第78話 ベートーヴェン/交響曲第九番『合唱付』
~大河view~
クリスマス当日がやってきた。
昨日のイブに引き続き、今日も太平洋側の冬らしく澄み渡った青空だ。ホワイトクリスマスにはならなそうだ。
もっとも、東京でホワイトクリスマスなんて天変地異クラスの気象現象である。フィクション作品では降りまくりだけど。あれらはきっとネオ東京なのだ。いや、ネオ東京は尚のこと降らなそうだな? まあいいや。
こんないい天気ではあるが、今日の俺は自転車通学ではなく電車で学校に来ていた。放課後になったら花音さんと合流してコンサート会場へ直行するためだ。服装もいつもは動きやすいものにするのだが、今日はそうでないものを選んだ。とくにドレスコードは無いとのことだが、カジュアルさ控えめのダーク系で揃えてみた。
「先輩、お待たせしました」
授業が終わってまだ間もないはずだが、待ち合わせ場所にした昇降口に花音さんがやってきた。この様子だと間髪入れずにここまで来たのかな。俺はもちろんサボってフライングでここにいる。
「全然待ってないよ。早速行こうか。俺も待ちきれないんだ」
「そうですね。参りましょうか」
二人並んで歩きだす。いつもと違って南方向へ。
今日の花音さんの服装は白いブラウスと黒のジャンパースカートを主軸に、暖かそうなファーで縁取られた黒いケープを羽織った清楚なスタイルだった。白タイツですらっと見える脚が実に美しい。
「花音さんもちょっとフォーマルめのコーディネートでよかった。すごく似合ってる。そうするんじゃないかと思って合わせてみたんだけど、どうかな」
「よく似合ってますよ。先輩っていつもスポーティーな服なので新鮮です」
「スーツとも悩んだんだけどね」
「先輩、スーツ持ってるんですか!」
「そりゃあるよ。俺来年から社会人だよ」
「……見てみたいです」
「見たい? まあ卒業式には着ることになるはずだから待っててよ」
「楽しみにしてます。きっと似合ってるんでしょうね」
「まだ着られてる感じだけどね……」
「またまたー」
そんな話をしているうちに駅に辿り着く。いつもの都営三田線ではなく、東武東上線の駅だ。ここからまず池袋へ行き、JR線に乗り換えて原宿へ向かった。
「すごい人ですね……」
原宿駅を降りると、ものすごい人口密度だった。さすがはクリスマスの夕刻の原宿。平日にもかかわらず人でごった返している。いや、普通にオフィスワーカーの退勤にも被ってるか。
「会場ってどっちだっけ」
「向こうの方ですよ。代々木公園通り沿いへ」
「さすが詳しいね」
「何度か来てますので。先輩は地理に明るいのに意外ですね」
「や、原宿は普段無縁の土地だから」
陰キャにオシャレタウンは禁足地のようなものだ。今踏み入ったが。
「ではここは私がご案内しましょう。いつまでもエスコートされてばっかりの私じゃありませんよ!」
実に頼もしい発言に感動していると、彼女は俺の手を握ってきた。
「行きますよ! はぐれないでくださいね!」
「気をつけるよ。案内よろしく」
手袋越しではあるが、無駄に集中する神経がじんわりと伝わってくる体温を知覚する。なんだかとても安心できて、そして役得だった。
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会場に近づくにつれて『第九演奏会』のポスターが目につくようになる。やって来たんだなと実感が湧き、わくわくしてきた。
会場であるNHKホールに入場すると、広大なホールと舞台を煌びやかに照らし出す照明に圧倒された。
「凄いな……」
「コンサートホール、あまり来ないですか?」
「そうだな……思い出せる範囲だと、中学校の校外学習だかなんだかでオーケストラ鑑賞をしに池袋に行ったきりかな」
「東京芸術劇場ですね。あそこも立派な施設ですけど、せっかく東京に住んでるんですから、いろんなホールに行かないと損ですよ」
「ここ以上のもある?」
「当然ありますよ。ここはどちらかというと多目的なコンサートホールですからね。専用設計には劣ります。今日ここで聴いたら次はサントリーホールの大ホールで公演を聴きに行きましょう。あそこは世界に誇る最高のホールですよ!」
「それならぜひ誘ってくれ。絶対行く」
「よし! 今度良さそうなの探しておきますね!」
今度、か。また二人でこうしてコンサート……。うん、いいな。めっちゃ楽しみになってきた。
そんなこんなで指定された席に着席し、ひとつ気になったことを聞いてみた。
「そういえば、どうして今日にしたかったの?」
花音さんから誘いを受けたとき、彼女は四日間ある公演日の中で今日を指定した。偏見かもしれないが、彼女はクリスマスに誰かと……なんて俗物的なことはしないタイプだと思う。何か決定的な理由があるのではないか。
「ああ、それはですね。奏者のヴァイオリニストの内の一人がツイッターで、初日だけアマーティで演奏するってアナウンスしていたんですよ」
「アマーティ?」
「あれ? てっきりご存知かと思いましたけど知りませんでしたか。世界三大ヴァイオリンのひとつで、ストラディバリウスに並ぶ名器ですよ。アマーティはヴァイオリン製作で名を挙げた一族です。その中でもニコロ氏はアントニオ・ストラディバリの師匠ですよ」
「おお……まさか師弟とは……」
「数千万は下らない超高級品ですから心して聴いてくださいね。具体的な値段は知りませんが、億いってるやつかもしれません」
「億…………」
ヴィンテージ楽器の世界、やばいな……。
そうこうしているうちに奏者の入場が始まった。同時に花音さんがどこからかオペラグラスを取り出して、舞台に向かってレンズを向けている。そして「フルートはグラナディラ製ですか。渋いですね」など独り言をつぶやいている。なるほど、楽器オタクはそういうムーブをするのか……。
「アマーティってどれ?」
「えーと、あれです。コンマスの後ろの隣の人の」
「あれ……か?」
位置はわかったが、遠目からではよく見えない。
「ごめん、ちょっとそれ貸して」
「どうぞ」
「ありがとう」
オペラグラスを貸してもらって確認してみる。なるほど、あれがアマーティ……。
……全部同じヴァイオリンに見えるわ。
どうやら俺は違いの分からない男だったようなので、早々にオペラグラスを返却した。
花音さんは再び熱心に舞台上の楽器を観察している。これがガチ勢とにわかの差か……。
音合わせの美しい音色が館内に響き渡り、いよいよ始まるという高揚感に胸が踊る。
突然湧き上がる拍手。内心慌てて追従して拍手をしながら舞台袖を見ると、五人の男女が入場してきた。ソプラノ、アルト、テノール、バリトンの独唱を担当する歌手と指揮者だ。今回は全員外国人らしい。
独唱の四人は後方のひな壇に控える合唱団の前へ、そして指揮者はオーケストラの中心へ歩を進める。指揮者の一礼とともに拍手が止み、会場は静寂と緊張に包まれた。
指揮者のタクトが今、ゆっくりと。
動き出す。




