迷子たちの前夜
人を拾った。
ジニア・リンネリス。長くもない人生で、二度目の出来事である。
数日前から降り続ける雨の中、増水している川の様子を見に出かけた、その帰りのことだった。一目を避けるように蹲っていた男を見つけて拾った。
まあ、そこまではよかったのだ。生きているのが不思議なほどに血まみれの男を連れて帰った時点で、面倒事は覚悟していた。どこで傷を負ったのかは知らないが、助けを求めずに倒れていたのだから、お察しという奴である。
とりあえず男を担いで家に連れて帰り、治療を施した。何度か危ない場面はあったが、ようやく容態が落ち着き、目を離せるようになったのが翌日の夜。
それを見計らったように、こんこん、と扉を叩く音がした。
カルテを書いていた手を止め、ジニアは時計を見遣る。もうすぐ日付が変わる時間。間違っても人を尋ねてくるような時間ではない。急患ならノックの後にそう言うはず。
ちらりとベッドで眠る男へと目を向けた。赤みがかった茶髪の、たぶんジニアと同じ年くらいの彼。こいつ絡みだろう。一階の診察室ではなく、二階の方へ運んでおいてよかった。
ゴンゴン、と焦れているのかノックの音が強くなった。舌打ちをひとつ。壊れたらどうしてくれる。
「はいはい。今行くって」
階段を降り、何があっても対処できるように警戒しながら扉を開いた。
「どちらさ……ま」
沈黙は一瞬。へえ、と唇の端を吊り上げる。
青色の軍服に、同色の軍帽が二つ。ウィスタリア国軍の軍人だった。
「軍人さんがこんな夜中に何の御用です?」
雨の中、傘も差さずに現れた軍人。怪しいことこの上ない。警戒を滲ませながら、後ろ手に扉を閉める。
相手は二人。敵意は感じないが、好意的でもない。怪しい動きをすれば、すぐにでも拘束されそうな物々しさがあった。
「夜遅くに申し訳ありません。先日の通報について、お聞きしたいことがありまして」
「こんな時間にわざわざ?お仕事熱心ですねぇ」
ジニアの嫌味に、後ろに控えていた男が眉を顰める。非常識なのはそちらなのだから、この程度の嫌味は見逃して欲しいものだが。
「まあいいですけどね。知っていることは全部お話しましたよ。それ以上はありません」
「ええ。聞きたいのは別のことです」
「……へえ?なんでしょう」
探るような気配を隠しもせず、手前に立つ男が口を開く。
「この付近で、怪しい男を見ませんでしたか」
「怪しい男ですか。具体的には?」
「傷を負っています。ここは診療所ですよね。治療に来ませんでしたか」
「外傷なら数人いますが」
「カルテを見せて頂くことは」
「個人情報です。無理ですね」
淡々と返すジニアに、男が初めて表情を変えた。張り付けていた穏やかさの中に、苛立ちが滲むのをみて、ふむ、と考える素振りをしてみせる。突っぱねるのは簡単だが、無理矢理入り込まれるのはよろしくない。穏便にお引き取り願いたいものだ。
「外見は?髪の色、瞳の色。背の高さ。もしくは傷の場所でも。少しでも該当する患者がいればカルテをお持ちしますよ」
「………」
軍人は黙り込む。思い出している、という様子ではない。どちらかといえば、話したくない様子だった。語るべき情報がない。もしくは、話してはいけない事情がある。
おや、とジニアは芝居がかった仕草で首を傾げて、わざとらしく笑ってみせる。
「ご存知ない?では仕方ない。お引き取り願えますか」
睨み合いは数秒。踏み出そうとした足を止めて、軍人は居住まいを正した。
「ご協力に感謝を。また来ます」
「ええ。いつでもどうぞ」
後ろに控えていた方は納得していなさそうだったが、もうひとりに引っ張られて雨の中に消えていった。ふたつの影が完全に見えなくなったところで、大きく息を吐きだす。
よかった。背中に隠していた物の出番は、ないに越したことはない。
一応周囲の気配を探るが、特に見張られている様子はない。鍵を閉めて部屋に戻る。
軍人たちが探していたらしい男は、変わらず眠ったまま。ため息をひとつ零し、ソファへと腰を下ろす。
——雨の降る路地裏で彼をみつけたとき、彼は一人ではなかった。
血に濡れた腕に、少女を抱えていたのだ。サイズの合わない服を着た幼い子どもの胸は、暗がりの中でも分かるほど真っ赤に染まっていて。
持っていた荷物を放り投げて駆け寄ったジニアには、一目で助からないとわかってしまった。
まだ息があった男の方とともに診療所へと放り込み、治療がひと段落したところで通報した。事情聴取は一通り受けたが、男のことは黙っていて正解だったと思う。
しかし、まあ。
「……面倒事だとわかっちゃいたが、軍絡みか」
一月前にこの家を出ていった子どもの顔が浮かぶ。
あの子に、迷惑がかかるようなことにならないと良いのだが。
正体不明の男が目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。
点滴を換えようとしていたジニアが見守る中、ふるりと瞼が一度震え、薄っすらと茶色の瞳が覗く。眩しそうに一度瞬いた瞳が周囲を探るように彷徨い、ふいにジニアを映す。
次の瞬間。弾かれたように体を跳ね起こし、男は包帯が巻かれた拳を振り上げた。
怪我人とは思えない動きを、しかしジニアはひょいっと躱す。
「危ねぇなぁ」
傷に触れないように腕を掴み、痛めない程度に捻る。避けられるとは思っていなかったのかぎょっと目を見開いた男の肩を押し、バランスを崩した体をベッドに逆戻りさせた。
たぶん反射で動いたんだろうなあ、とのんびり考えながら、ジニアは頸部に手を添える。急所を掴まれ、男が動きを止めた。
「落ち着いたか?落ち着いたな。落ち着いてねぇってんならこのまま落とすが」
睨み合いは数秒。男が力を抜いたのを確認して、ジニアも体を起こす。もう一度向かってくるようなら、今度こそ遠慮なく意識を落とすつもりだったが、男はきょろきょろと部屋を見回していた。
「ここは…」
「俺の家」
返しながらジニアはソファに座った。足を組んで、片肘を付く。
茶色の瞳が、警戒を滲ませながらもう一度ジニアを映す。
「あんたは?」
「ジニア・リンネリス。医者だよ」
「医者…」
ぽつりと呟いて、男は包帯が巻かれた両手へと視線を落とす。ぐ、ぐ、と確かめるように開いて閉じてを繰り返していたが、何かに思い至ったのかはっと鋭く息を呑んで顔を上げた。
「なあ、俺の近くに……!」
「………」
ジニアの顔を見て、言いかけた言葉が止まった。あぁと吐息のような音が部屋に落ちる。
泣きそうに歪んだ表情を前に、ジニアは組んでいた足を解いて向き直った。
「悪いな。俺が見つけた時には、もう」
「……そう、か。そう、だよ、な…」
震える声で自分を納得させるように繰り返し、男が顔を覆った。
「……たすけられなかった」
指の隙間から、血を吐くような声が零れ落ちる。
小さく揺れる肩がふらりと揺らぎ、ジニアが伸ばした手が支えた。そのまま傷に障らないように横たえ、触れたところから伝わる熱に眉を顰める。平気そうに体を起こしているし、何なら一度暴れているが、この男は生死の境をさ迷っていた怪我人なのだ。
「……なあ、あの子はどこに…」
「俺が検死して、役所に引き取られた。引受人がいなければ、そのまま埋葬されるだろうな」
一応ジニアは開業医でしかないのだが、なにせこの町の医者はジニアだけなもので。場合によっては検死やら解剖やらも依頼されるのだ。
「お前のことは誰にも話していないし、話すつもりもない。医者として安全は保障する」
ふと思う。軍に追われていることを彼は知っているのだろうか。
彼の外傷は銃創が主で、その内の一か所は銃弾が体内に残っていた。恐らく、軍で使用しているものだ。
そしてそれは、少女の致命傷となった傷とも一致している。
疑問を口にしようとして、けれど噤むことを選んだ。相手は怪我人、今聞くことでもないなと毛布を肩まで上げてやる。
「……誰か、連絡したい奴はいるか」
いない、と彼は首を横に振った。迷子のような表情だった。
「……かえるばしょも、もない」
眠たげな声に、そうか、とだけ返してジニアは立ち上がった。明かりを消そうと思ったのだ。
スイッチに触れたところで振り返る。
「だったら、治るまでここに居れば良い」
そう言ってしまった後でジニアは考える。なんでこんなことを言っているのだろう。
男は頷くことも、断ることもなく目を閉じた。もしかしたら意識を失ったのかもしれない。ぱちりと明かり落としながら、どうしてと考える。
どうしてここに居ればいいなんて言ってしまったのか。
——多分、似ていたからだ。
途方に暮れた、迷子のような彼の顔が。
鏡で見る、自分のそれと。
一晩経って。
目を覚ました男は、何も語らず。ジニアも何も聞かなかった。
ジニアの出方を伺うように黙り込んでいた男は、朝食を前に観念したように口を開いた。
「……世話になる」
たった一言。
ぽつりと言った男に、ジニアはからからと笑った。
あれから何度か軍の人間が尋ねてきたが、特に大きな問題は起きずに過ごせている。
正体不明の男は、正体不明のまま。経歴も、負傷の理由も、少女との関係も、名前すら知らない。彼の張りつめたような、迷子のような顔を見てしまうと、尋ねる気も失せてしまった。不便もないし良いかとジニアは思っている。本人がどう思っているのかは、よくわからない。
何かに追い詰められているような表情をすることはあるが、彼の怪我は順調に回復している。軍人の見回りも減っていた。降り続いている雨が止んだら、丘の上にある墓地に埋葬された少女の元にも行けるだろう。
昼食後、食器の片づけを終えた男にそう言うと、彼は茶色の瞳を揺らして黙り込んでしまった。
「別に急ぐ話でもねぇからな。怪我が治ったら——あ?」
ジニアの言葉を遮るように、ゴンゴン、と扉を叩く音がした。びくりと肩を揺らした男が、素早く奥へ引っ込んでいく。雨続きで今日は休診にしている。急患か、軍の奴らがまた来たのかと警戒しながら玄関へ向かうジニアの耳に、馴染みのある声が届いた。
「先生、先生!大変だ!」
近所に住む青年だった。何があったのかと慌てて扉を開ける。
ずぶ濡れになった青年が、泡を食った様子で叫んだ。
「子どもが川に流された!」
は、と息を呑む。
数日降り続いている雨で、町を流れる川は増水していた。あそこに落ちたのか。
ざっと血の気が引く感覚がした。
「——っ、行くぞ!」
鍵も閉めずに飛び出し、青年の先導で雨の中を走る。男に何も言わずに出てきたが、青年の声が聞こえていたなら大丈夫だろう。ぬかるんだ土を跳ね上げ、勢いを増した川へと辿り着いた。
「ロープ!ロープを渡せ!早く!」
「おい待て!飛び込むんじゃねぇぞ!」
流れに足を取られないギリギリのところで、大人たちが叫んでいる。ジニアも駆け寄り、川の中を覗き込んだ。濁った水に、流木に必死にしがみついている小さな身体が浮かんだり沈んだりしている。
「先生連れてきた!」
「今ロープを渡すから…」
川を挟んだこちらとあちらで、ジニアと同じように集められた町の男たちが、ロープを掛けようと怒鳴り合っている。今にも駆けだしそうな若者を、懸命に抑えている姿も見えた。やみくもに飛び込めば、救助者も危険だからだ。
だが。
間に合わない。子どもの体力がもたない。このままだと、あの子は濁流に呑まれるか、先に木片や瓦礫にぶつかってしまう。
一瞬も迷わなかった。着ていた上着を脱ぎ捨て、川に飛び込もうと走り出したとき。
「——は?」
ジニアの頭上を、ひとつの影が飛び越えた。
赤茶色の髪。サイズが合っていない服は、ジニアのもの。
呆然と見送るジニアの前で、数日前まで死にかけていた男は、そのままじゃぼんと濁流に飛び込んでしまった。
「はあ⁉」
呆気に取られたのはジニアだけではなく、周りにいた男たちも同じだった。
「誰か飛び込んだぞ!」
「誰だ?」
「何やってんだ!」
——あのバカ!
怒鳴りたいのを堪え、近くにいた男からロープを奪う。隠れていないといけないはずの怪我人は器用に濁流の中を泳ぎ、子どもに近付いていた。
木片と瓦礫の間をすり抜け、危うく沈みそうになった子どもを間一髪で救い上げる。はらはらと見守っていた人たちの悲鳴が、歓声に変わった。ジニアも気が緩みそうになったところを引き締め、奪ったロープを手に声を張り上げる。
「おい!こっちだ!」
川の音に掻き消されないよう、走りながらジニアは叫ぶ。どこかから聞こえた、あいつ誰だの声に、俺も知らねぇよと内心怒鳴り返す。名前も知らないから、おい、と呼びかけるしかない。
何度も叫び、ようやく交わった視線に、手に持ったロープを掲げて見せた。
「聞こえるか!ロープを投げる!掴まれ!」
男との距離を測り、この辺かとロープをぶん投げる。狙い通り、二人の少し前に着水した。
子どもを片手で支えながら、反対の手がロープをしっかりと掴む。ぐっとジニアが握るロープに重みが掛かった。駆け寄って来た青年にロープの端を渡し、二人で手繰る。幸いにも漂流物に邪魔されることなく、後から駆け付けてくれた誰かが男から子どもを受け取った。
そのとき。子どもが男の手から離れ、助かったと、誰もが思ったとき。
彼は何かが切れたような顔をした。心から安堵したような。——辿り着いたような、表情で。
まるで自分が救われたような、そんな表情で。
まずい、と思ったのと、手に持っていたロープから重みが消えたのが同時だった。
「——っの、バカ!」
どぼん、と濁流に呑まれた男にロープを放り投げて手を伸ばす。
彼の名前を呼べないことが、とても、もどかしかった。
風邪を引いた。当たり前だ。
しかも肺炎になりかけていたらしい。しこたま怒られた。
こんなに怒られたのは、人生初だったかもしれない。
「馬鹿なのかお前は。馬鹿なんだなお前は。馬鹿だわお前は」
「あんまバカバカ言うなよ…」
「あ?」
「何でもないです」
ガラが悪い。
銀色の髪をガシガシと乱暴に掻き、胸元から煙草を取り出そうとした彼は、こちらを見て舌打ちするとそのままポケットに戻した。
ジニア・リンネリス。死にかけていた自分を、何も聞かずに助けてくれた男。
なぜ助けたのか。尋ねた疑問に、彼の答えは簡潔だった。
——医者だからな。
だからって正体不明の、軍に追われている男に宿まで提供する理由にはならないと思うのだが。
当然のように助けてくれて、当然のように食事も、寝る場所も与えてくれた人。怪我人のくせに川に飛び込んで、挙句溺れかけた馬鹿を、馬鹿だ馬鹿だと罵りながらも連れて帰って看病してくれたお人好し。
「……あのさ」
「なんだ」
「あー。ええと」
何と言うべきか言い澱む。何せ色々あったのだ。
——本当に、色々と。
片割れと大喧嘩してオレアンダーを飛び出して、放浪しているときに軍人に狙われている集団に出会った。子どもと老人ばかりの彼らが、ハイリカムの出身なのだとすぐに分かった。同行こそしなかったが、彼らが心配で時々様子を見に訪れ、頼まれ事を片付けていた。
ある女の子が帰ってこないと相談されたのは、ぽつりぽつりと雨が降り始めた頃。女の子とは何度か会ったことがあった。妹と弟がいる、可愛らしい少女だった。
本降りになってきた雨の中探し回り、ネレーイスのほど近くでようやく彼女を見つけた。軍の駐屯地が見える場所だった。帰ろうと声を掛けて、強くなる雨脚に仕方なく雨宿りを決めた。それが間違いだった。軍人に見つかったのだ。逃げて、逃げて、撃たれて、流れ弾が腕に抱えていた少女を撃ち抜いた。
そこから先の記憶はない。
目を覚ました時、混乱して襲い掛かった自分をいとも簡単に返り討ちにした男は、呆れたように目を眇めると、椅子を引っ張って来て腰を下ろした。くあ、とあくびを噛み殺している。
「話したくないなら別にいいぞ、話さなくて。話したければ聞く。好きにすればいいさ」
組んだ膝に片肘を付いて、当たり前のように自分を助けてくれた彼が笑う。この男なら、自分が助けられなかった女の子だって助けられたのかもしれない。あの時どうすれば良かったのか、あの場所にいたのが自分でなければ良かったのか。考えたところで、答えは出ないけれど。
やらなければならないことはある。あの少女の元へ謝りにいかなければならない。少女の帰りを待っている人たちにも。自分は軍に追われているだろうから、その始末も付けなければならない。
そして。その後に。
もし彼が、許してくれるのなら。
「……なあ、俺、これからもここにいていいか?」
「あ?」
やっぱりガラが悪い。心外だと言いたげな、不服そうな、ちょっと照れたような声が続ける。
「俺、別に出ていけ何て言ったことないと思うんだけど」
そりゃあそうだ。自分が許してほしいだけだ。ここにいていいと。
ため息の後、彼は仕方がないというように笑って見せた。
「——ああ、だけど。名前を教えてくれるか」
真っすぐに向けられた黒色の瞳が、ほんの少しの不安を宿して揺れている。銀色のまつ毛がゆっくりとはためいて瞬いた。
はは、と。
声を上げて笑った。どうしてだか、どうしようもなく笑えてしまって、滲んでしまった涙をぬぐう。
「ああ、うん。確かに。不便だよな」
差し出した右手は、当たり前のように握り返された。
「俺はマルスティ・トレーマー。よろしくな」
窓の外に雨音は聞こえない。
雨雲が去った夜空には、きっと星が瞬いているのだろう。




