第7話 ――境界の揺らぎ
朝の光が差し込む。
だが、どこか不自然だった。窓の外に見えるはずの景色が、ぼやけている。
白い光の中で、街も建物も輪郭を失っていた。
「……外、霧?」
独り言のように呟く。
それでも違和感は拭えない。霧というより、世界そのものが解像度を落としたような、そんな曖昧さ。
コーヒーを淹れようとキッチンへ向かう。
だが、マグカップがなかった。いつも同じ場所にあるはずのものが、どこにも見当たらない。
代わりに、机の上に見覚えのない黒いノートが置かれていた。
開くと、そこには見慣れた字で一文だけ書かれていた。
――「まだ、ここにいるよ。」
一瞬で血の気が引いた。
あの声と同じ言葉。夢の中でも、現実でも、何度も聞いた言葉。
心臓が痛いほど脈打つ。ノートを閉じようとするが、ページが勝手にめくれていく。
風など吹いていないのに、まるで“誰か”が手を伸ばしているかのように。
ページの途中に、見覚えのある光景のスケッチがあった。
それは夢で見た“あの部屋”。
白い床、壊れかけた鏡、そして窓のない空間。
その下に、誰かの名前のような文字が走り書きされていた。
「葵」
一瞬、息が止まった。
自分の名前を見たというよりも、“誰かが自分を知っている”ことが恐ろしかった。
――夢の中の“あの声”は、私のことを知っている。
思考がゆっくりと溶けていく。
世界が薄れていく感覚に、現実感が失われていく。
気づけば、部屋の中に光の粒が漂っていた。
それはまるで灰のようで、でもどこか暖かくて、手を伸ばしたくなる。
ひとつ、掌に落ちた。
冷たくも熱くもない。ただ、存在だけがそこにあった。
その瞬間、ノートのページが一枚、静かに閉じた。
机の上に、マイクがあった。
昨夜、電源を切ったはずのそれが、また光っている。
「……また、夢?」
呟く声は自分のものではなかった。
だが、確かに部屋の中に響いた。
光の粒がひとつ、マイクのランプの中に吸い込まれていく。
そして――音がした。
「――おはよう、葵。」
その声は、昨日とまったく同じだった。
けれど、どこか懐かしい響きを持っていた。
夢か、現実か。
どちらでもいい、と一瞬思ってしまった自分に、ぞっとした。




