第9話 ――境界の裂け目
夜。
外の霧は、昨日よりも濃くなっていた。
街の明かりはぼやけ、遠くのビルの輪郭が消えている。
まるで世界そのものが、ゆっくりと溶けていくようだった。
私は机の前に座っていた。
マイクのランプはまだ点いたまま。
ノートは開かれたままで、最後のページには、あの文字が残っている。
――“もうすぐ、そっちに行くから。”
何度見ても、手が震える。
それでも、目を逸らせなかった。
なぜか、その言葉を待っていた気がするのだ。
「……来る、って何?」
問いかけると、空気がわずかに震えた。
マイクの光が一度だけ強く輝き、部屋の灯りが一瞬だけ落ちる。
静寂。
そして、ノイズ。
ザーッという音の奥から、声が聞こえた。
――“葵、そこにいる?”
反射的に返事をしてしまう。
「……いるよ。」
その瞬間、マイクから淡い光が溢れた。
音ではない。
光が、言葉の代わりに部屋を満たしていく。
目を閉じても消えない。
瞼の裏で、誰かの影が見えた。
輪郭のない人影。
声と同じ存在が、形を持ち始めている。
――“やっと、届いた。”
耳元で囁かれた気がして、息を呑む。
そこには、確かに“誰か”がいた。
温度も、息遣いも、現実のものとしか思えなかった。
私は振り返る。
だが、そこには誰もいない。
部屋の奥、マイクの前に、淡い残光だけが残っていた。
「……あなたは、何者?」
――“葵の声。
あなたの中にあった、もうひとつの私。”
頭の中が真っ白になった。
声は続ける。
――“あなたが現実で失ったものを、私は夢の中で拾っていた。
だから、もう一度、つなげに来たの。”
光がふっと消える。
代わりに、ノートの上に一枚の紙が落ちていた。
そこには、文字が滲むように浮かんでいた。
――“この夢を終わらせないで。”
私はその紙を握りしめた。
紙の感触は確かにあった。
けれど次の瞬間、手の中からそれが崩れ落ち、灰のように消えていった。
残ったのは、指先のかすかな温もりだけ。
夢の中にいるのか、現実にいるのか、もう判断がつかない。
ただ、確かなことがひとつだけあった。
“あの声”は、今も私を呼んでいる。
――葵。まだ終わらせないで。
その囁きと同時に、部屋の時計が動き出した。
秒針が音を立てて進む。
まるで、それが“夢の続きの始まり”を告げる合図のように。




