第91話 磨かれなくなった原石
~九音view~
「先生……引退っていつですか? すぐなんかじゃありませんよね……?」
「ううん、すぐよ。私はもう筆を置くわ……」
「そんな! どうして!?」
病院内であることも忘れて思わず大声を出してしまう。
動揺している自覚はあるが、これを聞かされて冷静になんてなれなかった。
「今までもずっと、かずちゃんや恭太郎君に迷惑をかけていたからね。今回ばかりはさすがに……もう無理かなって……ね」
「…………」
「姉さんに絵画をやめるようにお願いしたのは私なの。ごめんなさい。九音ちゃんがそこまでショックを受けるとは思わなかったわ」
絶句してしまった私に対し、和子さんが申し訳なさそうに言う。
「でもね、絵を描いているときの姉さんはいつも苦しそうで、もう見ていられなくて……。そのうえ骨肉腫までできて手術なんて、これ以上はまるで命を削ってるようで……」
嘘だと言いたかった。私の記憶にある先生が絵を描く姿はいつも楽しそうで、苦しみながら描く先生なんて想像もつかなかった。
確かに創作に生みの苦しみはつきものだ。脳がオーバーヒートして頭痛に苛まれたり、締め切りに追われて胃痛がする日も日常茶飯事。しかし絵を描くことの楽しさを教えてくれたのは、他ならぬ先生なのだ。
そんな先生が、家族が見ていられなくなるほど痛々しい姿で筆を握っていたという。アートクラブを畳んでから、先生の身体はそれほどにまで弱っていたんだろうか。
「先生、絵を描くの、辛かったんですか……?」
「そんなことない……と思っていたの。でも、普通に暮らしているだけでもずっと体のどこかが痛くて……きっと痛みに慣れすぎていたのかしらね。そんな異常を、私本人よりかずちゃん達のほうが敏感に感じ取っていたのでしょうね」
「…………」
「動きがおかしいよってかずちゃんと恭太郎君に言われて、渋々病院で検査してもらったらこの有様よ。さすがに参ったわ。いつものリウマチだと思っていたのに、骨肉腫だったなんて」
自嘲したような弱々しい笑みを浮かべてつぶやくように言う。
――痛みに慣れすぎた
それはどれほどの感覚なんだろうか。どれだけの間、苦しみ続けていたのだろうか。
私には知る由も無かった。
「お医者様からご自愛くださいって言われて、手術すれば楽になりますよって言われて……ああ、私って今まで我慢しすぎていたんだなって思い知ったのよね……」
「…………」
「かずちゃんにも諭されちゃったわね」
「姉さんはいつも自分のことをないがしろにするのだもの。もうとっくに無理の利かない歳なのに、こんなになるまで……。正直、やめるって言ってくれてホッとしたわ……」
「そんなことがあったんですか……」
和子さんのその台詞は心の底から安心したような響きを孕んでいた。
そのことに私は複雑な気持ちになった。
私が先生の立場だったら、同じように筆を置くのか、それとも描き続けるのか。
私だったらきっと……描き続けるかもしれない。しかし筆を置くことを選んだ先生の考えも理解できなくはない。できなくはないのに、心のどこかで納得できないでいる。
エゴを貫くべきだと思ってしまう私は間違っているのだろうか。先生の選択がやっぱり正しいのか。
もやもやする。苛立つ自分が嫌になる。
「今うちに残ってる絵もね、全部売るつもりなの」
……えっ?
思案に耽っている最中に聞き捨てならないひと言が差し込まれ、一瞬思考が停止した。
「全部……全部って、あの氷瀑の絵もですか……?」
氷瀑の絵。年始に見せてもらった絵。
先生が人生最後を飾る集大成となるはずのあの作も、手放してしまうということなのか。そうであってほしくない。否と言ってほしい。
しかし私のその問いに、先生はこくりと首肯した。それを見た私は、お腹がスゥっと冷え込んだような焦燥感に襲われた。
「そんな……! あれはまだ未完成なのに、売っちゃうんですか!?」
「……あれでも一定の水準にはなっているわ。理想ではないけど、売り物にはなるはずよ」
「売り物になるかどうかじゃありません! 理想に届いていないまま世に出して、先生はそれでいいんですか!? 人生最後の作品を、途中で諦めるんですか……!」
「…………」
先生は何も言わない。気まずそうな微笑みを浮かべるだけだった。
「あれは間違いなく名画の原石です。先生にしか磨けない宝石なんですよ……」
「あれが宝石になる保証なんてどこにもないのよ。イミテーションかもしれないし、加工に失敗して石ころほどの価値もなくなってしまうかもしれない」
――そんなことありえません!
喉に出かかったその台詞を、寸でのところで飲み込む。先生自身が言った言葉を否定できるほどの自負は持ち合わせておらず、そのまま私は言葉を失ってしまった。
「…………」
「近いうちに、伝手のある画壇に紹介してもらったギャラリストさんに買い取ってもらう約束なの。そしたらもう、おしまい」
「…………」
「これでようやく引退ね。手術が終わったらリウマチに効く温泉巡りでもしようかしらね」
「それがいいわよ姉さん。私も行きたいわ。最近肩こりが酷くって」
二人の老姉妹は暗くなった雰囲気を拭うように話題を切り替えていき、そこからの私は合間合間に相槌を打つだけの聴衆になった。でも、二人の会話の中身はほとんど私の頭に入ってこない。
これでもうおしまい?
ねえ先生、本当にそれでいいんですか?
いくつも浮かんでくるセリフはついぞ言い出せず、適当なタイミングでお大事にと言い残して私は病院を後にした。
別れ際、私を見送る先生の表情にわずかに影が落ちたように見えたのが、やけに印象に残った。
家に戻ると、もうお母さんが家にいた。どうやらいつもよりだいぶ遅い帰宅になってしまったようだ。
「ただいま」
「おかえり。豊橋先生はどうだった?」
「えっと、まあ、なんか手術は必要らしいけどそれで済むみたい」
「そっか、それなら良かったわね」
「……だね」
命に別状はない。それはきっと良いことだ。良いことに違いないはずだ。
「九音?」
「あ、ごめん。なんか喉乾いちゃって」
「そう? 適当にお茶でも用意してあげるから、とりあえず手を洗ってきなさい」
「うん」
お母さんに促されて手洗いうがいをしてリビングに戻ると、温かい緑茶が用意されていた。
ひと口すするとお茶の渋みが広がり、冬空で冷えた身体を内側から温めた。
それなのに、私の心はずっと冷えたままで、お茶を飲み切っても喉はカラカラに乾いたままだった。




