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第95話 本音

~九音view~


 大洋さんと水族館を巡った翌日の、日曜日の午後。私は花音を連れて先生のお宅に来ていた。


 花音には水族館から帰宅した後に、悩みを抱えていることを打ち明けた。大洋さんから花音の協力を得たほうがいいと助言を受けたからだ。

 花音から協力を引き受けてもらえたのは良かったけど、どうやら私が悩みを抱えていたことを見破られていたみたい。こういうところは双子なのかなぁ。逆パターンのときも過去にはあったし。

 花音にお願いしたのは、先生の作品を見てもらうことだった。


「今日は急にお呼び立てしてすみません、菅平さん」


「いえ、お気遣いなく。今日は予定が空いていたので」


 応対してくれたのは先生の甥である菅平さんだ。先生はまだ入院中なのでこの場にはいない。

 ご親戚の菅平さんに朝一番で電話して、ここへ通してもらえないかお願いしたのだ。無理を承知で依頼したけど、ご厚意で午後イチで来て良いと快諾いただけた。


「そちらはもしかして双子の?」


「はい。九音の姉の飯山花音です。初めまして」


「お二人とも本当にそっくりだね……。ああ、すみません。菅平恭太郎です。どうぞごゆっくり」


「ありがとうございます。ではさっそく……」


 私達は敷居をまたいで、アトリエとして使われていた一室へと向かう。

 戸を開けると、部屋を満たしていた顔料とオイルの匂いがあふれ出す。ここが特別な空間である証だ。

 中で息をひそめるように安置されている、布のかけられたキャンバスたち。

 これら全てが、じきに売りに出されようとしている。


「これが九音の先生の絵画……」


 布をひとつひとつ慎重に剥がしながら、花音が思わずといった調子でつぶやく。


「やっぱり生で見る油絵は違うね。生き生きしてる」


「そうよね」


 ――生き生きしている。

 それは油彩画の特徴の一つだ。水ではなく油で溶いた顔料は、塗るだけでなく()()ことで作品を立体的に、より感情豊かに表現することができる。

 厚みや筆跡を意図的につけることによって、揺れる水面(みなも)も動物の毛並みも、水彩画や鉛筆画には成しえない質感を出せる。絵筆だけでなくパレットナイフなど多様な画材が用いられるのは、そういう理由もある。


 ほどなくしてアトリエ内の絵画が室内に全て展開される。整然と並べられた作品が、ちょっとした展覧会の様相を呈している。こんなにも小規模なのに壮観だと思ったのは、やはり一点一点の存在感の賜物だろうか。


「すごいね」


 花音も息をのんでいる。

 さて、手前の絵からひとつずつ見て回ろう。



『今の池』

 一見するとモネの『睡蓮の池』のオマージュだが、よく見ると池に浮かぶのは睡蓮ではなく現代の生活ゴミの数々だ。先生の絵にしては珍しく風刺的な作品。

 この絵は見覚えがある。アートクラブの教室の片隅に飾られていた作品。


「それは叔母が初めて個展を開いたときに展示した絵の中の、最後の売れ残りだそうです」


 菅平さんが説明をくれた。


「叔母の絵が売れるようになった頃にはこの絵も売ってほしいって打診されることもあったみたいだけど、今度は逆に叔母が売りに出すのをやめていたみたい。この中では一番古い作品のはずです」


 その逸話も聞き覚えがある。百万円の引き合いがあったらしいということから、教室のみんなは百万の絵と密かに呼んでいた。



『花瓶』

 題名の通り、テーブルの上に置かれた一輪挿しのガラスの花瓶と百合の花を描いただけの習作のような絵。これも見覚えがある。


「これはトヨハシアートクラブを開業して最初に生徒の前で描いた絵だって言っていました。売り物にはならないけど、叔母にとっては特別だったようです」



『花瓶』

 ここからは見覚えのない絵ばかりだ。前作と同名のタイトルであり、一輪挿しの花瓶も構図も同じであることから連作であることがわかる。こちらは百合の花も何も挿さっておらず、代わりにテーブルの上に花束が横たわっている。


「こっちはアートクラブを閉めた翌日に描いていた絵です。完成しても未発表のままアトリエに仕舞い込んでいたみたい」


 よく見れば花瓶は前作のものよりも薄っすら汚れているし、花束には既視感を覚える。アートクラブの最後の日、皆で贈った花束がこんな感じだったような記憶がある。

 先生はどんな気持ちでこの絵を描いたんだろう。



『五』

 白く眩しい白樺の林の中に不自然に置かれた、苔一つない真新しい黒鉄の鎧兜の絵。白と黒の対比が美しく、不思議と感じる静けさが侘び寂びをも印象付かせてくるようだ。


「五……?」


 タイトルの意図がわからない。


「その絵は僕の七五三のお祝いで描いてくれたものらしいです。当時のことは流石に覚えていませんが、僕はこの絵が一番好きです」


「なるほど、七五三ですか」


 男の子の七五三は五歳の一回だけ。きっとそのぶん特別なものにしようとされたのかもしれない。



『かくりよ』

 極彩色の大空と、神殿のような奥行きのある雲。そこへ誘われるように羽ばたく無数の渡りの蝶(アサギマダラ)(おそ)れを感じるほどの神々しさを湛えている。


「これは祖母……叔母にとってのお母さんが亡くなってから、四十九日になるまでの間に描かれた絵です」


「それは……」


 死者への弔いの一作。実母を喪った先生の想いが込められた、鎮魂の絵。

 私も花音も、何もコメントできなかった。ただ、その迫力から伝わってくるものは充分以上にあった。


 その後も何点かの作品を見て、最後にその絵の前に辿り着く。


「これが例の?」


「うん」


 花音の言葉を肯定する。この中で一番大きなキャンバスに美しい大滝が描かれた絵。年始に見せてもらったばかりの……未完成のまま、筆の止まった絵。


「氷瀑じゃないよ?」


「ううん。これは氷瀑……になるはずだった絵。ここからさらに描き込んでいって、氷瀑として完成するの」


「描き込みだけでこの水が凍るの?」


「凍るよ。魔法みたいに」


 私は確信を持って断言する。

 私とて先生から言葉でイメージを聞かされているだけで、その根拠はどこにもないけれど、この瀑布が美しく凍結する様子は不思議と目に浮かんでくるのだ。

 しかし花音は信じられないといった様子で、じっと絵を眺めていた。


「このままでも充分綺麗なのに」


 花音はぽつりとそう言った。

 そう言った花音に対して、私は聞きたかったことを尋ねてみる。


「この絵とさっきの『今の池』、どっちがよくできてる?」


「甲乙つけがたい感じかな。どっちもすごく綺麗」


 そうか、花音の目にもこの絵がそう映るのね。


「菅平さん。この絵の査定、いくらになりましたか?」


 菅平さんは一瞬固まり、気まずそうな表情を浮かべながら答えた。


「……九万円だと聞いています。これ以外の他の絵はもっとまともな査定額がついていますが……」


 ……安い。安すぎる。

 あくまで卸値で末端価格がどうなるのかはわからないけれど、それでも買い叩きのレベルだというのは間違いない。

 それこそ"豊橋幸子"というブランドが付加されていなくても、花音が綺麗と評し、なおかつこれほど大きなキャンバスサイズであれば、純粋な絵としてももっと高額なプライスタグが付くはずだ。


「先生、たぶん描きかけだとか未完成だとか余計なこと言ったんだわ。それでバイアスがかかって……あるいは足元見られて……」


「えっと……九音さん?」


「菅平さん。その査定は安すぎると思うのですが、それでも先生はこれを売るつもりですか?」


「…………」


 菅平さんは神妙に首肯した。

 そうか。これでも売ってしまうということは、やっぱり――


「先生、お金が必要なんですね」


「…………みたいです」


 お金の問題。大洋さんが挙げた可能性のうちの筆頭だった。なんとなくそうであってほしくないという私の思いは届かなかった。


「アートクラブを予定より早く閉めて、画家としても活動終了してなけなしの年金収入だけになり、日頃のリウマチの通院に加えて、この度の手術とその後を見越してのバリアフリーリフォーム代に老後資金……。叔母の今の状況は結構厳しいものだと思います」


「それで全部売ってしまうと。でも一気に全部手放す必要は無いのではないでしょうか」


「おそらく、叔母なりに筆を置く決意かケジメなのではないかと思います」


「先生はそこまでしないと辞められないほど、未練があるんじゃないですか」


「それは……」


「ここに残っている絵はどれも美術品という以上に、思い出の品という要素が強すぎます。できればずっと残しておきたいと思いませんか?」


「…………」


「本当に、どうしてもお金に困ったときだけ、少しずつ売ってもいいはずです。それでは駄目なのでしょうか?」


 私の訴えに、菅平さんは目を伏せて考え込む。

 しばらくしたのち、突然ゆっくりと歩き出したかと思えば、一枚のキャンバスの前で足を止めた。

 彼の目の前にある絵は『五』と表題の掲げられた鎧兜の絵だった。


「この絵は、昔はこの叔母の家の一番目立つ場所に掲げられていました。この家に遊びに来るとき、いつも出迎えてくれるこの絵が好きで、いつも楽しみにしていたのを覚えています。この漆黒の鋼と猛々しい装飾が立派な兜が、夢にまで出るほど眺めていたものです。感性が大人に近づいてくると、今度は背景の白樺が幻想的に見えて、こんな場所がどこかにないかと探しに出かけたこともありました」


 ぽつぽつと思い出を語るその横顔は寂しげに見えた。


「これは叔母が、五つのときの僕がいつまでも健やかであるようにと祈って描いてくれた絵。成人式の日にこのことを聞かされるまで知る由もありませんでしたが、ひと目見たときからきっと魂に響いていたんだと思います。だからこそ……この絵は手放さないでいてほしい」


「それが、菅平さんの本音なんですね」


「……そうですね。きっと他の絵には僕の気持ち以上に、叔母にとっての思い入れがあると思います。特に『かくりよ』はそうであるはず……」


 (はかな)げに舞い踊るアサギマダラを横目に、確かにそう言った。


「けれど、今すぐ全部売る必要は無くとも、いくつかは売ってリフォーム代だけでも捻出しなきゃいけないはずです。僕も叔母もエゴを貫き通すわけにもいかないのです」


「いいえ、菅平さん。それならば私達はエゴを貫いてみせるべきです。大切なものを手放さず、夢を叶えてこその人生です。諦めてばかりではまいりません。なので、ひとつ提案です」


「提案? なんでしょうか」


 訝し気な視線を受け止めつつ、私は大きなキャンバスを彩る大瀑布を一瞬だけ盗み見る。

 ほんの一瞬見えたそれはさながら残像のように見えたが、同時にこの絵の本来の姿が幻視できたような錯覚を視た。

 それはなんと(おそ)ろしく美しい氷瀑だったろうか。これがこの世に生まれ落ちないだなんて冒涜、私が否定してやる。


「菅平さん。先生に伝えてください。その滝の絵を氷瀑として完成させれば、私が二百万円で買い取ります」


 私のこの発言に、菅平さんのみならず花音までもが絶句していた。

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