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第65話 君のため、貴方のため

〜大河view〜


 黄昏も終わり、夜へ夜へと移ろいゆく空の下、俺は彼女の憂いを帯びた声に耳を傾ける。


「私はただ毎日毎日無味乾燥な演奏を繰り返す永劫回帰に囚われているのかもしれない。一時期はそう考えることもありました」


「すると、花音さんは超人を目指したの?」


「いいえ。私は超人にはなれませんでした。どうしても、私は私の音楽にある程度の価値を感じていましたから。主観的評価だけなら、自信があったんです」


 生意気かもしれませんがと、彼女は自嘲的に言う。

 しかしそれは紛れもない真実だ。彼女の中には間違いなく絶対の美がある。俺の絵を審美したあの才能は、まるでイデアの世界に直接リンクしているかのような異能だ。

 無価値を認めて受け入れること以前に、無価値が認められないのでは超人になりようがない。どこかで神が生きている証拠なのだ。


「この世界から神が死んでいても、君の中には生き残りの神を飼っているのかもしれないね」


「神様を飼うだなんて畏れ多いですが、きっとこれは私だけの、私にしか及ばない神なのでしょうね」


 困った神だ。もしもこの神が美と音楽であまねく世界の人々を統べていたら、芸術家達はこんなにも苦しまなくてすんだのかもしれない。


「私は承認欲求を棄て、自己実現欲求のみを目指すようになりました。先輩もそうではありませんか?」


「俺か。そうだな……そうだ。俺も同じだ」


 神絵師としての死を悟ったあの日、俺は今まで必死に稼いできたいいねという数字に、そして描いてきたもの全てに意味の無さを感じた。ある種のニヒリズムなのだろう。


 虚無の果てに、俺は他者からの評価を見限った。自分のためだけに自分の絵を描くという、小さく閉じた円環に囚われていった。


 あの挫折があってもそれを受け入れ、それでも邁進することができれば超人となれたのだろう。おそらく、あの状況でももう一度やり直すべきだと言える九音さんは超人なのだ。俺と彼女との決定的な差だった。


「先輩と同様に自分だけの箱庭で自分の音楽を育んでいた私ですが、ある日考えを改めました。やはり、音楽は誰かに贈ることで価値が宿るのだと」


「なにかきっかけが?」


「先輩、貴方のおかげですよ」


「俺?」


「言ったじゃないですか。先輩が私の音楽に価値を与えるって」


「ああ……そうだったな」


 あの夏の日、俺は彼女にそう約束した。果たせるかわからない約束だったが、俺はそれを正しく与えることができていたようだ。


「あの日、私は気づきました。よく知らない、顔も見えない相手に届ける音楽に価値は無いけれど、たった一人の大切な人のためならきっと宝石よりも価値ある音楽を贈ることだってできる」


 花音さんは真っすぐに俺の目を見て言う。


「先輩。私は先輩に音楽を贈ることでようやく価値を高められるようになりました。あの日先輩がかけてくれた言葉は、停滞していた私にとってこれ以上ない救いになりました」


「そんな、大袈裟だよ。あれは勢いで言ったようなものだし」


「先輩、私は今、音楽がすごく楽しいんです。私の音楽が魂の宿った本物になっていく、こんな気持ちは初めてです」


 花音さんがヴァイオリンを構え直し、夕闇を照らし出さんとばかりに眩しいメロディーを奏でる。

 パッフェルベルのカノン。彼女の十八番(おはこ)であり、練習の場に立ち会えば聴かせてもらえる機会の多い曲だ。彼女の名前の由来でもあるらしい。

 その音楽も彼女も、その名に劣らぬ美しさだった。


「いつ聴いても綺麗な音だ。いや、前よりずっと綺麗だ」


「ありがとうございます。先輩のおかげです」


「だから大袈裟だって」


「先輩はそう言うと思っていました。でも決して大袈裟じゃありません。だから私が先輩に教えてあげます」


「何を……」


「芸術の楽しさです」


「それは、どうやって」


「私が先輩の絵を全部もらいます。先輩が私の音楽に価値をくれるように、私も先輩の絵に価値を差し上げます。私には本当に美しいものがわかります。私が先輩の失った神様の代わりになります」


「神様の代わりだなんて……」


 君は俺の中で、もうとっくに神様だったよ。


「まあ私じゃ神様とは程遠いですが、私なら先輩の絵の(せい)(だく)も正しく審判する自信があります。だから先輩、私のために絵を描いてくれませんか?」


「君のために、か……」


「超人になり損ねた私達には、たった一人の隣人と美を語らうぐらいがちょうどいいんですよ」


 そう言って、彼女は微笑んだ。

 内に気高い心を秘めたその笑顔は、今まで描いてきたどんな笑顔でも敵わないほど魅力的で、俺はため息しか出なかった。


 俺は君のためならば、もっと高みへ昇れるのだろうか。今更上手くなりたいと願っても良いのだろうか。


「六月、君のために絵を描いていた時間は楽しかった」


 それは忘れかけていた感覚だった。

 何のために絵を描いているんだろうと苦悩してばかりだったけれど、彼女のために描いているときは何の憂いもなかった。


「君をモデルに描く絵は新鮮な発見の連続だった」


 人間本来がもつ原初の美を思い出した。

 彼女の白魚のような指先が、つややかな髪が、白磁の肌がまばゆく映り、俺の絵を一段上へ昇華させた。

 はにかんだ顔も、物憂げな瞳も、照れた頬も、全部魅力的だった。


「見知らぬ誰かのための絵はもう描けないけど、君のための絵ならいくらでも描きたい」


 俺の絵を見て喜ぶ君の笑顔に救われていた。

 かつて鉛のように重く感じたペンが、いつしか羽根ペンのように軽くなっていた。


「もっと上手くなりたい」


 神業のような的確な評価に驚愕した。

 君のヴァイオリンのように美しい絵が描きたい。

 君をもっと驚かせたい。君に凄いと褒められたい。


「こんな無価値な世界だけど、君にだけは価値を認められたい」


 君と君の神だけは信じられる。


「君に、俺の絵の全部をあずけてもいいですか」


「ええ。私が先輩の全部をもらいます。だから先輩も、もっともっと私の音楽を受け取ってください」


「ああ、喜んで受け取るよ。もっと聴かせて欲しい。君の音楽を」


「はい。心を込めて贈ります」


 嬉しい。こんなにも求められて、そして与えられることが幸せに感じる。

 俺も、心を込めたものを返したい。


「決めた」


「何をですか?」


「俺、同人誌を作るよ」


「コミケは辞退するのでは?」


「辞退する。だけど俺は君のための、君だけの同人誌を描くよ」


「私だけの同人誌……」


 俺の絵はもう君だけのものだ。

 君のためだと思えば、きっと最高傑作ができる。そんな自信が今なら無限に湧いてくる。


「もう同人誌というより隣人誌だけど、いいかな」


「はい……はい! 嬉しい。楽しみです!」


「絶対良いものを描く」


「はい」


「だから待っていてほしい」


「はい、待ってます!」


「ありがとう」


 ありがとう、花音さん。

 俺はもう、君がいなければダメみたいだ。


 その日、俺は一人の少女に恋をした。


【筆者注】

両片想い、始まります!

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