第70話 ドビュッシー/子供の領分『ゴリウォーグのケークウォーク』
~泉美view~
今週に入ってから、大河兄は昼休みにうちのクラスへおべんとを食べに来なくなった。今日は木曜日なので、これで四日目である。
原稿を描くからというのがその理由で、花音も予め承知していたらしく気にした様子はない。大河兄は十一月の頭にあったコミケ当落で当選を確認してすぐ、サークル参加辞退の手続きをしていた。なので何もすることがないのかと思いきや、鬼気迫る様子で原稿を描いている。あたしには大河兄のしていることがさっぱり理解できなかった。
一方で花音は大河兄の行動原理を全部知っているようだった。実の妹のあたしにもわからないことでも、彼女なら理解できるのだ。本当にこの子には敵わない。早く結婚してしまえ。いや、その前にまず付き合え。
今日もお昼は花音と二人で食べた。大河兄が来ないので浦野君はいつもの男子メンバーと食べている。大河兄と浦野君がいなくなって久しぶりに二人で食べると、ちょっと寂しく思えてしまう。今更になって気づいたけど、あたしはこの四人でおべんとを食べる時間が気に入っていたらしい。
あたしが食後にお手洗いへ行き、戻って来たときだった。
「ねえ、今日もお兄さん来ないの?」
あたしに話しかけてきたのはクラスメイトの女子。普段あまり絡みは無いが、挨拶ぐらいは普通にするし悪印象も特にない感じの子。
「兄貴はたぶんしばらく来ないよ。なんか忙しいらしい」
「そっかー。それは残念」
「残念って……え、まさかそういう?」
「違う違う! 私じゃないよ~」
「って言うと、あー……」
「そう。みっちゃんがね、ちょっと寂しそうにするんだよ。お兄さんが来てくれたらみっちゃん嬉しいだろうし、私も弄りがいがあるのになー」
みっちゃんというのは彼女の友達で、大河兄にホの字らしい。あの木犀祭で目立ちすぎたのと、浦野君と仲良くしている様子が見られるうちのクラスでは大河兄の評価がポジティブだ。いや、ポジティブすぎたようだ。大河兄に気がある生徒は、あたしの知る限り件のみっちゃんさんに加えてもう一人いる。知らないところで他にもいるならなお困る。あたしが蒔いた種とはいえ、こんなことになるとは思いもよらなかった。
彼女達にとっては残念なことだが、大河兄はおそらく花音にホの字だし、花音のほうも知っての通りだ。この二人に割って入る隙がない以上その恋は叶わないだろうが、しかしこの二人がまだ付き合っていないというのが厄介である。そのせいであたしは彼女らを大河兄から遠ざけなければならない。
「うちの兄貴はやめたほうがいいよ。プリキュレオタクだし、自転車バカだし」
「でもお兄さんフリーなんでしょ?」
「フリーだけど、そろそろフリーじゃなくなるっていうか……」
「え!? 何!? お兄さん誰かといい感じなの? やっぱり三年生?」
「いやー。それはあたしからは言えないかなー……」
この問題の最も面倒なことは、大河兄も花音も自分の気持ちを他言無用にしているところだ。この真相を言って聞かせられれば楽なのだけれど、それができない。もしうっかり口を滑らせてしまえば、女子高生の誇る高速ネットワークによってすぐに本人の耳に入ってしまい、あの二人の恋を台無しにしてしまうだろう。
……ああー! 親友と兄の恋愛サポートとかクソめんどくせー!!
「うーん……。こりゃあみっちゃんも大変だ。ま、野次馬の私は引き下がるよ。頑張るのはみっちゃんだし。引き留めちゃってごめんね!」
「はいはーい」
ひらひら手を振って別れる。まったく世話が焼けるわ。
教室に戻ると、自席でリラックスしている花音が目に入る。クレームでもぶつけたいが、八つ当たりみたいになるからやめとくとして、代わりに弄ってやりたくなったので近づく。
近くで見ると、花音は机を鍵盤代わりにエアピアノをしていた。
「花音なにやってんの? 練習?」
「ん? ああこれ、練習じゃなくて手が勝手に」
花音の耳にはイヤホンが掛かっている。どうやら音楽に合わせて無意識に動いていたらしい。さすがは花音……。
「なに聴いてたの?」
「ゴリウォーグのケークウォーク」
「ゴリ……何?」
「ドビュッシーの子供の領分……って言っても泉美じゃわかんないか。先輩ならわかると思うんだけど」
イヤホンを片方差し出してくるので受け取って聴いてみる。
「これは……聴いたことあるような……無いような……?」
「知らなそうだね」
ごめん。
イヤホンから流れてくる曲は軽快なピアノ曲だった。確かにこれは聴いているうちに気分が乗ってしまいそうだ。こんな陽気な音楽を聴いているということは、大河兄が来なくても花音の機嫌は快調のようだ。
大河兄が来ないと関係は進まないぞ。それでいいのかい花音さんよぉ。
木犀祭前に花音の気持ちは聞けたものの、彼女はアプローチを積極的にする気が無いらしい。噂話に疎いようで、女子の間で大河兄の人気が高まっていることに気付いていないらしくライバル不在だと思い込んでいて、現状にあぐらをかいているっぽいのだ。手出しするつもりは無かったが、そろそろこのことを教えてやって危機感を煽るべきだろうか。
なんだろう、無性にいじめたくなってきた。ちょっとつついてやろうか。
「そういえばちょっと大胆だったね。パジャマ姿の自撮りをあげるなんて」
「なっなっなっ、なんで泉美それ知ってるの!? もしかして先輩言っちゃったの!?」
「ううん。ちょっと兄貴のスマホ盗み見て」
「泉美、それプライバシーの侵害だよ」
「うぇっへへ。ついね」
「ついねじゃないよ! ちゃんと謝りなよ」
「いやー。すぐバレてめっちゃ怒られた」
「そりゃそうだよ。というか私にも謝って」
「えー。不可抗力だよー」
「そんなはずないでしょ。絶対私のことを探ろうとしてして見たくせに」
弄ってやろうと仕掛けたら、カウンターが飛んできた。藪蛇だったのは自業自得だが、やられてばかりではいられない。
「ごめんごめん。でもさぁ、そんなに兄貴の写真が欲しかったんならあたしが協力したのにぃ」
「なぁっ……!」
顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせている。してやったり。てか可愛い。
「それぐらいお見通しだよ。ほんと花音はかわいいなあ」
「泉美いぃ……!」
「今度撮ってくるよ兄貴の写真。いる?」
「…………………いる」
「うむうむ。お任せあれ」
明らかに不服そうだけど欲望には抗えなかったようで、結局陥落した。
「それはそうとさ、花音はいいの? このままで」
「なんの話?」
「何って兄貴のことだよ。なんであんな根詰めて原稿やってるのか知らないけど、お昼の時間を削ってまでやるのは良くないんじゃないの。主に花音にとって」
「どうして? 別に良いんじゃないの?」
これだからこの子は……。
「あのね花音。兄貴がこの学校にいられる時間はもう残り少ないんだよ。もう人生でこれっきりの貴重〜〜な時間をみすみす手放しちゃってていいのかって言ってんのよあたしゃあ」
「そ、それは……」
「あとね、あの様子は割と煮詰まってるよ」
「制作、難航してるの? ちょっと意外……」
「追い込みすぎて視野が狭くなってるんじゃないかな。確かに兄貴が苦戦するのは珍しいけど、たぶん今回は事情があるんじゃないかなー」
「事情?」
その原因であろう本人は首を傾げている。大河兄がこんなタイミングで原稿が煮詰まる理由なんてひとつしか思い当たらない。間違いなく恋患いの亜種的なやつだろう。
「花音、助けてやってよ」
「私が? 無理だよ。原稿なんか描いたこと無いもん」
「そういうアシストじゃなくって。なんか気晴らしに誘ってやってよって言ってんの。週末デート行ってこい」
「デっ!? ……いや、なんでそれが助けることになるの!?」
「息抜きだよ息抜き。ああいうのはね、多少強引にでも連れ出してやんの」
「でも先輩、今は忙しいのにその時間を奪っちゃうなんて……」
「またツーリング行ってくればいいじゃん。サイクリングならどんなに忙しくても最低週一回は必ず走るから、絶対断られないし時間を奪うことにはならないって」
「でもそれなら先輩一人でも勝手に走るってことだし、一人なら気を使わないで気晴らしになるんじゃ……」
くっ……! そうかもだけど、そうじゃねえんだよぉ……!
「い、い、か、ら! 一人じゃできないカウンセリングでもすればいいじゃん! ついでにドキがムネムネしてくりゃいいじゃん! ……って痛ったあ!?」
こいつ照れ隠しに足踏んできやがった!? この恩知らずがぁ!
「ごめん。ちょっとムカついて」
「花音ってさあ! たまに容赦ないよね!?」
「それはどうも」
「褒めてねえから!?」
「まあでも……」
「でも?」
「ありがとう。週末、先輩誘ってみる」
ぼそりと小さな声をつぶやいたその口を見やると、その隣のほっぺたが林檎みたいに紅く熟れている。デレ花音だ。きゃー、かわゆい。
ようやく攻める気になった親友に、私が贈ってやれる言葉はこれだけだ。
「グッドラック」




