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第63話 リヒャルト・シュトラウス/ツァラトゥストラはかく語りき

〜大河view〜


「だから〈那イル〉は死んだ……」


「そうだ。あのときはアカウントごと消してやろうと思ったけど、大洋と泉美が強く引き止めたもんだから墓石として捨て置いた」


 まだトレス疑惑も燻ってたし、アカ消しで逃げたと言われるのも癪だった。


「俺の筆はポッキリ折れて、それからしばらく何も描かなかった」


「でも〈美青ドナ〉として復活している」


「それは半分正しいし、半分間違いだ」


「どういうことですか?」


「筆が折れてから、俺は自転車を始めた。〈美青ドナ〉はその時作った自転車趣味用のアカウントだった。イラストを投稿するつもりはなかった」


「なら何か投稿するようになったきっかけが?」


「自転車に乗ってるとな、結構暇なんだ。スマホも触れないし音楽も聴けない。そういうときにやることと言えば、心の整理だ」


「心の整理……?」


「自分の心の中で抱えているものを何度も反芻する。もう一人の自分と対話する。今日の出来事も、明日への期待も、昨日の後悔も、一生の傷も、全部液状になるまで咀嚼する。そうしていると気がつくんだよ。やっぱり俺は絵が描きたいんだって」


 イラストは俺にとって最古の趣味だ。三つ子の魂百までと言うが、それこそ骨の髄まで染み込んだ習慣だ。きっぱり辞めることなんてできなかった。


「俺は再び筆を取った。AIに対抗するためにデジタルアートを捨ててアナログに舵を切った」


 AIではアナログ絵は描けない。もしかしたら将来描けるようになることもあるのかもしれないけれど、即時の生産性を武器とするAIアートの長所を捨てざるを得ないアナログ絵までAI化する懸念は薄かった。


「ネットから解放された絵を描くのは楽しかった。自分に正直になれた。AIに脅かされず、俺だけのオリジナルキャラを作って、トレンドに媚びない自分好みの絵柄にした」


 絵柄は自然と小学生時代にデジタル絵を始めた頃流行したものに落ち着いた。あの頃の絵が俺の原風景だったようだ。


「そうして当時自分史上最高の絵が描き上がった。そのときふと思ったんだ。この絵を小細工なしで公開したらどうなるんだろうと」


「小細工なしというのは……」


「フォロワーという下地もなく、版権モノというバイアスもなく、メディアからの導線もなしに公開したら、俺の最高傑作はどう評価されるのかということだ。果たして暗い期待は裏切られることはなく、ついたブックマークはたったの一桁だった」


「…………」


「傑作だろう? 〈那イル〉で投稿すれば何千リツイートに万のいいねも稼げたのかもしれない作品が凡百の有象無象の一部だ! やっぱりSNSの評価なんて無意味だったと笑いが出た。俺が〈美青ドナ〉で公開してるイラストはな、いいねの無価値さを確認するだけの実験なんだよ」


「そんな理由で……」


 〈イクス〉はどう思っただろうか。SNSを主戦場とする彼女を冒涜する価値観だ。よくは思われないだろう。


「それももう終わりだ。〈那イル〉と〈美青ドナ〉が紐付けられてしまったらこの遊びは成立しなくなる。これからは何も公開しない。俺だけの絵を描く」


「本当にもう一切公開しないんですか」


「そうだ」


「そんなの駄目よ! 絵は誰かに見てもらわないと意味が無い。誰も幸せにできない!」


「……ここで幸せにするだなんて言葉が出てくるとは思わなかった。さすが神絵師は違うな」


「何言ってるんですか! イラストには人を笑顔にする力がある! 〈那イル〉だってきっとたくさんの人々を笑顔にしてきたはずよ! それを誇りに思わないの!?」


「思えなかったからこそ、俺はやっぱり神絵師じゃないんだよ」


「いいえ、そんなことはありません! もう一度やり直しましょうよ! 古傷ぐらい、今の実力で塞いでしまえばいい!」


「もうこれは俺の傷じゃないんだよ。環境が壊れてるんだ。俺が何かしたところでどうにもならない」


「……次の冬コミはどうするんですか」


「申し込んだけど、当選したら辞退だな。今後一切出ない」


「先輩はッ……!」


「九音、そこまでだよ」


 ずっと黙って話を聞いていた花音さんが、彼女の言葉を遮った。


「花音……なんで……」


「もういいでしょ? 帰るよ」


「花音は先輩に続けてほしいと思わないの!? シオンが死んだようなものなのよ!」


「たとえ〈那イル〉と〈美青ドナ〉が死んでも、先輩が生きてる。ならシオンは死んでない。何も問題ないよ」


「どうしてそれを受け入れちゃうの……」


「九音はわからないの?」


「そんなの、わかるわけないでしょ!!」


 声が室内に響き渡り、残響が止むと気まずい沈黙が下りる。

 表情を変えない花音さんと、複雑に歪む九音さんの顔とがぶつかり合う。


「私、ヴァイオリンの練習したいから先帰るね」


 抑揚もなくそう言って、花音さんはスタスタと退室してしまった。

 俺と九音さんが二人部屋に残される。


「……先輩は、冬以降のコミケも出ないつもりですか」


「出ない。そもそもサークル参加を再開したのはチケットが欲しい下心があったからだったし、もうこれからは買うのも通販でいい」


「っ……!」


 九音さんはそれきり黙り込んでしまった。

 お互い一言も発さないまま下を向いていたところで、俺のスマホが震えた。見ると、花音さんからのメッセージが入っていた。


『このあと河川敷に来てもらえますか?』


 俺は了承の返信をして、荷物をまとめた。


「俺も帰る。戸締まりは頼んでいいか?」


「……ええ」


「……じゃあな」


 やけに印象に残る彼女の背中を見ながら、俺は部屋の戸を閉めた。



 **



 真っ直ぐ河川敷に向かったら、まだ花音さんはいなかった。

 グーグルマップを見ると自宅にいる。ヴァイオリンを取りに戻ったぶん俺のほうが先行したようだ。

 最近は日の入りが早くなってきた。気がつけばあっという間に冬至になるのだろう。


 寒く感じるようになってきた風が吹き抜ける。頭が、思考が冷える。


 九音さんと花音さん。見た目は似ているのに、さっきは全く異なる反応を見せた。

 九音さんの気持ちはだいたいわかった。概ね予想通りの反応だ。彼女はやっぱりすごいイラストレーターだった。


「誰も幸せにできない。古傷ぐらい今の実力で塞いでしまえばいい。か……」


 力を持ち、それを正しく(ふる)うことができる者にだけ許された言葉だ。俺にはもう眩しすぎる。


「俺は絵で見知らぬ誰かを幸せにするより、自分の絵の幸せを選んだ軟弱者だよ」


 神絵師と呼ばれ生き残っている彼ら彼女らは、あんな理不尽の中で尚輝く光だ。闇に呑まれて別の光を探し求めた俺にはもう遠くの存在だ。

 俺の身の上話なんて気にせず突き進んでほしい。


「花音さんは俺に何を言うつもりなんだろう」


 俺が独白する中、彼女は一言も話さなかった。最後に俺が生きていればそれでいいとだけ言った。

 九音さんと同じように、俺も彼女の考えがわかりかねていた。

 新作を公開しないことで、シオンの一番のファンであった彼女も反発すると思っていたのに、そうはならなかった。俺はなぜ許されたのだろう。あの話を聞いて、彼女は何を思ったのだろう。


 少し離れたところから、ヴァイオリンの美しい音色が聞こえた。

 そちらを見ると、沈みゆく夕日を背景に一人の少女がヴァイオリンを弾いていた。


 『ツァラトゥストラはかく語りき』


 その曲は古いSF映画の影響で宇宙的な印象を抱く人も多いだろう。あるいはカップ麺のCMを思い浮かべる人もいるかもしれない。


「お待たせしてすみません、先輩」


「ツァラトゥストラはかく語りきか。ヴァイオリンの曲でもないのに珍しいね」


「先輩はニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の内容をご存知ですか?」


「ニーチェ? リヒャルト・シュトラウスじゃなくて?」


「作曲者ではなく、この曲の題材となったお話を作った哲学者のニーチェです」


「ごめん。哲学の教養はあんまり無くて」


「そうですか。ならちょうどいいです。一緒に考えてみましょうか。神の死んだ世界を」


「神の死んだ世界?」


「ツァラトゥストラは神がいないことを知覚し、神は死んだと叫ぶところから物語は始まります。ニーチェはこれで神のいない永劫回帰の世界を説きました。神を失った先輩にぴったりの教材ではありませんか?」


「神は死んだ、か……」


 神は死んだ。そう、あの日確かに俺はそう思った。


「教えてくれるか? 俺にツァラトゥストラの物語を」


「ええ、ついでに私の昔話もしましょうか」


「花音さんの昔話?」


「はい。先輩の昔話も聞かせてもらいましたし、お返しです」


「……もしかして言いづらい話だったりする?」


「別に先輩みたいな深刻な話ではないので、気負わなくて大丈夫ですよ」


「そうか。なら聞かせてほしいな」


「では、まずは私の話からしましょうか」


 太陽が没し、街並みはトワイライトで彩られる。

 俺は静かに彼女の言葉に耳を傾けた。

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