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第66話 ベートーヴェン/ピアノソナタ第八番『悲壮』

〜九音view〜


 いつもよりちょっと遅くにヴァイオリンの練習から戻った花音は、そこはかとなく機嫌が良さそうに感じた。

 放課後に先輩からあんな話を聞かされて、花音は何も思うところはないのだろうか。

 私でさえ怒りを覚えたのだ。永続的なイラスト非公開の宣言を受けて、花音が気にしないはずがない。しかし現実はこれだ。

 思い留めようと説得する私を止め、不満の一つも言わず、家でもいつもと変わらない振る舞いをしている。


 先輩の語った〈那イル〉の話はショックだった。

 AIアートは私がデジタル絵を描き始めた頃から出現した、社会的インパクトの大きなものだった。

 私にとってはデビュー時期と同時だったこともあって、それこそ宿敵のような存在だった。

 

 私達の絵は将来AIに食い尽くされてしまうのか。私はそうは思わない。

 かつて、写真機の出現は美術界に激震をもたらし、写実主義の画法や肖像画という文化をほぼ駆逐した。この場合、写真は悪なのか。いや、写真を撮るにも人間の技術が要る。

 大洋さんのように機械に対する知識を備え、シャッターチャンスを求めて所望のロケーションへ足を運び、狙ったシチュエーションが訪れるまで根気強く待ち、画角の中にセンス良く被写体を捉える。そのプロセスは尊重するべきものであり、現像された写真には間違いなく血が通っている。だからフォトグラファーという地位が確立され、異議はあるだろうが写真は芸術としての価値を認められているのだ。


 対して、AIアートはどうか。AIとはいえ、その絵は誰かが命令をして取捨選択をして得られたものである。これは人の意志やセンスが介在しているのでは。

 いや、それは否だ。AIアートを出力している人はその人自身の魂をイラストに込めることができていない。彼ら彼女らがやっていることは、機械に仕様を発注して、アウトプットを捌いているだけにすぎない。やっていることは漫画の編集デスクだ。編集には編集なりの苦労があるのだろうが、編集者が作者を名乗るのは道理が通らない。


 AIアートの源泉は教師データとなるイラスト達だ。この教師データの取り扱いは現時点で著作権的にブラックなものばかりであり、これが問題視されている。

 私達人間が習作として模写することと、AIが教師データとしてイラストを取り込むこと。これは同義なのではないかと議論されることもある。でもそんなことはない。

 習作としての模写は、言わば写経だ。師が弟子に、親が子に技を教え伝える行為の一種だ。それは血となり肉となる。スキャナーでコピーしたお経とは比較にならない。電子情報とコピー用紙は血にも肉にもならないからだ。


 いかに技術が進歩しても、私達が手で創り出すイラストは生き残り続けるという確信が私にはある。

 アイドルがライブで口パクだと不満を覚える人がいるように、自家製の料理に付加価値がつくように、人は人を感じるものを求めてやまない。


 だから私は戦う。真正面から迎え撃ち、AIアートなんかに負けない絵を描き続けるのだ。

 先輩もきっと同じだと思っていたのに、違った。先輩は逃げ出していた。それが私にはどうしても許せなかった。

 〈イクス〉にファンがいるように〈那イル〉にだってファンがいる。もちろん〈美青ドナ〉にだって。その人達の期待に応え、ファンと共にイラストを高め合う。誰にでもできることじゃない。けど私達絵師ならできるのだ。その特権を放棄するなんて裏切りだ。


 ――たとえ〈那イル〉と〈美青ドナ〉が死んでも、先輩が生きてる。ならシオンは死んでない。何も問題ないよ。


 花音はそう言った。

 本当にそれで問題ないと言えるのか。〈那イル〉も〈美青ドナ〉も死んでしまっては、先輩もシオンも生ける屍だ。絵というものは誰かに見てもらわなければ価値がない。今後一切公開しないというのはそういうことだ。


「……やっぱりそれはダメよ。花音」


 もう一度花音と話そう。花音が考えを改めれば、先輩も思い直すかもしれない。


 夕食後、花音はピアノを弾いていた。

 電子ピアノにヘッドホンを接続し、音楽の世界に浸っている。何の曲を弾いているのだろうか。

 私は彼女の横まで近付き話しかける。


「花音、話があるんだけど」


 声をかけたが、反応はない。肩を揺するとようやくこちらに気がついた。


「なに?」


「話があるんだけど」


「弾きながらでいい?」


「うん」


 ピアノのイヤホンジャックからヘッドホンを外す。

 仕切り直されて流れ始めた音楽は、ベートーヴェンの『悲壮』だった。


「やっぱり花音も悲しかったの?」


「なにが?」


「先輩のこと」


「ううん、全く」


 言葉にも演奏にも乱れはない。


「なんで『悲壮』を?」


「この曲ってさ、どうして悲壮って名付けられたのか謎なんだって」


「うん?」


「ベートーヴェン自身が与えたのかも定かではないし、ネガティブな意味で名付けられたのでははないと解釈する人もいる。九音はどっちだと思う?」


「どっち、か……」


 演奏に耳を傾ける。

 短調の曲には明るさや華やかさはない。悲しい曲だと言われれば哀愁を感じるけれど、そうではないと言われればしっとりとした喜びのようにも感じられる。不思議な曲だ。


「どっちにも感じる。花音はどうなの?」


「私もどっちも。でも今はポジティブな方かな」


 心なしかダンスを踊るような軽やかな演奏に変わる。それは彼女の気持ちを雄弁に語っているようだった。


「……花音はあれで本当に良かったって思うの?」


「先輩のことなら、さっき答えた通りだよ」


「わからない……」


「やっぱりわからないんだね、九音は」


 見透かされてる。私はわからないのに、わからないことを見透かされている。

 すごく、面白くない。


「わからなくて悪かったわね」


「悪くないよ。むしろ良いことなんじゃない」


「良いこと? わからないことが良いことなんてありえない!」


 無知は罪だ。知らないものを知らないままにするのは、私は嫌だ。


「良いことだよ。知ったらもう取り返しのつかないことだってあるんだよ」


「それでもいい。私は知らない幸せより知る不幸を取るわ」


「……そういうことを言えるからこそ、九音がそれを理解できる日は来ないんだよ」


「意味わかんない! さっきからはぐらかしてばっかりで! なんで先輩はあっさり絵を非公開にしたの!? なんで花音はそれを受け入れちゃうの!? そんなの死んだも同然でしょ!」


「死んでない」


「死んでるわよ!」


「だったら先輩は最初から死んでたんだね」


「なっ……!」


 なんてことを言うのだ。先輩に対して花音がそんなことを言うなんて。


「私は別に先輩が生きているとか死んでいるとか、そんな比喩はどうでもいい。大事なのは先輩が変わってないってことだけだから」


「変わってるじゃない! もうコミケにも出なくなる! 先輩の絵を知る人はもう現れなくなる! 何が変わらないって言うの!?」


「本質だよ」


「先輩の本質は神絵師よ。それが変わってしまったのよ」


「ううん。神絵師じゃないよ」


「あれが神絵師じゃないなら何だって言うの!? あれで神絵師じゃなければ私はなんなの!?」


「先輩は先輩だし、九音は九音だよ」


「わかんない! それは答えになってない!」


「くどい!」


『――――!!』


 花音が鍵盤に勢いよく拳を叩きつけ、部屋中に不協和音が響き渡った。


「…………」


「…………」


 不協和音の残響と、気まずい空気が室内を漂う。


「平行線だね。この話は今後一切無しにするよ」


「ねえ花音」


「出ていって」


「ねえ」


 花音は私を無視して『悲壮』の演奏を再開した。もう何を言っても無駄なようだった。

 私にはその悲壮が、その言葉のままの意味のように悲しく聴こえた。


 私と花音は、久しぶりに喧嘩をした。

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