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第74話 長男長女は温泉へ

~大河view~


『(花音)明日ツーリングへ行きましょう。温泉に行きたいです』


 金曜日の朝に花音さんから届いたメッセージは唐突だった。「行きませんか?」ではなく「行きましょう」とちょっと強引さを感じる文面も意外なものだった。俺が今原稿漬けなのを知っているはずなのに、まるで誘いに乗ることを確信しているかのようだ。ただ、この週末は気分転換が必要だと感じていたのも事実であり、俺はこのお誘いに乗ることにした。ホームルームが始まるまでまだ時間があるので、メッセージを返す。


『(大河)いいけど、どうしたの急に』


『(花音)先輩が煮詰まってるって泉美から聞いたので、気分転換になればいいなと思いまして。温泉ならリフレッシュできるんじゃないかなと。まあ私も行きたい気分なんですけど』


 どうやら泉美の差し金らしい。普段ボケっとしているようでいて意外と見ていやがる。

 事実として原稿は行き詰っていた。いまいち納得のいく構図が浮かんでこない。俺はこれを"構図神が降りてこない"と呼んでいる。神待ち状態だった。


『(大河)うん。実はそうなんだよな。どこの温泉に行くつもり? 王道だと南は箱根や熱海や湯河原、東は南房総、北は鬼怒川や伊香保、西なら石和(いさわ)やほったらかし温泉もあるけど。でもクルマが使えるかはわかんないから、遠出は無理かもしれない』


『(花音)あ、クルマは大丈夫です。全部自走したいです』


『(大河)フル自走? だったら近所にする?』


『(花音)いえ、遠くまで挑戦してみたいです。私が頑張って走れそうな距離って、どれくらいでしょうか?』


 なんと、長距離のフル自走をご所望とは。どういう風の吹きまわしだろうか。ただまあ、チャレンジ精神は諸手を挙げて尊重したいので、できうる限り希望に沿ってあげたい。

 今の彼女が原付で走れる距離はどの程度だろうか。自転車と違って頑張るのはエンジンだから筋力は関係ないとして、問われるのは乗り手の気力と集中力か。二輪車は乗ったことが無いのでなんともわからない。


『(大河)だったら日中で走り切れる程度までにしようか。日が落ちると一気に寒くなって辛くなるし。百四十キロぐらいかな』


『(花音)わかりました。それぐらいの距離で往復できそうな温泉探してみます!』


 そうしてるうちにホームルームの時間がやってきたので、会話を打ち切る。


(温泉か……)


 好きな女の子と温泉ツーリング。すごい青春っぽい。

 想像してみよう。郊外までずっと一緒に走って、その先でご飯を食べたり、温泉に入ったり。お風呂上りの彼女はきっと(あで)やかに映るだろう。俺はきっとその艶姿を直視できず、逃げるように瓶牛乳をちびちびすするのだろうか。

 やべえ。なんか緊張してきた……。もう原稿どころじゃな……いや、逆に創作意欲が湧いてくる。もしかしてこの感情がスランプ脱却の鍵? もう授業受けてる場合じゃない。一刻も早くサボって原稿やりたい。そして明日になって走り出したい。

 そんな煩悩を抱えたまま、一限目のサボれない科目の授業が始まった。





~花音view~


 週末がやってきた。

 私はロードバイクで走る先輩の背中を、原付を駆って追いかけている。朝からずっとこんな感じだ。

 久々の先輩とのツーリング。なんだかんだで六月に神奈川を走って以来の二回目だ。もっといっぱい走ればよかったのに、勿体ない時間を過ごしてしまっていたかもしれない。


 今は埼玉県内を走っている。目的地は秩父温泉だ。決め手は往復距離がちょうどよかったからだけど、調べてみたらなかなか日帰り温泉が充実していてすぐに楽しみになった。早くお湯を堪能したい。

 季節はすっかり冬になり、凍てつく風をダウンジャケットで防御しながら温かい温泉を求めて突き進む。先輩の服装も冬物のサイクリングウエアだ。肌の露出は皆無だが、ボディーラインに沿う形状でもこもこ感は全く無い。寒くはないのか聞いてみると、良い生地を使っているようで見た目ほどは寒くないらしい。ただ、走っている状態がちょうどいい温度になる塩梅なので、長くじっとしていると寒いという。


「そういえば秩父には浦山ダムがあるんだけど、寄ってみる? ダムむすカードもあるよ」


 信号待ちのタイミングで、先輩はいろいろ話を振ってきてくれる。退屈させまいとしてくれているようでうれしくなる。


「寄ってみたいです。時間は大丈夫そうですか?」


「コースから大して外れないからたぶん平気。巨大なダムだから見ごたえあるよ」


「宮ヶ瀬ダムよりも大きいんですか?」


「浦山ダムが重力式コンクリートダムとして国内二位だっていうのは覚えてるから、たぶん浦山ダムかな」


「おおー。楽しみです!」


 信号が青に変わって再び走り出す。走っている間は会話が途絶えてしまうけれど、それでも彼の頼もしい背中を追いかけるのは楽しい。

 百キロ越え……それも百四十キロを予定している道程なので昨日までは不安も感じていたけれど、今は安心できてしまう。何と言っても何百キロも日常的に走り倒している猛者のエスコートなのだ。


 彼は本当に長距離移動に慣れていた。

 まるでこちらの心を読んでいるかのように休憩を設けてくれるし、興味深い景色があれば教えてくれる。地理の知識が豊富で、遠くに見える山の名前や走っている国道の起点と終点、周辺の観光名所、昔利用したというコンビニとその思い出話など、話題は尽きない。

 ちなみに、浦山ダムの高さは宮ヶ瀬ダムと同じだったと訂正された。あのあと律儀に調べたらしい。


 そんなときだった。背後から大音響の音圧を浴びたのは。


「きゃっ!?」


 それはクルマのクラクションだった。乱打とも言える明らかに尋常じゃないほど威圧的な音を鳴らしながら、黒いミニバンが私達の真横に並びかけてきた。

 先輩が手信号で減速を促してくるので、私はブレーキをかけた。しかし相手のクルマはそれに合わせてくる。エンジンを吹かしながら車体をどんどんこちらに幅寄せしてきて、もう縁石にぶつかりそうで、私は怖くて声が出なかった。


「邪魔なんだよこのチャリカスが!」


 クルマの開いた窓から男の人の怒鳴り声が聞こえてくる。それに対し、先輩は一瞥したきり前を向いたままだ。そのうち、クルマはすごい加速で先へ行ってしまった。


「せ、先輩……」


「ごめん。今は少し離れてて」


 先輩が指差す先を見ると、さっきのクルマが信号待ちに引っ掛かって停まっている。先輩は躊躇いなくそのクルマ目掛けて進んでいく。私は少し車間を開けて、恐る恐る追いかける。

 先輩はクルマの横に付くなり声を上げた。


「邪魔ってのはどういう了見だ」


「チャリは歩道走ってろってんだよ! 轢き殺すぞ!」


「自転車は原則車道だ。そんなことも知らないでクルマのハンドル握るな。そもそもクラクションの乱用は道交法十二条一項六号違反で二万円以下の罰金だ。煽り運転と合わせて今から警察に電話するからそこを動くなよ」


「警察がてめえの言うことなんて聞くかよ!」


「証拠ならこれで撮ってるが」


 先輩はサドルの下を指差す。そこにはアクションカメラがあった。実は今日ずっと気になっていたものだ。


「ああ、後ろのクルマにもドラレコ付いてるな。あのクルマにも証言してもらおうか」


「おい、てめえ!」


 先輩は相手を無視してスマホを操作し耳に当てる。


「クソが、死ね!」


 信号が青になって前がいなくなったのをいいことに、相手のクルマは先輩を置いて去って行った。


「あの、大丈夫ですか?」


 後ろにいたクルマの運転手さんが心配そうに声をかけてくる。

 先輩が「すみません、大丈夫です。行ってください」と返事をすると、その運転手さんは片手を挙げてクルマを走らせていった。周りにクルマがいなくなり、私達だけが残される。


「先輩、警察呼んだんですか?」


「ん? ああ、これはフリだよ。まあこれ以上絡まれそうだったら本気で通報する気だったけど。でもああいう輩はそこを動くなって言えば動くから。それより一旦歩道に入ろうか」


 先輩に促され、私は原付のエンジンを切って歩道に上がる。

 私がヘルメットを脱いだところで、先輩は私に向かって頭を下げた。


「ごめん。俺のせいで怖い思いをさせた」


「い、いえ! 大事に至らなかったので大丈夫ですから!」


「俺だって怖かったんだから、慣れてない花音さんにはキツかっただろ」


「先輩も怖かったんですか?」


「ああ、普段だったら絶対関わらないように無視してやり過ごしてた」


「なのに、今回は対抗したんですか」


「まあ、あそこで何もしなかったら、君にモヤモヤを残したままになっちゃうだろ?」


 つまり、先輩は先ほどの理不尽を消化不良のままにすることを避けるために一矢報いてくれたのだ。先輩に守られたという事実にときめいてしまう。


「その通りですね。先輩、本当にありがとうございます。ああいう理不尽なことってよくあるんですか?」


「レアケースではあるけど、それでも年に二、三回はあるんだよ。模範的に走ってても怒鳴り散らしてくる頭おかしいやつ。だからこういうのを付けて自己防衛したり」


「あ、そのカメラ気になってたんです。もしかしてずっと撮ってたんですか?」


「いや、これはガワだけのダミー。最近ジャンク品で買ったんだよ。本物欲しいけど高いから」


「あ、そうですか」


 もしかしたら撮られてるかもと思って緊張して走っていたのは無意味だったらしい。


「先輩って法規にも詳しいんですね」


「あー、あれ。まあ自転車関連限定だけど、これに限って言えば大半の警察官よりも詳しい自信あるよ。というかこれだけ走ってて法規知らないとか罪だから、ガチな愛好家はみんな詳しいよ」


「そうなんですか」


「それより調子はどう? この先進んでも大丈夫?」


「あ、はい。先輩のおかげで気にせず走れそうです」


「なら良かった。でもあのキ◯ガイとこの先でまた鉢合ったり待ち伏せされてたら敵わないから、しばらく脇道を進むね」


「わかりました」


 先輩に気遣われながら再び進み始める。やっぱりこの人といれば安心できると確信した。不安な気持ちはすぐに薄らいで、今は温泉のことを考えて気持ちを切り替えることにした。

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