聖地にて〜ニノア
ニノア編再び。ちょっと時間が進んでいます。
ざまぁはあんまり立て続けに書くと胸焼けがするので息抜き回でもあります。
潔斎期間中にも侍女たちや手紙を介しての引き継ぎを行うという少々の掟破りをしつつも、ニノアは無事に巫女となるべき儀式を終え、粛々と聖地へ下向していった。
そんな中、誰とは言わないが泣き声とともに潔斎所に押しかけてこようとする女性がいたらしいが、明らかに潔斎の妨げにしかならないそれらは侍女や警護兵に完全にシャットアウトされたとのことだった。
「あれはむしろ『鳴き声』では?」
馬車の中、侍女兼乳姉妹のアイシャが首を傾げる様子に、ニノアはついつい吹き出してしまう。
「聞くところによれば、お姉様はヒュドール侯爵夫人主導で、超スパルタカリキュラムの王女教育を受けているそうだけれど。そんな明らかに心身ともに疲れきりそうな日々を送りながら、定期的に私のところに泣きつきに来ようとする余裕があるのだから、やはりお姉様は健康体になったのね。良くも悪くも」
「泣きつきにいらっしゃるのだとしても、何故女王陛下や王配殿下ではなくニノア様のところをわざわざ選ぶのでしょうか。私にはそこが理解できません。ヴァッサー公爵子息の方は、正式な謝罪の手紙を送ってこられて以降はおとなしくしていらっしゃるようですけれども」
「お姉様のアレは条件反射みたいなものよ。『勉強大変! もう嫌! そうだわ、ニノアに押しつけよう!』くらいのテンポで思考と体が動いているんだと思うわ。相変わらず迷惑よね」
「迷惑にもほどがあるかと……それに全く動じないニノア様も凄いと思いますが」
「まあ、ある程度は予想できていたのと、皆のおかげで私には実害がなく済んだことが大きいわ。ありがとう、アイシャ。他の侍女や警護兵にも、改めてお礼をしなくてはいけないわね」
「勿体ないお言葉です」
ヴィーズ山までは馬車で数日かかる道のりだが、ニノアもアイシャも出立直前まで多忙を極めていたこともあり、お互いゆっくり話す機会は久しぶりのため話題は尽きない。
「マイヤ侯爵家もそろそろ落ち着いたかしらね? 伯父様は沸点がとても高いけれど、だからこそ怒ったら誰より怖いのよね。お父様とヴァッサー公爵に連行される形でお姉様とレオンティーズ様が謝罪に伺った時は、それはもう素敵な笑顔で『これはこれは王配殿下。公爵閣下もようこそお越しくださいました。……はて? そちらの女性と若者は、一体どちらの家の方々でしたかな?』と盛大に惚けていたのだそうよ」
マイヤ侯爵と面識のあるアイシャはその様子を想像してみたらしく、そこそこ整ってはいるがあまり表情の変わらない顔がやや青白くなった。
「何と言いますか、想像するだけで恐ろしくなりますね。ニノア様と侯爵閣下の血の繋がりを確かに感じます」
「そこは否定できないわ」
否定する気も意味もないけれども。
ニノアは昼食のために立ち寄った街で買い求めたクッキー(アイシャによる毒見済み)をつまみつつ、魔法瓶からカップに注がれた紅茶を口にした。どちらも美味で満足である。
「ともあれ、そんな風に明らかな初対面の他人扱いをされれば、流石のお姉様とレオンティーズ様でも、『自分たちはマイヤ家の後継者とその伴侶として受け入れてもらえる!』という甘すぎる希望は叶わないと悟らざるを得なかったというわけ。とても伯父様らしいとどめの刺し方ね」
「確かに……けれどそうなりますと、マイヤ家の後継者問題はやはり、イーサン殿下のお子様がお生まれになってからということに?」
「ええ。だからというわけでもないけれど、イーサンの婚約者選びを本格的に開始するという話にもなっているわ」
「僭越ながら、今回の騒動でイーサン殿下の縁談にも、少なからず支障が出てしまうのでは」
アイシャの指摘はもっともだったが、ニノアはその点はあまり心配していなかった。
「最有力候補はシュヴァルツ王国の王女で、あちらからの申し込みだから大丈夫じゃないかしら。何よりシュヴァルツ国でも十年ほど前に、現国王の弟君が盛大に婚約破棄をやらかしたという話だもの」
セレシアのケースとは当然ながら状況は違うが、王族関係者の婚約破棄という点では同じと言ってしまってもいいだろう。
同病相憐れむとまでは言わないものの、身内のやらかしについてはどっちもどっちであるし、何よりイーサンは浮気をするタイプではない。年齢もイーサンが一歳上というだけなので、あとは顔合わせで相性が悪くなければとんとん拍子でまとまるはずだ。
無論それでも懸念事項はゼロではないが。
「今後の国のためにもイーサンのためにも、私ができる範囲で懸念事項は減らしておきたいわ。……可能かどうかは分からないけれど」
窓を覗けば、ようやくヴィーズ山の姿が見えてきた。王国全土を走る無数の河川の源であり、まさに全国民の生命を司る神の住まう聖なる地。
そこで待ち受ける存在と事態をあれこれ想像しながらも、ニノアは密かな決意を新たにするのだった。
━━ヴォダ神のお膝元に降り立ったニノアは、周囲が清冽な気に満たされているのを感じて知らず息を呑む。
初めて訪れた聖地は、王都を見慣れた王女の目には確かに寂しく映った。特筆すべきものと言えば、まず奥にあるやや大きめの祠。確実に古く年季を感じさせる佇まいなのに、何故かつい先日建てられたのかとも思わせる独特の雰囲気がある。
その手前はちょっとした広場になっており、巫女が祈りを捧げるためか屋根つきで、遠目には簡素な神殿か東屋のような造りに見える。右手には巫女の住まいとなる二階建ての屋敷。祠の左側、離れた位置には神職たちの控え室のような小屋と物置が隣接している。馬車や厩舎は中腹付近に専用スペースがあるのだとか。
風に誘われるように見上げれば、周囲に広がる豊かな森の上、雄大な空を鳥たちが穏やかに飛び、足下を栗鼠がすり抜けていく。
「……ふふ、可愛い」
ニノアの顔が綻んだ。
説明と案内をしてくれたのはヴィーズ山に常駐する神職の者たちで、彼らは一通りの役目を終えると、恭しく一礼して麓へと帰って行った。普段はそちらで、貴賤や老若男女を問わず訪れる参拝者の対応をしているのだという。「巫女様方もいつでもお顔をお出しくださいませ。季節ごとの祭りでは出店等もございますので、皆様是非ともお楽しみいただければ」とのことだったが。
「……案外、堅苦しくなく過ごせそうね?」
《それはそうだ。我は過度に騒がしいのは好まぬが、さりとて巫女を寂しく過ごさせるのも本意ではない。我への信心ゆえの行動と思えば、多少の騒ぎも可愛らしく有り難きものであるしな》
アイシャへの言葉のつもりだったニノアに応えたのは、明らかな別人だった。
そうと分かったのは、声音があからさまに男性のものだったせいもあるが━━身が引き締まるほど強烈な神気が、瞬時に一帯に広がったからである。
「……!」
ニノアは反射的に身を翻し、声のした方へ向き直りつつ顔を伏せその場に跪いた。
跪きはしたものの……あまりにも予想外のことに、何を言えばいいか全く言葉が出てこない。こんなに混乱したのはいつ以来だろう。
それでもどうにか礼を尽くすべく、ニノアは言葉を探して紡ごうとした。
「……ヴォダ神様が顕現なさる場に居合わせられましたこと、身に余る光栄に存じ上げます。私はこのたび巫女の任を務めることとなりました、ニノア・ド・ヴィーズと━━」
《良い、我は巫女に堅苦しさは求めぬ。……ほら。面を上げよ》
無造作に伸ばされた大きな手がニノアの頬に触れ、優しくも抵抗を許さぬ力で顔を上げさせた。
まず視界に入ったのは、目に眩しい白さの東方風の着物。そこに黒に見えるほど濃い青の髪がさらさらとかかり、背中を越えて腰の辺りまで一切の癖なく伸びている。
そして、ゆっくりと目を合わせた神は……あまりの完璧さゆえ直視するのも畏れ多い清涼な美貌に、この上なく嬉しそうな笑みを浮かべていた。深海を思わせる色合いの瞳は、今はとても温かくニノアを見つめていて……すうっ、と彼女の頬を指が滑る。
《ふふ……なるほど。これが人間の言うところの「一目惚れ」というやつか。心身ともに実に我の好みだ》
「え……っ!?」
眉間の少し上に柔らかな何かが触れ、その場所に不快にならない熱さが宿るのをニノアは確かに感じた。
一体何をされているのか、頭では理解できなくとも体で理解しているらしく、ニノアの頬が赤らんでいく。
予想以上に可愛らしい反応にヴォダはくすくす笑いながら、マーキング済みの彼女をそっと立たせて抱きしめる。華奢ながら柔らかい体が強ばるが、伝わってくるのは畏怖や拒絶でなく羞恥なのがますます可愛くてたまらない。
可愛い可愛い花嫁をこれからどう愛でようかと楽しく考える彼に、腕の中からためらいがちな声がかかった。
「……畏れながら、ヴォダ神様……」
《名前で呼べ。「神」はいらぬ。そうでなければ返事はせぬぞ?》
「…………ヴォダ様は、歴代の巫女の方々全員にこのようなことを?」
赤い顔のまま額に手を当てる彼女には見えないが、そこには祝福の証として涙滴型の青い印がついている。
答えは何となく察していた通りのものだった。
《いや。我が直々にマーキング、もとい祝福をしたのは正真正銘そなたが初めてだ。巫女の前に姿を現すことも久方ぶりであるしな。……ああ、そう言えば巫女は「神の花嫁」とも呼ばれているのだったか?》
「はい。ですので先ほどのことは、通例の儀式のようなものなのかと」
《違う。そもそも我は巫女を花嫁と見なしたことはない。誰ぞが言い出した「そのように思え」との心構えが、いつの頃よりか定着したのであろう。とは言え……そなたに関しては別だ。我はそなたをこの上なく気に入った》
「こ、光栄でございます、っ……!!」
すりすりと頬擦りをされ、マーキングとは? という疑問が吹き飛びかけるニノアであった。
……いや、そもそも彼女にとって、最重要なのはそこではない。
「ヴォ、ヴォダ様……! 僭越ながら一つ、お願い申し上げたいことがございます」
《うむ。どうした?》
「その……出過ぎたこととは承知しておりますが。巫女のお務めについては、どうか私で最後としていただけないでしょうか。無理ならばせめて、望む者は任期を短いものとしていただけたらと……実はこのたび、その件で王家に騒動が起きてしまったものですから」
かくかくしかじかと事情を説明する。
このことは、姉に代わって巫女となると決めてからニノアの頭に浮かんでいた。祈りを捧げる過程でどうにかヴォダ神に願いを届け、巫女の任期を多少なりとも巫女本人の希望に添う方向に持っていければと思っていたのだ。こうして直接神と話す機会を得てしまったのは予想外だったが、好都合とも言える。
今のままの巫女制度が続いては、今後またセレシアのように、妙齢の巫女候補が強硬手段に出ないとも限らず、そうなるとまた厄介な騒ぎとなってしまう。今回のことは極端な例としても、どれほど教育を徹底したところで、本心から神に仕えられなくなる状況に巫女候補が陥る可能性はいくらでもあるだろう。
本音としては先ほど言ったように、制度そのものをなくしてしまえれば手っ取り早いが、どちらにせよヴォダ神の許可なくそんな真似をしてしまっては逆鱗に触れかねない。
どんな反応をされるか戦々恐々としていたニノアだったが……
《なるほど。ならば望み通り、我が名においてニノアを最後の巫女としよう》
いつの間にか現れた敷布とクッションに腰を下ろしたヴォダに、拍子抜けするほどあっさり了承されてしまった。
これにはニノアの方が動揺してしまい、さりげなく腰を抱かれていることも意識せず、差し出された飲み物のストローに反射的に口をつけてしまう。甘くて冷たくて美味しい。
「……ぷはっ。よ、よろしいのですか? 必要があればこそ、建国の際に巫女制度を申しつけられたのでは……」
《うむ。我に限らず神というものは、人々の信心なくば力を十全に発揮することは不可能なのでな。ゆえに守護神たる役目を果たすためにも、王家の血を引く乙女という明確に高貴な存在を巫女に据えることで、早急に信心を集めようとし、無事に成功したというわけだ》
「……なるほど。『王家の姫の祈りがあるからこそ神も国をお守りくださる』という、王家への権威付けにもなりますものね」
《その通り。お互い様というやつだ。それからは分かりやすかろう? この三百年、他国に疫病や大規模な災害、争いは起これども、ヴィーズにはそのような気配はほぼない。口の悪い者は平和ボケとも言うようであるが、その平和の大半は我の力によるというのは国民皆が知るところであり、我は信心により常に満たされることとなったのだ。そなたの姉のような者はある種、平和ボケの産物とも言えようがな》
「返す言葉もございません……」
腕の中で小さくなるニノアの髪を、ヴォダは微笑みながら優しく撫でる。
《気にせずとも良い。その平和ボケの結果、こうしてそなたが我がもとに来たのもまた事実ゆえ怒りはせぬ。むしろ姉には褒美をやっても構わぬぞ。そなたを我が花嫁として周知するついでに丁度良かろう》
「…………花嫁、ですか? 私が、ヴォダ様の?」
《うむ。嫌か? 我はそなたが愛しい。先ほども言ったように、これまでの巫女は花嫁などとは思っておらなんだが、そなただけは別だ。そなたのことは存分に愛でて抱きしめ労ってやりたいと思う。我の寿命は無限ゆえ、そなたの心の傷が癒えるまで待っても良い。本音を言えば我の手で癒してやりたいがな》
神の言葉にニノアは困惑した。求愛に対してではなく、心の傷を指摘されたことに。
「お言葉ですが、私の心に傷など……」
《ない、とでも? 本当に?》
「ございません。私は━━」
すっと大きな手が頬を包み、指が優しく目元を撫でてくる。
━━ぽろり、と。ひとりでに涙がこぼれた。
「え……? 何故こんな……私は、泣く理由など何もありませんのに……」
《かもしれぬな。だが、どうやらそなたの体は今泣きたがっているようだ。分からぬならば分からぬなりに、体に従ってみるのも良いのではないか?》
穏やかな表情と言葉と、背中を撫でてくれる温かい手に、どうしてか涙腺が容赦なく刺激され。
「ふ……ぅ、えっ……」
《よしよし。もう大丈夫だ》
子供のように泣きじゃくってしまったのは、後から思うと顔から火が出るくらい恥ずかしかったけれど。
その間ずっと抱きしめてくれたヴォダの胸は今までにないほど安心できる場所で、泣き疲れたニノアはそのままぐっすり眠ってしまった。
後に聞いたところでは。
「ああ、やっと結界が弱まって━━って、ニノア様!? 何故泣いたようなお顔で眠っていらっしゃるのですか! どうやらヴォダ神様とお見受けいたしますが、あなた様がニノア様をお泣かせに!?」
《ほお。我を神と認識した上で、畏れもせずにその態度とは……ふふ。我が妻の侍女としては、実に頼もしく心強いことよ》
「……我が妻とは、まさかニノア様のことではございませんよね!? 如何にヴォダ神様とは申せ、流石に聞き捨てなりませんわ!!」
と、こともあろうに国の守護神に説教する自分の侍女という光景を見逃してしまったらしく、非常に残念に思うニノアであった。
ヴィーズ山は頂上付近が聖地兼神の住まい(本殿)で、麓に鳥居、そこから中腹の拝殿まで長い階段があるイメージです。他のルートとして、麓から中腹経由で頂上までは馬車が行き来できる程度の道がありますが、基本的に使えるのは巫女関係者と神職のみ。
水源が聖地となっている通り、ヴォダ神は水神です。龍神の側面もあるかも。
ちょろっと話に出てきたシュヴァルツ王国の王女は、「シュヴァルツ王国の婚約破棄」に出てきた王太子夫妻の長女。そっちでも娘がいると触れられてる程度ですが。両親のどっちに似ててもイーサンと相性バッチリだと思われます。