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第79話 歓喜の歌

~大河view~



 『交響曲第九番』 第一楽章



 静かにヴァイオリンが胎動(トレモロ)を始める。

 それはクレッシェンドでだんだんと明瞭になっていき、そして他の管弦楽器や打楽器をも巻き込み爆発した。


(重いッ……!)


「重いですね」


 俺の感想と同じことを花音さんも小声でつぶやく。重いというのはテンポが遅いことの比喩だ。第九に限っては俺も毎年のように聴いているので、普通より早いか遅いかすぐわかる。今日の指揮者はここをずっしり重くしてきた。

 重かったのは序盤だけで、その後は標準的なペースで進む。


 弦楽が優雅に、そして荘厳に。

 木管が歌うように、遊ぶように。

 金管が華を添えるように、しかし轟くように。

 時に激しく、時に優しく。変化に富んだメロディーが観客を楽しませてくれる。


 花音さんはすでに音楽に没入しており、鋭い視線を真正面に向けながら指揮者のように右手がリズムを刻んでいる。それでいてなお、肩の力は脱力してリラックスしている。

 これが彼女の自然体だ。まるで音楽と一体化したかのようだった。

 これが高校一年生に見えるだろうか? 風格は老成した紳士だ。プロヴァンスのカフェテラスからシルクハットを抱えて出てきても不思議じゃない。とても様になっていた。


 ホールが一度静かになる。第一楽章が終わった。

 指揮者が一呼吸置き、再び力強くタクトを揮う。



 第二楽章



 この交響曲の諧謔曲(スケルツォ)を担う楽章だ。全体を通してとても愉快で気分が盛り上がる曲で、俺はかなり気に入っている。

 じゃれ合うようなヴァイオリンと木管の掛け合い。ここに割り込むティンパニが実に格好良い。

 そう。この第二楽章はティンパニがめちゃくちゃ格好良いのだ。

 ティンパニをただの太鼓と侮ってはいけない。派手に躍動するマレット、正確な連打、瞬時に打面をミュートする手さばき。見えない足元ではペダルで絶妙なチューニングをこなしているのだろうか。目も耳も惹きつけられてしまう。


「上手いですね」


 花音さんも太鼓判だ。太鼓だけに。



 第三楽章



 第三楽章は打って変わってとても静かな曲だ。ゆっくり揺蕩(たゆた)うように安らぎに満ちた音色が流れる。

 正直、個人的には退屈だ。眠い時に聴いたら寝てしまうかもしれない。

 こんな曲でも花音さんの集中力は乱れない。さすがだ。

 フルートやホルンが優しいメロディーで癒しと眠気の波動を放つ。

 だんだん退屈になってきたので花音さんの横顔を盗み見ていたら、それまで沈黙を保っていたトランペットが役割を思い出したかのようにファンファーレを上げる。変化の兆しだ。管楽器も弦楽器も徐々に活発さを取り戻していく。

 一度盛り上がりかけたところで再びフェードアウト。


「いよいよだな」


「ええ、始まりますね」


 指揮者がタクトを下げ、第三楽章が終わる。

 同時に後方で控えていた声楽隊が全員起立する。


 いよいよ始まる。歓喜の歌が。



 第四楽章



 ビンタのようなインパクトで管楽器が不協和音を大きく鳴らす!

 第四楽章が始まりを告げた。

 手始めにチェロとコントラバスの低音弦楽部隊だけが音を作り出す。普段脇役の彼らが勇ましく主役を張る見せ場だ。これがまた格好良い。


 そこへ差し込まれる管弦楽による第一楽章の想起。それをチェロとコンバスが止める。

 続いて木管による第二楽章の想起。またしてもチェロコンバスが止める。

 またしても木管が第三楽章の想起を差し込み、これまた低弦部隊が阻む。


 各楽章の再現を拒否するかのようなやりとりだ。再現を阻んだ低弦は、そのまま静かに第四楽章の主題たる歓喜の歌のフレーズを奏で始める。

 そこにヴィオラが、さらにはヴァイオリンが合流して音が洗練されていく。そして管楽器も打楽器も合わさっていよいよ壮大に。これぞオーケストラ。絢爛華麗な響きだ。


 その管弦楽団に、バリトン独唱の鶴の一声(レチタティーヴォ)が突き刺さる!


  O Freunde, nicht diese Töne!

  Sondern laßt uns angenehmere

  anstimmen und freudenvollere.


 このドイツ語を和訳するとこのようになる。


  おお友よ!

  このような調べではなく

  もっと心地よい歌を歌おうではないか

  喜びに満ちた歌を


 言ってしまえば「クソみたいな演奏してないで歌おうぜ!」ということだ。

 まさかの今まで演奏してきた音楽全否定である。ぶっ飛んでるよな。

 バリトンの独唱はこのまま歓喜の歌の主題を歌い上げる。


  歓喜よ 美しい神々の火花よ

  楽園からの乙女よ

  我々は感激して

  あなたの天上の楽園に 足を踏み入れる

  あなたの魔力は

  世界が激しく隔てるものを 再び結び付け

  すべての人々は

  あなたの優しい翼のもとで 兄弟となる


 バリトンの独唱に続いて混声合唱も主題を歌う。それにしてもバリトンの人の巻き舌すげえな。ネイティブだからなのかプロだからなのか。両方か。

 続いては独唱の四人が混声で歌い始める。


  一人の友を 真の友とするという

  幸運に恵まれた者

  優しい妻を持つことができた者は

  共に喜びの声をあげよ

  ただ一人でも

  この世で友と呼べる人のいる者も

  しかし それができなかった者は

  涙と共にこの集いから去るのだ


 陰キャ涙目の歌詞だな。


  すべて この世に生を受けた者は

  自然の乳房から喜びを飲み

  すべての善人も悪人も

  自然の薔薇の道をたどる

  喜びは 我らに口づけと葡萄酒と

  死の試練をも恐れぬ友を与える

  虫にも喜びは与えられ

  天使ケルビムは 神の前に立つ


 合唱と管弦楽加わり高らかに歌い上げて、一度静かになる。ここからは行進曲風の曲調に変わる。

 ハーメルンの笛吹きよろしくピッコロがさえずるように、さらにはトライアングルが小気よく合わせて、俺達も歩き出したくなってくるような軽快なリズムを成す。

 ここでテノール独唱の出番だ。


  楽しそうに

  太陽と多くの星が

  壮大な天の軌道をめぐるように

  走れ 兄弟たちよ

  あなたがたの道を

  喜び勇んで

  勝利に向かう英雄のごとく


 テノールの独唱が終わると管弦楽が激しく音をかき鳴らす。もう行進ではなく突撃だ。

 その突撃は唐突に止まった。いや、これは溜めだ。再び助走をつけるように小さな音が湧き上がってくる。

 そう、この次が第九で最も有名な節。何億、何十億人の鼓膜に焼き付いているであろうあの音楽だ。

 身を縮こませていた指揮者が、両手を一気に広げて歓喜の歌の号砲を炸裂させる!


  Freude, 歓喜よ!

  schöner Götterfunken, 美しい神々の火花よ

  Tochter aus Elysium 楽園からの乙女よ!


 合唱団も管弦楽団も、その全てが自らを主張するように美声を振り撒いている。それを俺は全身で浴びていた。とても贅沢な瞬間だった。


  我々は感激して

  あなたの天上の楽園に 足を踏み入れる

  あなたの魔力は

  世界が激しく隔てるものを 再び結び付け

  すべての人々は

  あなたの優しい翼のもとで 兄弟となる!


 ここで一旦区切られ、男声合唱だけが重く(おごそ)かに歌を続ける。


  わが抱擁を受けよ 百万の人々よ

  この口づけを 全世界に


 時折女声の合唱も加わって混声合唱になる。静謐に、小川が流れるような雰囲気だ。


  兄弟たちよ 星空のかなたに

  愛する父は 必ずや住みたもう


 余談だが、カ◯ル君が初号機に握り潰されるのはこのへんである。


  ひざまずいているか 百万の人々よ

  創造主の存在を感ずるのか 世界よ

  彼を 天上に求めよ

  星空のかなたに

  創造主は 必ずや住みたもう


 さあ、ここまでくるともうクライマックスだ。

 女声合唱が華やかに、男声合唱が朗らかに歌い、混ざり合う。

 続いて独唱の四人が歓喜の歌の詩を追従し合うように歌いあげる。

 歌い切った独唱のバトンを受け取り、管弦楽がトップギアに切り替わる。フィナーレだ!

 これまでで最速のテンポで弦楽隊が激しくボウイングする。

 ピッコロが飛び回り、トロンボーンは吠え、ティンパニが躍る。合唱団も発声で嵐を起こさんとばかりの声量で呼応する。けたたましいシンバルの煽りで、場は最高潮に達した。


 最後に指揮者のタクトが空間を一閃しピリオドを打つ!


 一瞬生まれた沈黙は観客の誰かの「Bravo!」の声に破られ、瞬く間に盛大な拍手で覆いつくされた。

 俺も花音さんも惜しみない拍手を、長く長く贈り続けたのだった。


【筆者注】

演奏描写で丸々一話使いました。くどいかもとは思いますが、第九だけはとことん描きたかったのでご容赦を!

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