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第64話 花音の過去

〜大河view〜


「どこから話しましょうか。まずは私がピアノを始めた頃からにしますか」


「小学校から始めたんだっけ」


「はい。両親は私達が小学校に入学すると同時に、九音を絵画教室に、私をピアノ教室に通わせることにしました」


「そうか。九音さんは絵画教室に通っていたのか」


「先輩はご存知ありませんでしたか」


「うん、初耳」


「夏コミで九音が絵画教室の先生と会ったときに大洋さんも居合わせたそうですけど、大洋さんは話さなかったんですね」


「え、マジか。そんなことあったのかよ」


「そんなことがあったそうですよ。あ、話が逸れました。私の昔話でしたね」


「ああ、ごめん」


「いえいえ。小学校からピアノ教室に通うようになって、私はとても楽しい日々を過ごしました」


 花音さんはスポンジが水を吸うかのようにピアノの腕を上げていったそうだ。好きな音楽を好きなように弾けるようになっていくことが楽しくて、隙あらばピアノを弾いていたという。

 コンクールにも定期的に出ていて、結構いいとこまで行ったらしい。


「充実したピアノ教室でしたが、小学五年生までで辞めてしまいました」


「それはどうして?」


「先輩、握手しましょう」


「うん?」


 差し出された手を握る。ほんのり温かな体温と、なめらかな瑞々しい肌の感触が伝わってくる。


「先輩の手、大きいですね」


「普通ぐらいだと思うけど。花音さんの手は小さいね」


「はい。私の手は小さいんです。身長を考慮してもなお小さい」


 花音さんの手が離れる。俺はそれを名残惜しく感じた。

 俺が見惚れるように視線を向けていた彼女の手が、俺の目の前で両手を合わせて手のひらをパーの形に大きく広げられる。

 その親指と小指は、まるでバレリーナが足を伸ばしたかのように深い角度まで開いた。俺には真似できない。訓練してできるようになった芸当だろうか。


「ここまでやっても、私の手はオクターブ届きませんでした」


「オクターブって、鍵盤のこと?」


「はい。ドから次のドまでの鍵盤の距離です。リストが作曲したような超絶技巧練習曲に挑む権利が、私には最初から無かったのです」


 花音さんは小学五年生の終わりに体の成長の限界点を察した。

 手が小さくても余程の曲でなければ問題ないと引き止められたそうだが、既に彼女の中から向上心が失せてしまっていた。


 ちょうどその頃、オーケストラ曲にハマっていた彼女の興味が、花形であるヴァイオリンに移っていたことも区切りになった。ピアノ教室に別れを告げて、ピアノほどの身体的ハンデがないヴァイオリンに転向した。


 初めて触ったヴァイオリンは難しかったけれど、楽譜の読み方などの基礎知識は当然備わっていたし、ピアノで養われた絶対音感のおかげで指使い(ポジショニング)は早々にマスターしたという。

 小学校低学年以下から始めた子達からの遅れを取り戻すように技術を習得していった。


 コンクールに出た。

 同い年でも幼少の頃からのサラブレッドなヴァイオリニストに囲まれながら、まだビギナーと言えるキャリアの花音さんは奮闘した。

 舞台の上で緊張するのは久々だったが、場馴れした体は緊張を吹き飛ばして演奏できたそうだ。


「私はそのコンクールの結果に失望した」


「惨敗だったの?」


「いいえ。存外に良い評価でした」


「それの何が失望したの?」


「良い評価すぎたんです。あの拙い演奏に値するものではありませんでした」


「でも、プロが下した評価だよね?」


「プロがその程度だったから失望したんですよ」


 審査員の中には花音さんのピアノのコンクールを審査していた人も居たという。バックグラウンドのバイアスが掛かったのではないかというのが彼女の推測だ。

 普通ならプロの評価を信用するだろうし、そうでなくても評価が高くてラッキーだと思うだろう。しかし彼女はその虚構の評価を忌避した。俺が挫折をもってようやく知ったその空虚さを、彼女は生来から理解していたのだ。


「音楽の良し悪しならコンクールなんて出なくても自分で判る。それから私はコンクールに出ることを止めました。そうしたら先生と揉めてしまったのですが」


「それであの日あんな事になってたのか」


 夏の川崎での一悶着を思い出す。あのただならぬ雰囲気はそういう背景があったのか。


「先生が悪くないのはわかってるんですよ。生徒のキャリアを想えば、コンクールで箔をつけさせるのが常識ですからね。まあでも、それは私の求めるものとは違ったので。結局、中学卒業を待たずに辞めてしまいました」


 教室は辞めてしまったけれど、ヴァイオリン自体は好きなままだった。練習場所を求めて河川敷に通い詰め、楽に河川敷に通うために彼女のお母上の原付を運転できるように免許も取った。


「それからはもう、ずっと独りだけでの練習となりました。先輩も知っての通りです」


「そうだったのか」


「独りぼっちでの演奏は煩わしさからは解放されましたが、その一方で虚しさも感じていました。そんな気持ちと折り合いをつけようとして、いろいろと読み漁っていたときに見つけたものの一つが『ツァラトゥストラはかく語りき』でした」


 山の中で十年間仙人のような孤独の暮らしをしていたツァラトゥストラは、ある日神の死を知覚して、これを民草に伝えるために山を下りた。

 しかし低俗な民衆は彼の思想に理解を示さず、ツァラトゥストラは失望して山へ戻る。

 ツァラトゥストラは一般大衆への訴えをやめて、自分に理解を示す者を探して再び山を下り、弟子を得る。しかしある日、ツァラトゥストラは声なき声に己の未熟を指摘され、弟子に別れを告げて孤独に戻る。孤独の中で吐き気を催す苦しみと共に、彼は永劫回帰の悟りを得る。

 山上の洞窟の中で歳を重ねるうち、彼は特に高等な八人の人々と出会い、彼らを洞窟へ招いて晩餐の機会を設ける。ツァラトゥストラは彼らから同情を得、そしてそれを克服する。彼は洞窟を出て「これは我が朝、我が昼が始まる。さあ、昇れ、昇ってこい。大いなる正午!」と叫び、再び山を下っていく。


「これがツァラトゥストラはかく語りきの概要です」


「ごめん、よくわからなかった」


「まあ物語の中身は私もあまり理解できていませんが、これをもってニーチェが伝えたかったことは神のいない世界におけるニヒリズムと永劫回帰、そして超人思想についてだそうです」


「ニヒリズムと永劫回帰と超人思想……?」


「キリスト教的な神のいる世界では、世界には天地創造による始まりと最後の審判という終わりがあり、生きとし生けるものには皆終わりへ向かうために生まれてきた意味があります。しかし神のいない世界では始まりも終わりもなく、生まれてきた意味なんて何もありません。これがニヒリズムです」


「意味のない世界……」


「全て無意味です。豊穣の神(ディオニュソス)が死んだ世界では農耕に意味はなく、鍛冶の神(ヘファイストス)が死んだ世界では技術開発に意味はなく、愛の神(アフロディーテ)の死んだ世界では結婚に意味はない。そして音楽の神(アポロン)が死んだ世界ではカラヤンの指揮にも、ストラディバリウスの音色にすら一銭の価値もない」


「ふむ……」


「万物や人々は何のためにそこに在るのか、何のために生きるのかという意味も目的も持たず、終わりのない無限の円環世界で無価値な創造と破壊を繰り返す。これが永劫回帰です」


「なんか虚無の極みだな……」


「そうですね。そもそも神を信奉する人にとって神のいない世界という時点で受け入れ難い思想だったでしょう。ニーチェはドイツ人でしたから、実際当時のヨーロッパではほとんど理解を得られなかったそうです」


「よくその環境下でその思想に至ったもんだな」


「ニーチェは仏教にも理解があったそうですよ」


「へえ。そうか、キリスト教一本で世界を見ていたわけじゃなかったのか」


「まあ頭のいい人だったんでしょうね」


「最後の超人思想っていうのは?」


「ニーチェの言う超人とは、永劫回帰の虚無の中で悲嘆に暮れることなくありのままに世界を肯定し乗り超えた者を意味します。ツァラトゥストラはこの超人を目指せと民衆に説いて回ったのです」


「それが超人か……なんとなくわかったけど、思ってた超人と違うな」


「サイヤ人とかそういうのではありませんからね」


 まさにそういうのかなと思ってしまった。


「このニーチェの思想は花音さんにとって救いになったの?」


「いいえ。参考にはなりましたがそれまでです。それに変な方向に解釈して傾倒するとテロリズムの温床になりかねない危険思想でもありますからね」


「どう解釈すればテロ思想に至るのこれ」


「権威や国家秩序に従属せず、暴力で乗り越えろって感じらしいです」


「なるほど、わからん」


「テロリストにとっては自分に都合のいい解釈ができるものがあればなんでも良かったんじゃないですかね」


 ニーチェにとってはとばっちりなのでは。


「それはさておき、音楽の審判に失望し、無意味さを覚えていた私にとって少し考えさせられるものではありました」


 コンクールで人間の評価に失望した彼女と、インターネットの評価に失望した俺。同じ境遇にいて、彼女はどう思ったのか、俺はそれを知りたくなった。

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