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第73話 ラヴェル/ボレロ

~大洋view~


 温室内のマレーハウスで二人うつむく。近くにある人工の滝が鳴らす水音だけが鼓膜を揺らす。


「あの二人は俺達が怒り覚えている理由をわかったうえで理解を求めることを放棄しているんだと思う」


「確かに、そんな感じはします」


 俺達が大河の行動に反発する理由はごく普通なものだと思う。作品は世に出すことがなにより大切だ。非公開化はあいつにとってマイナスになるとしか思えないからだ。

 あいつは筆を折ってから承認欲求なんてクソくらえのスタンスになった。それについてはいいとしよう。しかし結局は再び筆を取った。あいつはそれを自己実現欲求のためと言った。それは矛盾を孕んだものだと気付いているのだろうか。

 自己実現欲求は人間の欲求の中の最上位だ。承認欲求はそのひとつ下の層に入る。SNSなどで悪しように言われがちな承認欲求だが、あれは承認が目的になり果てた者の末路であり、通常は承認というものは自己実現を成し得るための過程として必要なものだ。その承認を得ずして自己実現など、どのようにして成し遂げるのだろうか。

 九音君ならばわかるのだろうかと期待していたが、やはり彼女にもわからないことだった。

 そして、俺がこれをわからずにいることをあいつは承知しており、わからないならそれでいいとでもいうようなスタンスで居続けている。


 実に不愉快で、そして寂しいことだった。


「わからないままでいるだなんて納得がいかない」


「私もそう思います。でも花音は、知らないままでいたほうがいいこともあるのだと言っていました」


「知らないままでいたほうがいい、か……」


 大河が筆を折った経緯は本人から聞いているので知っている。しかしそこから何を悟ったのかは知らない。あれをきっかけに、あいつは闇の深淵で何を見たのだろうか。その悟りは希望にはならなかったのか。


「双子だからって気持ちがわかりあえるというのは思い上がりなのでしょうか」


 九音君が寂しげにつぶやく。

 双子という縁の結びつきは特別強い。同じ血が流れ、同じ環境で同じ時を歩んできた唯一無二の存在だ。ただの兄弟のみならず、例え夫婦でも、そして親子にも勝る強固な関係だ。

 しかしそれでも別々の人間であることに変わりはない。片割れであっても分身ではないからだ。双子だからってテレパシーで通じ合っているわけではないし、お互いのピンチに虫の知らせが届くなんてファンタジックなことは起こらない。


「いつも近くにいるのに、時々遠いんだよな。大河は」


「近くにいるのに遠い、ですか」


「敵わないなって思うときが、たまにあるんだよな」


「……わかる気がします。私も、花音が……」


 時々遠い。今までずっと隣を歩いていたはずなのに、いつの間にか置いて行かれている錯覚に陥るときがある。


「俺は工作が好きだ。ものづくりなら大河に負ける気がしない。それと同時にイラストでは絶対に勝てる気がしない。というか住む世界が違いすぎる」


 絵が描ける人は魔法使いだ。ペン一本で世界を自由自在に創造する。俺が同じ道具を使っても同じ真似は全然できない。もしかしたら見えているものが違うのではないかと疑うほどに。


「俺達が中学三年のときの話なんだけど、三学期の期末試験、つまり中学生活最後のテストでさ。ほとんどの生徒はもう進路も決まってて、内申点なんてよほどの汚点が付かなければテストも頑張る必要なんて無い、そんな中でのテストで俺もあいつもほとんど勉強せずにテストに臨んだんだけどさ、あいつはある一教科だけ入念に対策していたんだ。何の教科だと思う?」


「もしかして、美術ですか?」


「正解。あの美術のテストはボーナスみたいな感じでさ、解答用紙の枠内に鉛筆で絵を描くだけの内容だった。絵は三つのお題のうちひとつを選ぶ形式で、一つがリンゴの絵、二つ目は……忘れたが、三つ目は架空の動物だった。大河は最も自由度の高い架空の動物を選んで、四十五分の解答時間いっぱいまで使って描き切った」


「どんなのを描いたんですか?」


「上半身がチーターで、下半身がフォーミュラカーになった動物だ。あいつは『チーカー』なんてタイトル付けてたな。無機物と有機物の融合体だから、メカ少女的な作画技術を要したらしい」


「メカ少女ですか。あれは私も苦戦しますね。描き慣れていないので」


 メカを描くには美少女とは別系統のノウハウが必要らしい。


「その絵は当然のように満点だった。のみならず、全クラスで答案返却時に模範解答として提示されていた。そこにあったのは、あいつがテスト勉強として事前に描いていた習作よりも遠近感も躍動感もあり、余った時間で描き込んだであろう背景も合わさった大作だった。たったの四十五分でここまで筆を走らせることができるのかと疑うほどのクオリティーだった。泉美の時も作例として紹介されたそうだから、未だにあの学校に残っているかもしれん」


 あいつが筆を折る前の、貪欲なまでに絵を輩出し続けていた黄金時代だ。その頃の象徴的な出来事のひとつだった。


「さすがは〈那イル〉ですね」


「ああ、あれは脱帽だったよ」


「中学のテストなら、花音にも凄いエピソードがありますよ」


「それは気になるな。どんな話?」


「あれは抜き打ちで行われた音楽の小テストでした。オーディオから流れる音を聴いて、その音が何の楽器かを一問ずつ順番に答えるテストです」


「ああ、似たようなテスト受けたことあったような気がする」


「私は曲がりなりにも花音の傍らでクラシック曲と慣れ親しんでいましたから、絶対に満点を取ってやると意気込んで挑みました。そして無事満点を取りました。満点はクラスで数人だったと思います」


「やるね」


「家に帰ってから、別のクラスで同じテストを受けたはずの花音にテストの結果を聞いてみました。もちろん満点だったんだよねと」


 九音君で満点が取れるテストなら、花音君も満点だろうと思うのは確かに自然だ。


「花音は満点だったと答えました。それだけなら普通ですが、その後のセリフが衝撃的でした」


「と言うと?」


「最初の一問を聴いた直後に全部解答し終えたうえで満点だったそうです」


「……は?」


 問題が出題される前に解答を終える。そんなことどうやればできるのだ。


「そのカラクリは選曲にありました。問題に採用されていたのはラヴェルの『ボレロ』でした。ボレロは繰り返されるメロディーを様々な楽器が代わる代わる演奏していく曲。特に序盤は管楽器のソロが多いです。花音はこの小テストの説明を受けているときからボレロが使われるのではないかと疑い、最初にトップバッターのフルートから始まった瞬間に演奏順に出題されると目星をつけ、記憶にある演奏順から中学の小テストには相応しくないものだけ除いて順番通りに解答欄を埋めて早々に終わらせたそうです」


 なんだそれは。離れ業もいいところだろう。出題する側の視点に立ってテストに挑むのは反則じゃないか。


「私もこれは満点だったよってアピールしたかったのに、そんなこと言われちゃったら何も言えなくなりますよね。もう大笑いしちゃいましたよ」


 そう言う九音君は本当に可笑しそうに笑っている。同じ満点なのにこれほど圧倒的な差。そりゃもう笑い話にするしかない。


「結局、俺達は違う人間なんだよな」


「そうですね……」


「よし、なら諦めようか」


「えっ?」


 困惑する声。


「今は無理だ。追いかけても追いつけない。こんな状態で足掻いても自滅するだけだ。だったらもう一旦退くしかないわ」


「そんなあっさり」


「あっさりじゃないさ。俺だってずっと悩んでたんだ。でも君が同じように悩んでいるたことを知って、ああ、〈イクス〉ほどの凄いやつでもこうなるんだなって思うと、なんか諦めがついたって言うか」


「そんな、私なんて全然すごくないです」


「いいや、君はすごい。胸を張りなよ。大河だって君のことは認めてるんだ。あれだけ憎まれ口を言い合っても絵師としての君を批判することは無かったはずだ」


「……そういえば、先輩が私に対して否定的になるときっていつも私が先輩のやり方に口出しするときだったかも……」


「やっぱそうだろう? あいつが憎い相手でも認めるなんて相当だぞ」


「でもこのまま目を背けても停滞したままです。私達の問題はいつまで経っても解決しません」


「大丈夫だ。今は無理でもきっといつか追いつく。そのときにまた立ち向かおう」


「いつかって、いつですか」


「いつかだ。ずっと先かもしれないし、案外すぐその日が来るかもしれない」


「けど、待ってる間もどうしたって気にしてしまいます。そのせいで原稿に集中できていないんですから」


「だったらさ、もっと楽しいことを考えよう。コミケが終わったらまたこうして遊びに出かけようか。水族館に行ったり、冬のダイヤモンドを見にさ」


「…………」


 九音君が俺を見たまま固まってしまった。ちょっと勢いで言い過ぎただろうか。


「ああいや、その……別に俺とじゃなくて、学校の友達と行ったり、一人で気ままにでもいいからさ、なんつーか……」


「い、いえ! 行きましょう! 連れて行ってくれませんか。水族館にも、星見も」


「お、おう。お安い御用だ」


「ありがとうございます」


 九音君は立ち上がってマレーハウスから出る。俺もその後を追う。


「大丈夫そうか?」


「はい。今はこれで大丈夫かなって、私もそう思える気がしました」


「原稿、頑張ってな」


「はい! これから追い上げていきます! その前に、今はこの時間を楽しみます!」


 そう言うと、九音君は俺の手を引っ張って温室の中を進んで行った。おかげで俺も、どこか吹っ切れたような気持になった。

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