけていくのを感じた。

 私は目を閉じ、彼女の腕に包まれながら夜の港に立っていた。潮の匂いと街の光に囲まれ、世界の輪郭は少しだけ柔らかくなっていた。


両腕に抱きしめられたまま、私は少しドキドキしていた。胸の奥でくすぶっていた過去の痛みが、彼女の温もりで一瞬だけ溶けていくように思えた。背中越しに伝わる心拍は落ち着いていて、その分こちらの鼓動だけがやけに速く感じられる。思わず好きだと口に出しそうになった。あの頃の甘酸っぱさが、蘇るようだった。

 けれど、そのタイミングで背中越しに降りてきた声は、私の胸を鋭く切り裂いた。

 「……私、結婚するんだ」

 空気が凍った。夜風が急に冷たくなった気がした。ドラマや小説の中でしか見たことのないような展開が、現実として突き刺さる。海の光も、港のざわめきも、一瞬で遠のいた。胸の奥に渦巻いていた温もりが、急激に冷水を浴びせられたように消えていく。

 どこに感情を置けばいいのかわからなかった。抱きしめられているのに、孤独だった。嬉しさと痛みが同時に胸を圧迫し、呼吸すらままならない。脳裏をよぎったのは、高校の頃、袖を引かれて踊り場で告白されたあの瞬間。あのときも不意を突かれて心が揺さぶられたが、今とは決定的に違う。あのときは未来が始まったが、今回は未来が閉じられたのだ。

 それでも、沈黙は許されなかった。喉の奥が焼けるように熱く、言葉を押し出した。


 「……おめでとう。幸せに生きろよ」

 驚くほどストレートな言葉だった。自分の声なのに、他人が口にしたように思えた。だが、言い終えた瞬間、胸の奥で何かがちぎれるような痛みが走った。祝福の言葉が唇を出たと同時に、心の奥では確かに別れを受け入れていたのだろう。

 彼女は何も言わなかった。ただ、小さく微笑んで、少しだけ腕の力を強めた。それだけで、私はもう一言も発せなかった。潮風が頬を撫で、港の灯りが滲んで揺れた。あの一瞬は、人生で最も長く、最も短い抱擁だった。

 それから私たちは、なぜか自然と手をつないで港を歩いていた。灯りに照らされた水面が、ゆっくりと揺れている。波止場のコンクリートは夜風に冷たく、靴底から伝わるひんやりとした感触が、どこか現実に引き戻してくる。それでも、繋がれた手の温もりがすべてを打ち消していた。

 言葉は少なかった。互いに何を話しても、先ほどの一言を越えることはできないと知っていたからだ。ただ歩調を合わせることが、唯一の会話だった。

 やがて、家の近くまで辿り着いた。私は彼女の前でバイクを停め、ヘルメットを脱いで小さく息を吐く。彼女は少し笑って「ありがとう」とだけ言った。その声が夜気に溶けていくのを聞きながら、私はエンジンをかけた。

 振り返れば、玄関へ向かう彼女の背中。灯りに照らされたそのシルエットは、どこか遠い存在のように思えた。アクセルを軽く吹かして前へ進む。排気音が夜を切り裂き、彼女との距離を一気に広げていく。

 その瞬間、風に乗って微かな声が耳に届いた。

 「……遅いよ」

 振り返ることはできなかった。けれど、その言葉は排気音にもかき消されず、胸の奥に真っ直ぐ突き刺さった。涙にも似た熱が、シールドを曇らせる。

 海風香る住宅街に響いたその一言は、別れの言葉以上に私を縛った。そして同時に、二度と戻れない道を走り始めたことを悟らせたのだった。

 

 大阪を抜けるころには、すでに心も体も限界に近かった。けれど、あえて高速には乗らなかった。雨雲レーダーを見れば確かに空は割れているはずなのに、走っている実感は全然違う。むしろ、アスファルトの黒光りや街路樹に溜まるしずくが、しつこいように「まだ止んでないぞ」と告げていた。

 東へ、東へと走り続け、深夜二時を回った頃、ようやく奈良の健康ランドにたどり着いた。

 ロビーのベンチに腰かけていたのは、地元・三重から来てくれた友人の「つよし」だった。彼は私の顔を見るなり、「遅ぇぞ!」と笑いながら立ち上がった。その声に、張りつめていた緊張の糸が一瞬で切れるのを感じた。

 ロッカーで長靴を脱いだ瞬間、むわっと立ちこめた異臭に、つよしは鼻をつまんで「うわっ!なんやその匂い!」と大声を上げた。事情を話すと、二人で腹を抱えて爆笑した。大雨の中、水を抜いては履き直し、最後には素足で突っ込んだ結果がこれだ。自分では笑えなかった惨状も、つよしと並んで笑えばただの旅のネタになる。その温度差こそ、友という存在のありがたさなのだろう。

 浴場で湯船に浸かりながら、私はふとさっきまでの出来事を思い返していた。神戸で元カノと再会し、過去を美化してしまったこと。抱きしめられた温もりに一瞬、気持ちが揺れかけたこと。けれど、こうして湯気の向こうで肩まで湯に浸かるつよしの姿を眺めていると、答えは単純だった。自分が帰るべき場所は「昔」じゃない。いま笑い合っている「現在」こそが支えなのだ。

 「お前、ほんまタフやな」

 湯船から上がるとき、つよしがそう呟いた。軽い冗談のようでいて、どこか本気の響きを帯びていた。

 その一言に、私はようやく実感した。——失恋は痛みだったが、痛みを通して強くなったのだと。



私事ではございますが、引越しに続き車を買いました。


日常の足用として買ったはずなのに、バイクもそうなんですがついついいじりたくなるんですよねぇ


とはいえまだまだ遠出の際はバイクに乗ろうと思ってます!


でもやっぱ車が楽……。

それじゃダメじゃん

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