68話 修行とは
情欲のままに妖しい美少女の求婚を受け入れた結果、人としての生を逸脱しているかのような錯覚に苛まれていたのである。
毎日馬車馬どころか馬が引く車を引かされる犬のような扱いを受け、死に物狂いでそれを乗り越えた俺を、奴は笑顔で待っているのだ。
“次の仕事の準備はできているかね? 愚かな犬よ”
なんとなく人としての自覚とか尊厳を失いかけている気がする。それをなんとかしたい。
そう思った俺は、出家することにした。
分かるよ。君達は今、「出家じゃなくて家出だろ」と突っ込んで、俺を“真正の馬鹿”と罵ったことだろう。望むところだ。
俺は欲求に正直に生きてきた。満たされればそれで、満ち足りなくともそれはそれで、なんとなく満足して生きてきた。
その結果、家で待ってるのは「黒魔術の実験」か「暴君系詐欺師の圧政」の二択になってしまった。
このままではいけない。そうだ、僧になろう。心底そう思った。そうして俺は耐え難い修行を始めたのだ。
修行とは、己に打ち克つこと。敵は己、即ち“欲求”だ。
もはや“悟り”に至る他に道はない。食欲や性欲、承認欲求などとにかく煩悩を切り離すんだ。
朝は日の出前に起き、心を無にして瞑想、読書、有酸素運動に取り掛かる。
極限まで精神を研ぎ澄ませ、風呂でリラックスしたら就寝。これが日課だ。君達の言いたいことは、分かる。まぁ何というか、
一言で言うと、ニートだね。
だが勘違いしてはいけない。別に、修行に特別な事など必要ないんだ。
修行といえば、山に籠って獣と戦ったり、岩を持ち上げたり破壊したりするものだと。少年漫画を愛読書としている小学生なら必ずそう思うだろうが、その認識は間違っている。
俺の目的は欲求からの脱却だから、取り組み内容はこれで合っている……はずだ。
とはいえ、楽勝とは行かない。
欲求を満たせないのはストレスだ。未だかつて、こんなにも腹が減った事があるだろうか。
俺は自らに言い聞かせる。
食欲に負けるな。自意識を制圧しろ。
それが出来なければ俺はまた情欲に翻弄され、結婚詐欺に遭う被害を積み重ねてしまうだろう。歴史が肯定している。
そうして苦悩の内に一日目を終えた。
そして目が覚める。如何せん腹が減っている。
食欲が脳を刺激し、遠い前世の記憶を呼び覚ます。寿司だ、寿司が食いたい。例えネタが乗っていなくても、シャリだけでも、いやわさび醤油だけでも舐めたい。
瞑想しながら妄想するが、既に四天王は塵にしてラスボスは地中深くメリ込ませて裏ボスは太陽系の外にフライ・アウェイさせてしまった。もうネタが切れたしシャリどころかわさび醤油もない。
そうして二日目を終える。
翌日。突如としてあり得ない現象が俺の身に降り掛かった。空腹が、消えたのだ。
そして、俺は確信と共に天を仰いだのである。
───俺は、人智を凌駕した……。
人間からの卒業。
走馬灯のように前世の食事風景を思い出しても一切動じない。経験はないが、事後の精神状態に近いのではないか。健康的な肉体と性的達成感を同時に得られる活動。
今なら食事など排泄を促すだけの取るに足らない愚の骨頂であると断じることができる。
───諸君、そんなにもウンコが見たいのかね?
迎えた翌日。俺は、シンプルに忘れていた。試練とは、往々にして唐突に訪れるものであるということに。
手放したはずの欲求の再来。
それはもはや、「空腹」などという生やさしい表現では到底語り尽くせない爆発的摂食衝動。
なるほどビッグバンとはこれだったのか。
しかし、今は修行中だ。いかなる理由があろうと、飯を食う訳には……!
「あなた、できたわよ」
目の前に置かれる、闇より昏い漆黒の暗黒呪物。
「卵焼き、上達したでしょ?」
俺は、「どうして」と嘆く。
何故、世界は彼女に色の概念を与えなかったのか。本来の卵焼きが放つ黄金の輝きを、何故彼女から奪ったのか。
しかし、たぶんこれも修行だ。浅ましい人間が悟るには、腸の中まで完全に洗浄しなければならないのかも知れない。
だからこれは決して食事ではない。寧ろ吐き出す事に意味がある。
罪の告白。
俺は暗黒呪物を口に運び、その全てを吐き出す。暴飲暴食、不摂生な生活習慣、怠惰を希求する思考回路、それら全てを洗い流すように。こうして意識を手放し、四日目を終えた。
このままだと死ぬ。間違いなく死ぬ。
俺は苦悩の中で絶え間ない絶望に身を窶していた。すると唐突に、降って湧いたかのようにとある天啓を得たのである。
───……そうか、君が……救世主だったんだね……。
ベッドだった。
あぁ美味しそうだすぐにでも調理して胃にブチ込みたい。
こうして莫大な食材を手に入れた俺はすぐさま調理に取り掛かる。そして出来上がったフルコースを食卓に並べ、俺は膝から崩れ落ちた。
───メシアを召しあがることは……できない……。
この日から床で寝る生活が始まった。
期せずして修行をエクストラハードモードへと切り替えた俺は、クッション性ゼロのフローリングに身を預けて五日目を終えた。
そして迎えた六日目。この日の精神状態を一言で言い表すならば、それは「虚無」だった。
何も、感じない。瞑想、読書、その他習慣的行動の全て、須く意味を感じない。嘘のように食欲も湧かない。
何故、俺は今まで狂ったように飯を喰らっていたのだろう。それに意味はあったのか。そんな考えにすら意味を感じない。
無心のまま、ただ時が過ぎるのを待って固い床で眠りについた。
翌日の変化は劇的だった。
早朝、小鳥の囀りという僅かな音に、全身が過剰に反応し目が覚める。そして実感した。
未だかつてなく五感が冴え渡っているではないか……!
今なら食卓で対面に座った女性の鼻の毛穴の数を数えることすら余裕。しかし、何故?
極限に研ぎ澄まされた五感、その原因について、俺は最速で回答を導き出す。
脳だ。脳の活動効率が最大化されている。
今まで容量不足で処理しきれなかった音や景色、香りなど、微細な情報すら掌握できるようになっていた。
これは「欲」などという、思考を害する不純物を抱えたままでは到達できなかった境地。
今なら理解できる。数学の難問、七つの“ミレニアム懸賞問題”。
まとめてかかってこい。真っ向から素因数分解してやろう……!
俺は、二度の生涯を経て初めて「俺」を完全に支配下に置いたと実感した。
「あなた、できたわよ」
全身が反応した。敏感になった嗅覚が警鐘を鳴らし、加速する思考が経験から未来を予測演算する。
最適化された俺の脳を持ってしても、未だ理解できていないことがある。正直な肉体が拒否反応を示すが、俺は確かめなければならない。
「……卵焼き」
果たしてこれに、如何なる意味があったのか。
確かにこれは俺の腸内環境を整えることに一役買っていたが、もっと楽な方法があったのではないか。
教えてくれ。何故、世界は再三にわたって俺に暗黒呪物をけしかけるのか。返答によっては、全身全霊の素因数分解を現世に解き放つことも辞さない所存である。
“最後の素因数分解”
それは、俺自身が“素数”になることだ……!
「食べましょう?」
これは、最後の試練だ。限界まで引き出された潜在能力をもって、闇に打ち克てるかどうか。
ミレニアム懸賞問題など取るに足らない。俺に課された試練とは、この暗黒呪物の正体を詳らかにし、彼女の悪行を料理の腕の向上をもって阻止することだ。
俺は覚悟を決め、手にした箸でそれを口に運ぶ。
「あむ……ぶぐっ!!」
味、食感、口内に響く咀嚼音、鼻へと抜ける香り、皿に残した残骸の表面で蠢くナニか。その全てが強烈な不快感となって脳に伝達される。
全ての情報が解析結果「不明」を示す。意味が分からない。何故、簡単なはずの家庭料理が暗黒呪物へと変質させられてしまうのか。
しかし、俺の明晰な頭脳は、五感全てが屈したことでとある可能性を導き出す。
「どう? あなた、美味しい?」
魔力だ。
“水”の魔力特性は、“変容”。環境により固体、液体、気体と様々に姿を変える水を表す特性。彼女はこれを、卵にぶちまけたのではないか?
「実はね、工夫してみたの」
素人の工夫など蛇足だ。犯罪的徒労だ。絶対に何かしらの法に抵触しているに違いない。何故司法は彼女を裁けないのか。
普通で良いのだ。
それが人類に最も適した形であると、証明されたからこそ定着しているのだから。
美女は妖しく微笑む。その瞳に抱くのは、悲哀か、それとも慈愛か。
「隠し味は、“愛”、ってね。ふふふ」
地雷だった。
───またしても、“愛”か……。
いつだってそうだ。それは残酷な試練となって俺の前に立ちはだかる。
「……アリエラ」
「なぁに?」
嚥下した俺は、薄れゆく意識を繋ぎ止めて、彼女に伝えなければならない。
「これは……人類にはまだ早い」
言って、俺はまたしても意識を手放した。かくして俺は、偶然にも運命的に、魔力の深淵を覗き見たのだった……。
……っていう。そんな夢を見てた、って話なんですけど。ご理解頂けたでしょうか。
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