第90話 口の中が乾燥したような
~九音view~
「こんなにすぐにまた会えるなんてねぇ」
「そうですね、先生」
豊橋先生が、昔から変わらない柔らかな笑顔で迎えてくれる。
年始にお会いしてからまだ一週間も経っていない。まだ平日だ。元々休日になったら顔を出そうと思っていたのを、前倒ししてここにいる。
本当に変わらない笑顔。
大好きで、安心できた笑顔。
それが今は、そうは思えない笑顔。
「ねえ、先生」
「九音ちゃん、リンゴ食べる? 私ひとりじゃ食べきれないの」
「……いただきます。剥くのも私がやります。それより、先生」
「なにかしら。九音ちゃん」
「私の言いたいこと、わかっていますよね」
「……ごめんなさいね。でもそんなに心配しないで。別に大したことないのよ」
「心配するなって、そんなの無理ですよ! だって、それならどうして」
どうして。ねえどうして。
「どうして入院なんてしてるんですか……」
私のやりきれない気持ちが、真っ白な病室にぽたりとこぼれ落ちた。
**
その一報は、学校が再開してからほどなくして私の耳に入った。
「先生が入院!?」
先生の甥、菅平さんが家の電話にかけてきて、お母さん伝いに聞かされたその話は寝耳に水……信じられない話だった。
「なんでそんな急に……」
「電話ではそこまで詳しく聞けなかったけど、緊急じゃなくて計画的な入院みたいよ」
「うそ……」
年始に会った時は、何も聞かされていなかったのに……。
緊急じゃないのはホッとしたけど、計画なら計画で教えてくれなかったことにショックを受ける。
「先生は怪我? 病気?」
「病気のほうって言ってたわよ。病名は聞けなかったけど、入院先は聞けたからお見舞いに行って聞いてみたら?」
「どこの病院?」
「高中だって」
高中とは、この辺りで一番大きい中央病院のことだ。
「ありがと。明日行く」
「明日行くの? 早いわね。そしたらお母さんの代わりにお大事にって伝えてくれる? あとお見舞いの品も……ああ、今それっぽいのうちに無いか……。これで何か買って行って」
そう言って、お母さんは私にお金を握らせてきた。
「わかった。伝えてくるわね」
「よろしくね」
よろしくされた。それはいいけど、私の胸中は先生の容態の心配で埋め尽くされていた。
すぐにでも病院へ駆け出したかった。菅平さんに電話で問い詰めたかった。
(緊急じゃない、緊急じゃないから……。今私が騒いだら迷惑になる……)
不安な気持ちを理性で押し殺し、この日はとにかく時間が早く進んでおくれと祈り続けた。
**
そして、今日。
放課後になって一直線に中央病院へ向かった私は、数日ぶりに先生と再会した。
先生は病室のベッドの上で身体を起こして本を読んでいた。第一印象だけでは、容態のほどはさっぱりわからない。
おずおずとしながら声を掛けると、なんてことなさそうに笑顔を向けられ、リンゴまで勧められた。
私にはそれが、何かを誤魔化しているような、修復に失敗した宗教画の聖母のような、そんな歪さを感じて不安で不安で、ついに余裕がなくなってしまった。
「どうして入院なんかしてるんですか……」
「…………」
先生の微笑みに、少し困ったような成分が析出した。
「最初から入院する予定だったなら、この前会ったときに教えてほしかったです……」
「……そのとおりね。ごめんね、九音ちゃん」
私は首を振った。謝らなくていいとか、責めるつもりはなかったとか、そういうことが聞きたいんじゃないとか、自分でも気持ちがまとまらなくて、イヤイヤをする子供のように首を振るしかなかった。
「どんな病気なんですか。すぐ退院できますか」
「ちょっと膝が悪くてね。退院は、すぐにはできないみたいなの。手術が必要でね」
「手術……」
「大丈夫。心配しないで。私の歳でも耐えられる簡単な手術だから。ちょっと腫瘍を取るだけよ」
「腫瘍って!? それ本当に大丈夫なんですか!?」
「落ち着いて。骨肉腫だけど良性だったから。この間まで生体検査っていうのをやってもらってて、ちゃんと良性ですって確認してもらったから。その結果が出たのがつい最近だったの」
「良性なら、大丈夫……なんですよね?」
「そう。だから手術さえしちゃえばもう大丈夫なのよ」
「そうですか……」
骨肉腫と聞いて一瞬難病かと思ったけど、良性なら少し安心した。
「だったら、退院はすぐできそうなんですね」
「ええ、たぶんね」
「よかった……」
ようやくホッとした。心配で昨夜はなかなか寝付けなかったほどだったのだ。今夜はちゃんと眠れそう。
「退院したら教えてください。すぐ退院祝いに伺います」
「ありがとうね。連絡するわ」
緊張が和らいだところで、背後の病室のドアが開く音がした。
振り返ると、先生と近い年頃の女性が入室してきたところだった。
「あら、先客がいたのね。こんにちは」
「こ、こんにちは……」
急な挨拶だったので少しどもってしまった。恥ずかしい。
「あ、その……私そろそろお暇した方がいいでしょうか……」
「遠慮しなくていいのよ。あなたは教え子さんかしら。私は菅平和子。幸子の妹です」
「妹……」
言われてみれば、顔立ちや背格好に先生との面影を感じる。
「……あ、すみません。私は飯山九音と申します。先生のアートクラブに通っていました」
「あら、もしかして年始に姉さんの家に来たっていう子かしら」
「はい。お邪魔させてもらいました」
「息子から聞いたわ。お菓子まで頂いたそうで、ありがとうね」
やはり和子さんは、先生の甥だと紹介された恭太郎さんのお母様だったようだ。
「かずちゃん、九音ちゃんはとてもいい子なのよ。アートクラブにいた頃もとても良い絵を描いていたけれど、その後も自分の力で練習を続けて、今は若い人たちからたくさん買い手がつくほどなの」
「あら、さすが姉さんの教え子ね。どんな絵を描いているのかしら」
「えっ……あ、その……」
先生が突然私を持ち上げ始めて、私はたじたじになってしまった。
そのまま流されるようにスマホで絵を見せて、和子さんはそれを思ったより褒めてくれた。そこからさらに話題が広がっていって、いつの間にか私は帰るタイミングを逸してしまった。
「こんなに若い子がそこまで活躍してるなんて思わなかったわ。機会があったら私にも貴女の作品を買わせて頂戴ね」
「はい。喜んで」
「そのコミケ……? というところへ行けばいいのかしら?」
「あー……その、コミケに来られるのはもちろん問題ありませんが、買えるまでかなり大変ですよ」
「そうなの? でも姉さんでも買いに行けたのよね?」
「かずちゃん。九音ちゃんの言う通りあそこは大変な人混みで、買いに行くだけで一日仕事になっちゃったわ。やめておいたほうがいいわよ」
「あら、そこまで? それは残念ね」
「あの、ご用命いただければ直接の売買もいたしますので」
「まあ、親切にありがとうねぇ」
和子さんは社交辞令ではなく、本心から感謝してくれているようだった。
そういうところは先生に似ているなと思った。
「でもよかった。意志を継いでくれる子もいるようだし、これで姉さんも安泰ね」
「かずちゃん、それは……」
先生が焦ったように言う。
私を気にしている様子だった。それを見て、和子さんは訝し気に言った。
「姉さん……もしかして言っていないの?」
「…………」
先生が黙り込み、和子さんから逸れたその視線が虚空を彷徨う。そして一度私にぶつかってから、墜落するように先生自身の手元に落ちて固定された。
「えっと、何のことですか……?」
先生が何か言いづらそうにしていることは感じ取っていた。
訊くべきではなかったのかもしれない。しかし訊かずにはいられなかった。
知らないことを知らないままでいるのは嫌だから。
下向きに固定されていた先生の視線が、再び私に向く。
先生は短く息を吐き、ゆっくりと微笑みを作ってからこう言った。
「絵画、引退しようと思うの」
「え…………」
口の中が一瞬で乾燥したような、そんな錯覚に私は襲われた。
【筆者注】
ながらくお待たせしてしまって申し訳ありません。ちょっと私生活と仕事が立て込んだのもありましたが、それ以上にこの章のプロットがガバガバで文章に落とし込んでいくのに苦戦しています。この章を乗り越えるまで苦労しそうですが頑張ります。




