第80話 モーツァルト/トルコ行進曲
~大河view~
公演が終わって、俺達はホールのロビーでしばし休憩していた。
「今年ももう終わりですね」
「だなぁ」
第九が終わった。第九が終わるとどうなる? 知らんのか。一年が終わる。
年末の風物詩を終えたら一年の終わりを感じるものだ。年末の風物詩といえば冬コミがあるが、今回は辞退したので第九だけが締めを感じさせてくれる。
「最高の演奏でした。嗚呼……アマーティの響きで耳が幸せです……」
「お、おう……」
俺には聴き分けなんてできなかったが……。
「やっぱり第九は名曲だな。全然飽きない」
「初版の楽譜は人類最高の芸術作品とも謳われますからね。音楽の究極形のひとつなのは間違いないでしょう。九音の名前の由来も第九からです」
「そうなんだ」
「そうなんですよ」
九音さんの名前が出て、彼女の顔がほんのわずかに憂いを帯びたように見えた。
「九音さんと、まだ微妙なの?」
「ああ、いえ。最近はだいぶ良くなりましたよ。自然治癒というか」
「そっか」
真実なのかポーカーフェイスなのか、本当のところは読み取れなかった。
「先輩の方こそどうなんですか?」
「え」
「大洋さんとのことですよ。私達と同じだったんじゃないですか?」
バレていたのか。この子には敵わないな。
「そっちと同じだよ。最近は改善した」
それは本当のことだ。ギクシャクした状態はゆっくり雪が融けるように消えていき、そろそろふきのとうが顔を出しそうな頃合いだと思う。
「それはなによりです」
「そうだな」
なによりか。そうだな、なによりだ。不仲な双子なんて世界で最大の不幸だ。
「じゃあ、ぼちぼち帰ろうか」
「はい」
ホールを出て駅へ向かって歩き出す。屋外は冬の冷気が立ちはだかり、歩みを阻むかのようだった。
そこへ追い討ちをかけるようにからっ風が吹きつける。
「さむっ」「んんっ」
二人同時に縮こまる。寒さから逃れようと、半ば本能的に腕と腕がゼロ距離になるほど身を寄せ合った。
暖かい。
お互い着込んでいるので直接伝熱しているはずは無いのだが、不思議と暖かく感じた。
「あったかいですね」
「あったかいな」
「こうすると、もっとあったかいですね」
どちらからともなく手をつなぐ。来るときも繋いだが、今度は直接肌と肌だ。
長く続いた拍手のせいでまだヒリヒリしていた手の痛みが、魔法のように消え去った。
「これならもっともっとあったかいぞ」
手を一度離して握り直してみた。花音さんの手をグーにしてやるかのように、俺の手で全部包み込んでやった。すっぽり収まるほどちいさくて愛おしい手だ。
「すごくあったかいです。でもこれじゃあ先輩が寒いじゃないですか」
「全然。充分以上にあったかいよ」
実際、湯たんぽのようにあたたかい。
幸せな温度だった。
「あ、あの、先輩っ」
突然、彼女の手を包む俺の手が、もう片方の彼女の手に包まれ、そして引き寄せられた。
「花音さん……?」
目と目が合う。そこには緊張感を漂わせ、潤いを帯びた瞳で俺を見つめる少女がいた。
瞬間、心が繋がった気がした。
俺の手に触れる彼女の手首から、俺以上のビートを刻む脈拍が体温と共に伝わってくる。きっと彼女にも、俺のそれが伝わっているだろう。心拍数は負けているけど、一拍一拍が音が聞こえそうなほど打ち付ける脈拍の強さは彼女のそれをも上回っている。隠すつもりはないし、むしろ知ってほしいと思った。
「あのっ、私、わたし……」
「…………」
もしかして、もしかするのだろうか。
不安に揺れる心が伝わってくる。
変化の兆しが目の前にある。
もう間違いない。これで勘違いだったら道化もいいところだ。
幸せだと思った。
でも同時に、今じゃないと思った。だってこの舞台は未完成だったから。
だからさ、焦っちゃだめだよ。
だって、俺達は――
「先輩、私は……」
「待って」
俺は握られていないもう片方の手の指で、緊張で乾きかけている彼女の唇を塞ぐ。
「っ……」
「まだ言わないで」
努めて優しく告げる。唇に添えていた指をやさしくなぞるように横へとスライドし、そのまま林檎のように熟れた頬へ手のひらを添える。温かい。手よりも熱くなっている。
「ごめん」
「え……」
「まだできてないんだ」
「……あ」
一瞬驚きで固まった彼女の表情だったが、すぐに理解したのか余裕のある表情に戻った。
ここから先は主語は不要だ。俺達ならもう、述語だけで伝わる。
「いつになればできますか?」
「大晦日には間に合うよ。絶対。だからそれまで待っててほしい」
「なら待ってます。期待してもいいんですね?」
「期待してほしい。裏切るつもりは無いし、最高のものにする。だってこれは、一生に一度のことなんだから」
「一生に一度なんですね」
「当然」
人によっては何度もするのだろうが、俺は一度に全てを賭ける。
「そんなにハードル上げて、大丈夫ですか?」
「もちろん。だって俺は、君だけの、君あっての芸術家だから。美の専門家だぞ」
「確かに、それは杞憂ですね」
二人して笑い合う。
勢いなんかであっけなく済ませるつもりは毛頭ない。完璧に、徹底的に美しさを極めてこそ俺達だ。
「だからこれがクリスマスプレゼント。こんなので申し訳ないけど」
俺はポケットから一枚の栞を取り出す。
「きれい……」
それは紙面をフルに使ってイラストを描き込み、さらに押し花を添えてラミネートした栞だ。もちろん、俺の手作りである。
「先輩、これは?」
「栞という名の招待状。いや、チケットかな。二人だけの同人誌即売会に、貴女をご招待いたします」
「二人だけの、即売会……」
「大晦日に、約束のものを渡したい。ドレスコードはまあ、できれば可愛いやつだと嬉しいかな」
「ふふ。先輩、欲張りなロマンチストですね」
「そうだぞ。俺はロマンのためならいつでも全力なんだ」
「そうでしたね。それでこそ先輩です」
「チケット、受け取ってもらえるかな」
「はい、喜んで」
彼女はそれを宝物のような手つきで財布へと収めた。
「先輩も格好良くしてきてくださいね。ドレスコードです」
「かしこまりました。お姫様」
「先輩にお姫様扱いされるの、案外悪くないですね」
二人で笑い合う。冬の冷気は、もうどこかへ消えてしまった。
「渋谷から半蔵門線で帰りましょうか。数十円だけですけど安いので」
「うん。ならそれがいいね。行こうか」
手を繋いだまま歩き出す。少し気恥ずかしかったが、それ以上に嬉しい気持ちが勝った。
すまん浦野君。ああは言ったけど、俺達実質付き合ってるかもしれん。
「あの、少しだけ寄り道してもいいですか?」
「いいよ。今日はとことんまで付き合うよ」
「ありがとうございます。でもちょっとだけですから、そんな気負わなくて大丈夫ですよ」
人で溢れかえる渋谷の中心部まで辿り着くと、彼女に手を引かれつつ商業施設へと入り、そのとあるフロアへと導かれた。
「よかった。今は空いてますね」
そこには黒いアップライトピアノが置かれていた。ストリートピアノという、誰でも自由に弾けるように解放された公共のピアノだ。
花音さんは自然な動作で椅子に腰掛け、試すように鍵盤やペダルに触れる。ややあって俺に向けて振り返った。
「それでは先輩、私からのクリスマスプレゼントをお渡ししますね」
「おお。ピアノ演奏がプレゼントか。それは嬉しい」
俺が彼女に栞を贈り、俺は彼女から音楽を与えられる。いつも通りの、しかし特別なギブアンドテイクの関係。
「曲は何かな」
「そうですねぇ。クリスマスソングはありきたりすぎてつまらないので、ここは小ネタでいきましょうか」
そう言って、花音さんは慣れた手つきで演奏を始めた。その曲はこれまた有名な一曲だ。
「トルコ行進曲か」
「はい。正確にはモーツァルトのピアノソナタ第十一番第三楽章ですね」
彼女は手を止めずに答える。
「第九の第四楽章に行進曲っぽいところがありますよね。テノールが歌うところ」
「ああ、あったな」
「あそこも俗にトルコ行進曲って呼ばれているんですよ」
「そうなの?」
「トライアングルやシンバルが入るじゃないですか。あれらの楽器ってトルコ起源なんですよ。だからトルコ行進曲」
「トルコ起源の楽器なのか。……あれ? だったらこのトルコ行進曲は? ピアノ曲だよね?」
「こっちのトルコ行進曲は当時のトルコの軍楽曲のオマージュですよ。ちなみに第九のほうのトルコ行進曲にトルコ軍楽曲のオマージュ要素はありません」
「あ、そうなんだ……」
まあ、なんかいろいろあるらしい。
それにしても、やはり彼女の演奏は響きがいい。とても感情豊かなのだ。今日は特に楽しげにきこえる。
通りがかりの通行人もたまに足を止めて聴き入っている。さっきからずっと遠巻きに立ち止まってる人もちらほらいる。
でも残念だったな。この音楽は俺のものなのだ。
本当だったらここに囲いを作って独占してしまいたいぐらいだが、それでも彼女の音が俺だけに向いていることは充分伝わってくるので、これで良しとしよう。
「ねえ先輩」
「ん?」
「とっても楽しいですね!」
「ああ、楽しいな!」
その後も彼女はいろんな曲を代わる代わる披露してくれた。
とても楽しくて、とても幸せなクリスマスの夜だった。
【筆者注】
演目を『もろびとこぞりて』にしようと思ったら日本語歌詞の著作権が生きていたことが直前で発覚してトルコ行進曲に変更したのがここだけの話。
なお、渋谷マークシティのストリートピアノの演奏可能時間は19時までだったので時間外になっていること間違いないのですが、そこはまあフィクションなので。




