第71話 シューマン/子供の情景『トロイメライ』
〜九音view〜
ピアノの優しい音が聞こえる。
『トロイメライ』だ。シューマンの『子供の情景』の中の一部である。子供の情景はドビュッシーの『子供の領分』と同じように、童心に還った大人のためとして作曲されたピアノ曲だ。
トロイメライを聴いて、人はこの曲にどんな印象を抱くだろうか。
子守唄だろうか。あるいは幻想世界を切り取ってきたかのような、ファンタジックな印象だろうか。それともしっとり沁み入る曲だろうか。
私の答えは"朝"だ。
幼い頃の花音は、休日の朝に決まってこれを弾いていた。休日になると寝坊しがちな私の横でこれを弾き、まどろみの中の私は、その優しい旋律でゆっくりと目を覚ます。私はそんな日常が大好きだった。
カーテンの隙間から、土曜日のおだやかな朝の日差しがこぼれ落ちている。その暖かな光がベッドに横たわる私の顔に降りかかって、夢の世界から覚醒した。
「花音……」
私の傍らにはトロイメライを演奏する花音がいて――。
……いや、誰もいない。花音はおらず、耳に届く音は朝の喧騒だけで、ピアノの音は皆無だった。
聞こえたと思っていたトロイメライは夢だった。そりゃそうだ。ここ数年は朝のピアノで起こされるなんてあんまり無いし、最近は喧嘩してしまったせいでなおさらだ。そもそも今は寝室とは別の部屋にピアノを移している。この夢は、それこそ子供の頃の情景だった。
空腹を感じ、二段ベッドから這い出て、朝食を求めてリビングへと向かった。
「あら、おはよう」
食卓にはお母さんがいた。私を見るなり、私の分の食パンをトースターに入れてくれる。
「おはよ。花音は?」
「花音なら朝早くから出掛けたけど、知らなかったの?」
「知らなかった……」
少しショックだった。今までは花音の動静ぐらいこちらが聞かなくても教えてくれたのに、今回は何も無かった。
「なんか原付で遠くまで行ってくるって。帰りは遅くなるみたいよ」
「そう……」
チーンと軽快な音を立ててトーストの焼き上がりが告げられる。私はそれを皿に取り、いつもより鈍い手つきでバターを塗る。
(一人で集中して原稿できるのは良いけど……)
もう十二月。冬コミまで残り一ヶ月を切った。同人誌の原稿は佳境だ。
正直、進捗は予定より遅れている。早割は受けられそうだけど、夏のときよりはしょっぱい割引率のところに入りそうだった。原因はわかってる。
「ねえ九音、まだ花音と気まずいの?」
「いや……うん……」
お母さんに心配されてしまった。
あれからずっとなのだ。表面上はいつも通りにしていたつもりだったが、両親が気付かないはずがなかった。
「ここまで長引くなんて珍しいけど、何があったの?」
「……ちょっとね」
ついはぐらかしてしまう。ちょっとどころではないのだが、ここで説明するには込み入りすぎた事情だった。
「深くは聞かないけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「そう」
私の根拠のない「大丈夫」という言葉を、お母さんはあっさりと信じてくれた。
そのことに私は動揺してしまい、何も言えずにトーストを食べ続けて誤魔化すことしかできなかった。
「九音」
「ん?」
そそくさと朝食を完食してリビングを出て行こうとする私の背中を、お母さんの声が引き留めた。
「お母さんでもお父さんでも、必要なら頼ってね」
「…………ん」
生返事を残してそのまま退室する。
ありがとうお母さん。今はその言葉だけで充分だよ。
その後自室に籠ってパソコンを立ち上げる。昨日のうちに決めていた今日のノルマを思い出しながら原稿のデータを展開する。今日はペン入れ済みのページをできるだけ塗り進めたい。休日なんだからできれば八ページ、最低でも四ページは終わらせる。
ベタ・トーンではなく私はグレースケールで描いているので、カラーと似た要領でモノクロの色を落とし込んでいく。このキャラの髪は数えきれないほど塗ってきたから手癖で描ける。このキャラは今回初めて描くわね。こんな感じかしら。服は……あ、しまった。服の柄や色は何も考えていなかった。えっと、どうしよう……。花音にファッションの相談でもしようかしら。
って、花音は今はいないんだった。花音はどこへ行ったのだろう。休日に何も言わずに出て行くなんて、やっぱり避けられてるのだろうか……。
手が止まったままなことに気づいた。服のデザインを考えようにも、雑念が邪魔をする。全く捗らない。
集中力が散漫になっている。トロイメライの幻聴のせいだろうか。それもこれも母の目にはお見通しか。
「だめだ」
私は白旗を揚げてタブペンを放り投げる。今はメンタルを快復させないと効率が悪すぎる。
お母さんの言葉通り頼ったほうがいいのだろうか。しかし今回のことは事情が事情だ。事の発端が先輩なのだから、〈那イル〉のことや私達との関係を話す必要がある。〈那イル〉の件は先輩から他言無用と言われているセンシティブなものなので、親に話すのも気が引けてしまう。
〈那イル〉の件は複雑すぎて、詳細をぼかして相談しようにも正確に伝えられないのだ。それは先週痛感したばかりだ。
先週何があったかと言うと、私は花音とのことをどうにかできないか〈有栖ルナ〉の中の人こと幼馴染みのありすに相談を持ち掛けたのだ。そのときのやりとりがこうだ。
**
「きゅーちゃん久しぶり! なんかちょっと綺麗になった?」
「久しぶり。お世辞はよしてよ。以前にも増して不健康な生活してるから、肌とか荒れ気味よ。そっちは随分イメチェンしたわね」
事前に約束して、近所のファミレスでありすと落ち合った。メッセージのやりとりはちょくちょくしていたが、思えば中学卒業以来顔を合わせていなかった。かたや売れっ子Vライバー、かたや有名イラストレーター。お互い多忙なので無理もない。
久ぶりに会ったありすは、明るい茶髪になっていた。彼女のイメージとマッチしていて、よく似合ってると思う。
「いいでしょこの色。パパはいい顔しなかったけどね。無視してる。きゅーちゃんは染めたりしないの? そっちの学校そういうの緩いんでしょ」
「んー。私はそういう気持ちはキャラの髪描いて発散してるからなぁ」
「おお。さすがはイラストレーター」
「そっちだってルナちゃん使って遊んだっていいじゃない。今度新しい髪形描いてあげよっか?」
「えっマジ!? いいの!?」
「冬コミ終わって手が空いたらいいわよ」
「ありがとう! ほんとありがとう! ああいや、そんなことよりなんか相談があるんでしょ。本題の話をしよう」
「うん。実は花音と喧嘩して……」
「ありゃ。はなちゃんと喧嘩だなんて珍しい。いつから?」
「十月末からずっと……」
「一ヶ月も!? あー。そりゃあ私にまで相談が来るわけだ。最長記録じゃない?」
「知らないけど……でもたぶん相当長引いてる」
「何があったの?」
「ちょっと言えないことがあって伝えづらいんだけど……例えばさ、私が今すぐ公開中のイラスト全部消したら、ありすはどう思う?」
「え!? どうしたのきゅーちゃん!? イラスト辞めちゃうの?」
「例えだから例え! 私はそんなつもり全くないから!」
「よかった……」
「……やっぱり嫌?」
「もちろんだよ。だって私は〈イクス〉のファン一号だよ。しかも母子だよ! そんなことになったらリアルで泣くよ」
「公開せずとも裏でこっそり描き続けてるとしても?」
「それは……うん、それもやっぱり嫌かな。だって、きゅーちゃんの絵は輝いてるから」
「輝いてる?」
「輝いてるよ。きらきら光ってる。もしそれがクローゼットの奥にしまわれていても、私はこじ開けてでも取りに行く。隠しておけるようなものじゃないから。私じゃなくても、きっと誰かが放っておかないよ。少しでも漏れ出る光を皆が求めているから」
「それが地獄の底でも?」
「行くよ。例え黄泉で醜く歪んでいても、少なくとも私は逃げずに掴み取る」
イザナギよりも強固な覚悟が彼女にはあった。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい。でも花音はそう思わないみたい」
「はなちゃんが……。えっと、今までのは例え話なんだよね? はなちゃんがきゅーちゃんの絵をどうこう言った訳じゃないんだよね?」
「うん。私のじゃなくて、別の人のこと。でも花音があれに対して抱いてる想いは、たぶんありすが私の絵に向けるものと同質のはずだと思う」
「けどはなちゃんは私とは違う態度をとった……うーん、わかんない……。ねえ、例え話じゃなくて具体的に教えてくれない? そうじゃないと考えようがないよ」
「……ごめん。本人から口止めされててそれは無理」
「そっかぁ。ごめん、ちょっと今回は力になれそうにないかも」
「こっちこそ無理な相談でごめんね。気に病まないで」
しょぼんと肩を落としてしまった彼女に私は申し訳なさを覚えた。
「結局事情はわからなかったけど、とにかくはなちゃんともっと話をするべきなんじゃない?」
「それはわかってはいるけど……その話は今後一切ナシって拒絶されちゃってて……」
「うわ。それは何と言うか……頑張って?」
「うん……頑張る……」
**
結局その日は解決策を見出せず、お互いの近況報告や雑談をして解散となった。〈那イル〉の事情を話せないのではまともに相談できるはずがなかった。
……少し出掛けよう。
このまま家でうだうだしてても仕方ない。気分転換が必要だった。久しぶりにあそこへ行ってみようか。
とはいえ、ひとり外出したところで何か解決するとも思えなかった。八方塞がりだ。
外行きの服に着替えたりと、とりあえず外出の準備をしていたとき、ふとひとりの男性の顔が思い浮かんだ。
そうだ、彼ならば〈那イル〉のことも伏せる必要なく、花音との関係もイチから説明せずに相談ができる。そう思った直後、すぐに私はメッセージを飛ばしていた。
『大洋さん、いまから時間ありますか? 少し出掛けませんか?』
メッセージを投げてから気付いたが、都合も考えず急にこんなことを誘って失礼ではないだろうか。
軽い自己嫌悪に陥りそうになったが、返事はすぐに返ってきた。
『いいよ。どこに行きたい?』
二つ返事でオーケーだった。感謝の言葉マシマシにしつつ、目的地と集合時間を擦り合わせる。
それから私は一度着た服を別の服に着替え直し、入念に身なりを確認してから外へ飛び出して行った。




