第72話 次男次女はアクアリウムへ
~大洋view~
衝撃波管を用いた非圧縮性流体の実習レポートを書きながら土曜日を過ごしていたら、九音君からメッセージを受け取った。どうやら相談したいことがあるらしい。
課題以外はとくに用事もなかったし、俺で力になれるのならと了承して、指定された時間まで少し待ってから外出した。
ノーブランドのクロスバイクに跨る。ロードバイクは朝早くから大河が乗って行ったのでここには無い。グーグルマップを見るに埼玉の方を走っているようだが、目的地は知らない。
最近大河とはあまり話をしていない。向こうが壁を作っているわけではなく、俺の方に問題がある。口を開けば非公開にされたイラストのことを触れずに済ませられない気がするのだ。俺はどうにかしてこの問題に折り合いを付けなければならなかった。
九音君が指定した場所は家から二キロもないところにあり、すぐに到着した。待ち合わせの時間までまだしばらくあるし、九音君はまだ来ていないようだ。
適当にスマホを眺めながら待っていると、ものの数分で九音君がママチャリを漕いで現れた。
「お待たせしました。急に呼び出したのに待たせちゃってすみません」
「俺も着いた直後だから平気だよ」
急いで来たのか、彼女は少し呼吸が乱れた様子だった。そんなに慌てて来なくても大丈夫なのに。
彼女の装いは黒い厚手のタイツの上にベージュのショートパンツを穿き、その腰部には可愛らしい装飾のベルトがゆるく巻かれている。トップスは紺色のゆったりとしたセーターで、とても暖かそうだ。
「さすがイラストレーターだな。良いファッションセンスだと思う」
「えっ! あ、そ、そうですか! ありがとうございます……」
もじもじしながら手袋を外している。黒い手袋に隠されていた手の肌色がやけに眩しく見えた。
「じゃあちょっと早いけど入ろうか」
「はい」
俺達の目の前には大きな建物がある。
『区立熱帯環境植物館』
九音君がここに行きたいと指定した施設だ。ガラス張りの温室の奥に青々とした植物が見える。
エントランスに入ると館内は暖かかった。隣接したゴミ処理場の排熱を利用して温度管理がなされているという。近くにある温水プールも同様だ。
「久しぶりに来たな。たぶん小学校の校外学習以来かも。九音君はよく来るの?」
「ええ。近所だし、いい気分転換になるのでわりと頻繁に。入館料も安いですし」
受付近くの券売機で入場券を購入する。大人で二百六十円。そこら辺の喫茶店のコーヒーより安い破格のプライスだ。ちなみに九音君は年パス持参だった。
熱帯植物館なのに、入ってすぐ俺達を待ち受けるのはカラフルな魚が泳ぐ水槽だ。ミニ水族館と呼ばれるこの植物館のウリのひとつだ。ワンフロアだけだが大小合わせて十かそこらの水槽があり、クマノミやチンアナゴ、クラゲにハリセンボンにナポレオンフィッシュ、更にはテッポウウオやグラスキャットフィッシュなど人気の魚類をしっかり網羅していおり見ごたえ充分だ。
「あれ、なんか以前はここにカラフルなウミヘビっぽいのがいた気がするんだけど、見つからないな」
「ハナヒゲウツボですね。ずいぶん前に引っ越ししちゃったんですよ」
「そうか……チンアナゴよりずっと好きだったんだけど」
「あ、それは同感です」
「だよな」
意外なところで意見が合った。
「私、水族館好きなんです。花とかも好きですけど、どちらかというとこっちの方が目当てって感じで」
「そうなんだ」
「小さい頃はキャラクターよりもお魚の絵の方がよく描いてたぐらいです」
「おお、実は魚博士だったみたいな」
「さすがにそんなんじゃないですって」
「この中で推しの魚は?」
「私の推しはですね、この先に居ます。行きましょう」
そういえばもう一つ水槽があったな。
先へ進む彼女の後を追うと、水族館のフロアを抜けて温室へ出た。フロアはガラスから陽の光が注ぎ、とても明るく広い。そして目の前には、正面だけがアクリルの壁でできた池といった感じの水槽がある。この水槽にはアロワナをはじめとする大型の淡水魚が泳いでいるのだが……。
「でっか……こんなやついたっけ?」
「昔よりだいぶ大きくなりましたからね」
「いや、デカすぎだろこいつ……」
その水槽には圧倒的な存在感を放つ巨大なエイがいた。かなり広く大きい水槽のはずなのに小さく狭く感じるほどの巨体。アロワナですら小魚のように見える。
「ヒマンチュラ・チャオプラヤ。淡水エイとして世界最大、そして淡水魚としても最大種のプラヤちゃんです。私の推し」
プラヤちゃんというのはこの個体の愛称らしい。
「世界最大の淡水魚ってピラルクーじゃなかったっけ」
「ピラルクーも大きいですけど、ほぼ同率一位で個体差の勝負という感じで、ピラルクーとメコンオオナマズとヒマンチュラ・チャオプラヤなどをひっくるめて最大種って扱われています。でもギネス記録の個体を輩出したのはヒマンチュラ・チャオプラヤですよ」
「まあ、こんなのを見せられたら信じてしまうな……」
デカいとしか言いようがない。他の水族館でピラルクーを見たことはあるが、それ以上のインパクトだ。水槽横に書いてある説明によると、プラヤちゃんの今の全長は二・七メートルだそうだ。やばいぐらいデカい。
「去年までは日本で唯一ここだけの展示でした。去年から岐阜県の淡水魚特化の水族館にも仲間入りしたそうですが、そっちのはまだ若くて大した大きさじゃありません。この大迫力の姿を見せてくれるのはプラヤちゃんだけなんですよね~」
九音君はそこはかとなくうっとりした声で言う。彼女のちょっと意外な一面が見れた。
それにしてもなぜそんな貴重な個体が名だたる水族館じゃなくて区立の熱帯植物館のミニ水族館にいるのだろうか。変な施設だ。
「ここから先は熱帯植物です。行きましょうか」
「もういいの?」
「はい。プラヤちゃんとはいつでも会えますから」
年パスをひらひらさせて言う。
「じゃあ案内もお願いしようかな」
「お任せください」
九音君先導で順路を進む。順路は緩いスロープを登るように続いていて、道の脇には様々な植物が植えられている。幼少期はただの植物だとスルーしていたが、今になって見てみるといろいろと興味深い。
ソテツ、バニラ、ココヤシ、アセロラ、カカオ、ゴムノキ、白檀、バナナ、ラン、各種食虫植物……。二人でゆっくり鑑賞して会話を楽しみながら歩く。
「あの東屋みたいなところでちょっと休みましょうか」
「そうだな。ひと休みしよう」
彼女が指差す先にはログハウスのような簡素な建物があった。近くで見るとマレーハウスと案内されている。東南アジア風のしつらえのようだ。
中に入って木製のベンチに腰掛ける。広い館内を高い位置から見渡せて、良い景観だった。
「相談の件なんですけど……」
「ああ、うん」
「大河先輩が絵を非公開にした日からずっと、私は花音と喧嘩してるんです。上辺だけは取り繕ってるけど、お互い最低限の会話しかしてません」
「喧嘩の原因は?」
「私は花音にあのままでいいのかって訴えたんです。でも花音は全く気にした様子がありませんでした。私は先輩のしたことが許せないのに、花音は悟りきったような態度で……先輩のことも花音のことも全然わかんなくて、ムカついて、それで……」
「そうか……」
大河がやらかしたあの出来事は、俺達だけでなく彼女らの関係にまで悪影響を及ぼしていた。申し訳なく思う。
「大洋さんは先輩が非公開にしたこと、どう思っていますか?」
「あれは俺も納得してない。公開し直すよう要求したら〈那イル〉のアカウントを人質に取られた。それっきり、俺らの方もあまりコミュニケーションが取れてない」
「そうですか……」
「絵師には絵師なりの考えがあるのかと思ったけど、九音君ですらわからないならアイツ自身の問題か……」
「大洋さんにも先輩の考え、わからないですか」
「わかっていたら、こんなことにはならなかったな」
「でも花音ならわかるんです。あの二人はどこか似ている……」
「あの二人か……」
俺自身は花音君とはあまり交流がない。それでも九音君が言わんとしていることはなんとなく理解できる。どこか超然としており、しかし隠者のような雰囲気が共通しているのだ。
「私達は双子なのに」
俺達は双子なのに。
「私は姉の気持ちが」
俺は兄の気持ちが。
「……わからない」




