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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

帰ってきた弟

作者: 相沢ごはん

pixiv、個人サイト(ブログ)にも同様の文章を投稿しております。


(ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 明日から夏休みが始まる。そんな日の夕方、

「ただいま」

 リビングのソファに座ってテレビを観ていた花音の背後から、ぼわわわーんとくぐもったような声がした。ぐっと上半身をひねって振り返ると、白くてぶよぶよしたなにかが立っていた。

「誰? こわ。どうやって入ってきたの?」

 不審に思った花音は尋ねた。

「ぽくだよ。フーガだよ。カギをアけてゲンカンからハイったよ」

 白くてぶよぶよしたなにかは、ぼわわわーんとそう答えた。「ほらこれ」と見せられたぶくぶくの指でつままれたそれは、確かに鍵だった。見慣れた風河のキーホルダーがついている。数日前に見たばかりなのに、花音はそのキーホルダーを懐かしいと思った。

「本当に、風河? 嘘でしょ?」

「ほんとだよ。ほんとにフーガだよ」

 風河は花音の二歳下の弟で、小学三年生だ。

 その風河は数日前、小学校から帰る途中に前日の豪雨で水位の増した川に落ち、流されたらしい。川の様子を見にきていた近所の人がその様子を目撃し、消防に通報したのだという。風河の行方は、未だわかっていない。消防や警察による捜索活動は続いていたし、両親や町内の人たちも風河の捜索を続けてはいるが、花音は頭のどこかで風河の死を覚悟していた。続いている捜索は、生きている風河を見つけるためではなく、風河の遺体を見つけるためのものなのだと、なんとなくわかっていた。そんなこと、もちろん言葉にはしなかったけれど。

「あんた、川に落ちて流されたって聞いたけど」

「ぽくはカワにオちたよ。ナガされたよ。それから、カエってきたよ」

 魚が腐ったような生臭いにおいが花音の鼻を刺激する。

「あんた、風河じゃないでしょ」

 白くてぶよぶよしたそれは、確かにあの日、風河が着ていた服を身に着けている。だけど、これは風河じゃない。花音は、直感でそう思った。

「ぽくだよ。フーガだよ」

 白いぶよぶよは、ぼわぼわした声で、頑なに自分を風河だと主張する。

「ぽくはフーガなので、おネエちゃんのとなりにスワるよね?」

 白いぶよぶよは言った。その足もとは水浸しになっている。びちゃびちゃと音をさせて、ソファの前にまわってこようとする白いぶよぶよを、

「だめ!」

 花音は咄嗟に止めた。

「あんたが座ったら、ソファがびしょ濡れになっちゃう」

「ぽくはフーガなので、ソファがヌれてもヨい」

「いいわけないでしょ」

 花音が思わずそう言ったところで、玄関のほうからガチャンと音がして、「ただいま」と、ママが帰ってきた。

「いらっしゃい。どなた? 花音のお友だち?」

 ママは、白いぶよぶよと花音を交互に見て言った。

「ぽくだよ。フーガだよ」

 白いぶよぶよは、ママにもぼわぼわとそう言った。

「風河? 本当に風河なの?」

 ママは震える声で言い、「ほんとだよ。ほんとにフーガだよ」と、白いぶよぶよが言い終わらないうちに、「風河!」と、悲鳴のように叫んで白いぶよぶよに駆け寄って抱きしめた。そのときにした、ぶちゅっ、という湿った音に、花音は鳥肌を立てる。

「心配したのよ、風河……」

 ママは泣いていた。そんなママを見て、花音は、それは風河じゃないと思う、とは言えなくなった。

「ぽくはフーガなので、シンパイをされたよ」

 白いぶよぶよが言った。まあ、それはそう、と花音は思う。ママもパパも花音も、家族は皆、風河のことを心配していた。

「ママは、それが風河でいいの?」

 花音が確認するように尋ると、

「いいもなにも、この子は風河よ」

 ママはきっぱりとそう言った。

「そっか」

 なので、花音はこの白いぶよぶよを風河だと思うことにした。実際に、そう思えるかどうかはわからないけれど。

 夜になって帰宅したパパも、風河が帰ってきたことをよろこんだ。

「よかった。本当によかった」

 パパはそう言って泣いていた。

「ぽくがフーガでよかったよ」

 白いぶよぶよ改め、風河が満足そうにぼわぼわと言った。本当によかったのか? 花音は異臭を感じながら思うが、言葉にはしなかった。余計なことを考えてはいけない。これは、風河なのだ。


 あれから、パパとママは毎日、風河がびちゃびちゃに濡らした床を拭きながら、うれしそうににこにこしている。

 花音は花音で、毎年そうしていたように風河と夏休みを過ごした。

 花音は風河といっしょに、早朝の近所の公園へ行きラジオ体操をした。白くてぶよぶよしていて、おまけに、異臭を放ち、さらには動くたびにそのへんをびちゃびちゃと水浸しにする風河は、他の子どもたちから遠巻きにされていた。

 ラジオ体操カードにスタンプをもらい、帰ろうと風河のほうを見た、そのとき、

「花音ちゃん」

 以前、風河と仲のよかった男の子が花音のティーシャツの裾を引っ張った。

「なあに、どうしたの?」

「あのさ、あれって、本当に風河?」

 彼はおそるおそるという様子で、そう尋ねてきた。

「本人はそう言ってるよ」

 花音はそう答える。

「そっかあ……」

 彼は全然納得していない様子でそう言った。やっぱりそうだよね、と花音は思う。ばいばい、と彼に手を振って、

「風河、帰るよ」

 花音は風河に声をかけた。

 ラジオ体操から帰ると、朝ごはんを食べる。とはいっても、風河は帰ってきてからずっと食事をとっていない。そのくせ、水はがぶがぶ飲んだ。のどが渇いたと言ってはたくさん水を飲むのだが、飲んだそばからびちゃびちゃと下に漏れている。

 朝ごはんのあとは、ダイニングのテーブルでいっしょに宿題をする。風河は宿題を嫌がった。宿題というよりも、鉛筆を持つのが苦手みたいだ。ぶくぶくした太い指でなんとか鉛筆を持って、

「イれもののカタチがカわってしまったからだよ」

 ぼわぼわと風河は言うのだ。

「入れものってなんのこと?」

「フーガだよ」

「ほら、風河でしょ。あんた、風河なんでしょ。風河なら、宿題をやらなきゃいけないんだよ」

 花音が言うと、ドリルをびちゃびちゃにしながら、花音の見よう見まねで宿題をしているふりをした。じっと座っていたので風河のお尻の形は平らになっている。そして、やはり水をかぶがぶと飲んだ。日中、両親は仕事へ行っていていないので、花音が床を拭かなくてはいけない。

「この水、どうにかなんないの?」

 花音が文句を言っても、風河は、「なんない」と言うだけだ。

「ムカつく」

 花音はそう言い捨てて、びちゃびちゃの床を拭く。

 ある日、花音は、風河のぶよぶよの肩に、三つ並んだほくろを見つけた。行方不明になる前の、風河の肩にも同じほくろがあった。

「まさか、あんた、本当に風河なの?」

「まさかぽくだよ。フーガだよ」

「でも、やっぱり風河じゃないと思うんだよね」

「やっぱりぽくだよ。フーガだよ」

「いいの、風河じゃなくても。風河のふりをしてくれれば、パパとママはよろこぶから」

「ぽくがフーガで、パパとママはよろこぶよ」

 風河はぼわぼわ言って、水をがぶがぶと飲む。


 風河から漂う異臭は、日に日にひどくなっている。水といっしょに、身体がどんどん腐り落ちていっているのだ。

「せっかくせっかくハイれたのに、ダメになったよ」

 八月も終わりに近づいたある日の夕方、ぼわわわーんと風河が言った。花音はリビングのソファに座ってテレビを観ていて、風河は立ったままテレビを観ていた。花音が風河をソファに座らせないからだ。

「だめになったって、なにが?」

「イれものだよ。イれものはフーガだよ。ダメになったよ」

「入れものは、風河」

 ああ、やっぱり、と花音は思った。それは風河の身体だったのだ。

「ぽくだよ。フーガはダメになったよ。デてイくよ」

「なんで? あんた、風河なんでしょ? 風河なら、ここにいればいいじゃん」

「フーガだよ。イれものはフーガだよ。ハイったのはぽくだよ。ハイったのはフーガじゃないよ」

 いや、風河じゃないのは知ってたけど。そう思いながら、花音は、無性に寂しい気持ちになった。やっぱり風河はもういないのだ。

「イれものがコワれるよ。イれものがコワれハジめているよ」

 ずるずると剥がれた皮膚と肉片を引きずって歩きまわりながら、ぼわぼわと風河は言う。

「ちょっと。あんまり動きまわらないでよ。誰が掃除すると思ってんの? あたしがするんだよ」

 花音が叱ると、

「イれものがコワれオワったよ」

 そう言って、風河は動きをぴたりと止めた。そして、ぼわわわーんとくぐもった声で、「ばいばい、おネエちゃん」と言った。

「待ってよ。ママたちが帰ってくるまでいてよ」

 花音は風河を引き留めるが、ズシャッという湿った音とともに、風河の身体は床に崩れてひろがった。

 その瞬間、ものすごい異臭が凶暴性を持って襲ってきた。思い切り頭を殴られたみたいな頭痛を感じた花音は、チカチカする目を両手で抑えてソファから転がり落ちるようにして床にへたり込んだ。身体の真ん中からせり上がってくる不快感をこらえられず、這いつくばって、薄目を開けながらなんとかトイレまで移動すると、便器に吐いた。吐きながら、風河は本当にもういないのだ、と思うと涙が出た。だけど、その涙は悲しいからなのか、凶暴な異臭のせいで身体が反応しただけなのか、よくわからなかった。

 リビングに戻り、水といっしょに床にぶちまけられた、ぐしゃぐしゃになってしまった風河の身体を薄目で見る。

「どうすんの、これ……」

 花音は途方に暮れて呟いた。



ありがとうございました。

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