近すぎます、騎士団長。吐息がかかっています
王都の平和を守る第一近衛騎士団。
その頂点に立つ男、カイル・ヴァン・ディードリヒは、生ける彫像と評されるほどに隙がなく、冷徹な美貌の持ち主だ。
彼は部下に対して厳格であり、その指導は苛烈を極める。
かつて訓練中に剣を落とした若手に対し「死人に再試行の機会はない」と即座に除隊を告げた氷の男。
そんな彼が、家柄も平凡で剣技も標準的な私、エレーナ・アシュレイを直属の補佐官に指名したことは、騎士団最大の謎とされていた。
選抜試験の日、私は緊張のあまり凡ミスを繰り返し、不合格を確信していた。
だが、試験官席に座るカイル様と目が合った瞬間、彼は私の戦術評価書を一瞥し、こう断言したのだ。
「この者の、戦場における『危機察知能力』と『細部への執着』は、私の右腕として相応しい。……逃がす手はないな」
周囲の幹部たちが「もっと適任がいる」と難色を示す中、彼は有無を言わさぬ威圧感で私を指名し、なかば強引に自分の執務室へと引き入れた。
そんな私が、今の”異常な距離感”を受け入れるしかなくなったのには、あるきっかけがある。
数ヶ月前、魔物討伐の遠征中に激しい嵐に見舞われた際、私は崖崩れに巻き込まれそうになった。
その時、真っ先に私を抱き寄せ、身を挺して守ってくれたのがカイル様だった。
洞窟での雨宿り。
濡れ鼠になり、寒さに震える私の肩を、彼は自分のマントで乱暴に、けれど拒絶を許さない力強さで包み込んだ。
「……カイル様、お怪我は」
「黙れ。今は自分の心配だけしていろ」
焚き火の爆ぜる音だけが響く狭い空間で、彼は私の冷え切った手を、その大きな掌で包み込み、直接体温を分け与えてきた。
「お前を失うことは、私の半身を失うことに等しい。二度と私の側を離れるな」
その時、彼の瞳に宿ったのは──氷を溶かすほどの苛烈な情熱だった。
それ以来、彼の“指導“は、私を二度と逃がさないと言わんばかりの距離で行われるようになったのだ。
「……団長、またエレーナの近くにいないか?」
「ああ。遠目から見ると、一つの影にしか見えないな……」
当事者である私は、執務机の上で広げられた戦術マップを見つめながら、背後から迫る圧倒的な熱量に冷や汗を流していた。
◇◆◇
「エレーナ。この補給路の確保、詰めが甘いと言ったはずだ」
不意に、耳元で低く心地よい声が響いた。
物理的な距離が絶望的におかしい。
カイル様の胸板が、私の背中に薄いシャツ越しに触れるか触れないかの距離にある。
彼が言葉を発するたびに、温かい吐息が私の耳朶をくすぐり、首筋の産毛が逆立つのがわかった。
彼によるこの“超至近距離指導“は、場所を選ばない。
先日、訓練場で私が剣の素振りをしていた時のことだ。
背後から音もなく近づいたカイル様は、私の背後から覆いかぶさるようにして、私の両手の上から自分の手を重ねた。
「重心が浮いている。もっと腰を落とし、私を支えにするつもりで踏み込め」
カイル様の体温が、私の背中全体に伝わる。
剣を振るたびに、彼の強靭な筋肉の動きがダイレクトに響き、心臓が跳ねた。
周囲の騎士たちが「何事か」とこちらを見たが、彼は鋭い視線で彼らを一掃し、「他人の指導を盗み見する暇があるのか?」と一喝。
結果として、私たちは公衆の面前で抱き合っているような格好のまま、一時間もその場に留め置かれた。
またある時は、執務室で報告書を整理していた私の背後に彼が立った。
「その資料は後回しだ。先にこちらの機密書に目を通せ」
彼は私の左右の肘掛けに両手をつき、私を完全に腕の中に閉じ込める『壁ドン』ならぬ『机ドン』の態勢をとった。
「……カイル様、これでは私が動けません」
「動く必要はない。私の腕の中で、内容だけを理解すればいい」
私がページをめくろうと指を動かすたび、彼の腕の装飾品が私の肩にカチリと当たる。
逃げ場のない檻のような空間で、彼のサンダルウッドの香りが濃密に立ち込め、私の思考は停止寸前だった。
「……は、はい。申し訳ございません。すぐに修正しますので、あの、カイル様……」
「なんだ」
「……近いです。というか、当たりそうです」
私が勇気を出して進言すると、彼はわずかに身を引くどころか、さらに深く身を乗り出し、私の手の上から自分の手を重ねてペンを動かし始めた。
「指導中だ。私語は慎め」
(指導中なら、なおさら離れてやってください……!)
◇◆◇
カイル様の独占欲は、非常に巧妙かつ強固だ。
彼は決して「好きだ」とは口にしない。
ただ、私が他の騎士と談笑していれば、どこからともなく現れて「報告書に不備がある」と私を執務室に連行する。
つい数日前のことだ。
私が中庭で同僚の若い騎士から、遠征土産の木の実を受け取ろうとした時のこと。
「エレーナ殿、これ、君の故郷の味に近いと思って……」
その手が私の指先に触れるかという瞬間、背後から氷点下の声が降ってきた。
「──その木の実には、微弱ながら魔力を狂わせる成分が含まれている可能性がある。騎士団の健康管理は私の管轄だ。没収する」
いつの間にか背後に立っていたカイル様は、私の手から木の実を奪うのではなく、私の手首を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「エレーナ、拾い食いをするほど空腹なら、後で私の部屋へ来い。栄養学に基づいた『特別指導』をしてやる」
同僚が青ざめて逃げ去る中、彼は私の手首を掴んだまま、痕が残るほどの力で指を絡めてきた。
また、王宮の夜会に護衛として参加した際も、彼の執着は異常だった。
ドレス姿の私を見て鼻の下を伸ばす他部署の将校たちを、彼は冷徹な視線で射殺しながら、私の背後にぴったりと張り付いた。
「……カイル様、背中のファスナーが少し、落ち着かなくて」
私が背中に手をやろうとすると、彼は「私が確認する」と言って、衆人環視の中で私の髪をかき上げた。
「鎖骨が出すぎている。これは戦場において急所を晒す愚行だ。……隠せ」
彼は自分の首に巻いていた上質なスカーフを解くと、私の首元に指先が触れるほどの至近距離で、執拗に、そして丁寧に巻き付けた。
「お前の肌を、私以外の不純な視線に晒すな」
二人になった途端、これである。
その瞳はもはや指導者のものではなく、獲物を囲い込む捕食者のそれだった。
「カイル様、あの……本当に、吐息がかかっています。耳が、熱いんです」
私が赤くなった耳を隠そうとすると、彼は重なった手の方に力を込めた。
「熱い? ……ふむ、熱発か。確認してやろう」
「えっ、あ、ちょっ──」
カイル様は空いている方の手で、私の額に自分の額をぴたりと合わせた。
至近距離で、彼の鋭くも美しい蒼い瞳が私を射抜く。
鼻先が触れ合い、互いの呼吸が完全に混じり合った。
「……熱いな。だが、これは風邪の熱ではない。お前が、私を意識している証拠だろう?」
無表情なはずの彼の唇が、ほんのわずかに、愉悦に歪んだ。
◇◆◇
「……卑怯ですよ、団長」
私は観念して、小さく呟いた。
魔物相手には無敵を誇る騎士団長が、小さな部下一人を落とすために、これほどまでに執執拗な接近戦を仕掛けてくるとは誰が予想しただろう。
「卑怯で構わない。戦いとは、相手の逃げ道を塞いだ者が勝つものだ」
彼の“戦術“は、言葉だけでは終わらなかった。
その日の夕刻、私が自分のデスクに戻ると、そこにあるはずの書類やペン立てがすべて消えていた。
驚いて周囲を見渡すと、カイル様が自分の巨大な執務机のすぐ隣に、私の机をぴったりと密着させて配置させていたのだ。
「カイル様、これは一体……」
「非効率を排除したまでだ。報告のためにいちいち歩く時間は無駄だろう。これからは、私が手を伸ばせば届く距離で、すべての業務を行え」
もはや物理的な“境界線“すら撤去された。
私が何かを書こうとするたび、隣に座る彼の衣擦れの音が聞こえ、時折、彼がページをめくる際に私の肩と彼の腕が軽く触れ合う。
それは“指導“という名を借りた、静かなる幽閉だった。
さらに、彼は外堀を埋めることにも余念がなかった。
私が他の部隊との合同演習に参加しようとすれば、必ずどこからか彼の承認印が押された【エレーナ・アシュレイ、単独任務への配属】という特命書が届く。
その任務の内容は、決まってカイル様の同行を必要とするものばかりだった。
「他の男と剣を交えるなど、お前にはまだ早い。……私とだけ、合わせていればいい」
それは暗に、『お前の時間も、体も、視線も、すべて私が買い上げた』という宣告に他ならなかった。
カイル様はゆっくりと、今度は私の首筋に顔を埋めた。
深く、深く──私の匂いを吸い込むようなその仕草に、心臓の音がうるさいほど跳ねる。
「エレーナ。お前が私の視界から消えることを、私がどれほど嫌っているか……。その鈍い頭に、直接刻み込んでやらねばならないようだな」
「それは……『指導』の一環ですか?」
「いいや」
彼は私の耳元で、今までで一番甘く、そして逃げ場のない声で囁いた。
「──”求愛”だ。覚悟しておけ」
翌日、騎士団の訓練場で、いつになく顔を赤くして上の空な私と、それを満足げに、そして一歩も離れずに見守るカイル騎士団長の姿が目撃されたのは言うまでもない。
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シリーズ『異世界恋愛の短編集!』の中の作品も、合わせてお楽しみください。




