第57話 ケージ/4’33”
~勝山view~
このクラスに留年生がいるらしい。
三年に進級した直後に流れた噂話だ。それは実際のところ本当だった。
すぐにあいつは誰だと裏で話題になったが、知ってる奴はほとんどいなかった。どうやら部活には入っていないらしく、縦のつながりが無い奴だった。
背が低くてヒョロく根暗な奴で、クラスメイトはそいつとの距離を測りかねた。
物好きな奴が、流行の邦楽やユーチューブのインフルエンサーの話題を振ってみても興味が無いからわからないと答えて会話が終わる。受験の話題を振っても受験はしないからと言って話にならない。
たまにアニメ柄のTシャツを着てくることがあり、何のアニメかと聞く奴がいたが、クラスのオタクの奴も知らないやつだったそうだ。
そのうち特定の科目の授業にも出てこなくなった。
授業をサボっている間や休み時間はどこかへ消える。どこへ行ったかは誰も知らない。便所じゃないかというのがもっぱらの噂だ。
すぐに体育祭シーズンに入り、そいつは捨て駒の寄せ集めなバレーボールの空席に欠席裁判で放り込まれた。
体育祭なんだから出てくれとクラス委員のやつが説得して引きずり出してみると、そいつは捨て駒メンバーの中でも一番の下手くそだった。
レシーブを明後日の方向に飛ばしては、毎回平謝りしながらボールを取りに走っていた。
面白かった。元上級生がへこへこ謝りながらあっちへこっちへ駆け回る様は、実に滑稽で愉快だった。
バレーのメンバーはわざとボールを回して、奴が下手をこく様を見て愉しんでいた。俺はサッカーに編入されたのを後悔したぐらいだ。
そんなザマは体育祭の本番も変わらずだった。クラスの男子で体が空いてるやつは全員が観戦していたほど見ものだった。
こうしてうちのクラスにいる留年生には『ヒョロガリオタク落第生』がクラスメイトの共通認識として定着した。
何の取り柄もない。何のために学校に来てるんだ。退学したほうがマシ。生きてて恥ずかしくないのか。
口にはしないが、もう誰もが上級生だったことなど忘れてしまったかのようだった。
そんなヒョロガリオタクが、あろうことか俺に食って掛かってきた。
お前みたいな奴がスキーなんてできるわけがないだろ。せいぜい遊びに行きたいだけに決まってる。
そんな奴が易々とチャリンコ勝負に乗ってきやがった。もしかしたら奴は俺の実力を知らないのかもしれない。全校生徒の前でわからせてやるとしよう。
俺はスポーツなら無敵だった。
小学校時代から負けなしだった。誰もが俺にひれ伏し、チーム戦では俺は英雄だった。
俺が強いのは才能だけじゃない。部活での練習に加えて六キロのランニングも毎日二回しているし、ジムにも通っている。練習量でも負ける気がしない。
チャリンコはペダルを回すだけの単純スポーツだ。地力がある俺なら負けなど想像もつかなかった。
それに今回は体力テストの千五百で土を付けられた浦野を叩くチャンスでもあった。
相手にならないであろうパイセンのことなんてもうどうでもいい。浦野を打倒することを目標に今日この日を準備してきた。
信じられないことが起きた。あの浦野が留年生にあっけなく倒されてしまった。
絶対にチートをしている。体重を偽ったか、それとも俺の知らない方法を使ったのか。
糾弾してやるつもりで壇上に上がった俺は、奴の姿を間近で見て驚愕した。
奴は身体に張り付くような専用のウエアを着ていた。普通の奴が持っているものではない。明らかに経験者だった。
普段は衣服で隠されていた脚の筋肉は、見るからに仕上がっていた。決して一朝一夕で養えるものではない。仮にも俺はスポーツマンだ。筋肉の具合を見違えることはなかった。
脚の筋肉の発達具合とは裏腹に、上半身は貧弱だった。いや、無駄をそぎ落とした特化型の肉体だ。体重が軽いのも頷ける。魅せる肉体ではなく、戦いのための肉体だ。ヒョロガリだと皆が認識していたそれは、まるで見当違いだった。
こいつは普通じゃない。
相手の実力がわからないまま試合が始まった。
こいつの正体を明かしてやる。
俺は奴が準決勝で取った戦法を取った。相手の限界を赤裸々にする方法だ。俺は最強。力で勝ればそれが可能なはずだった。
しかし現実は手玉に取られただけで、一方的に蹂躙されてしまった。
最初の三分で失策に気づいた。徐々に増していくペースが真綿で首を締めるように俺を苦しめた。
二十分が経過したかと思ったらまだ五分しか経っていなかった。血の匂いがする息が気持ち悪かった。
破局はすぐにやってきた。理不尽なペースで先行していくアバターの背中を、急勾配で重くなったペダルに阻まれた俺は成すすべもなく見送った。
――化け物め。
その台詞は、まるで制御の利かない呼吸器官のせいで言葉にならなかった。
「なあ勝山、聞いてるか」
不意に横から声をかけられた。
気がつけば、あれから数分が経過している。俺は惰性で漕いでいたらしい。
――うるせえよ。
その返答は吐息となってゼロ距離で霧散した。
もう息は整っていたが、開いたままの口を動かす気力が無かった。
「お前、自分のことを神だと思ったことがあるだろう」
「…………」
ねえよ。とは、言えなかった。
「頂点に立った人間は自分が神だと思い込む。無敵で、周囲からは肯定され、全能感に酔いしれる。苦手な分野があっても俺は神と呼ばれた男だとマスキングしてしまう。壁にぶつかっても、俺は神だ俺は神だと心の中で唱えて支えにする。自尊心が保たれる」
うるせえ。
「そんな自己暗示はエゴを増長させ、傲慢になっていく。誰に対してもマウントを取る」
黙れ。
「けれどそんなものは虚像だ。偶像だ。八百万の神々は世界中のどこにでもいて、道端の小石にすら上位神が宿っていたりする。お前程度では唯一神たりえない。ただのお山の大将だ。蒙昧なままだから石ころを蹴ろうとして足元を掬われる。俺みたいな小石にな」
何が小石だよ。何なんだよお前は!
「今日この場に限っては俺が神だ」
「ッ……!」
そこには頑強で不動の巨石があった。
「そこで這いつくばって見上げていろよシュムイレ。今から現実を見せてやる」
**
『信じられないペースです! 三分が経過しましたが、スピードは一向に衰える気配がありません! これが三分間走であればダントツだったことでしょう! このまま時間終了まで駆け抜けるのでしょうか!?』
驚愕の光景が広がっていた。
意味のわからない宣言の直後から、奴は人が変わったように猛然とペダルを踏み始めた。
その出力は三百W……五・七倍を示していた。
平均的に五・七倍というわけじゃない。そこから下に下がらないのだ。五・七倍を下限に、時には六・三倍までの間で出力し続けている。装置がぶっ壊れてるんじゃねえかと思った。だが、こいつの脚が踏み込むたびに響く機械の音が、ブレの無い美しい姿勢が、目の前の空気を全て飲み込まんとばかりに食らう呼吸音が、高い代謝が生み出す大量の汗が、身体から放出される熱が、その数字が紛れもなく本物であることを証明していた。
予選のトップスリーを三タテしてなお、ほとんど休む間もなく、それまでの三分間走を遥かに上回るペースでこの四分三十三秒を走り切ろうと言うのか。
鬼神のごとき所業だった。
それまでの試合とは別次元のパワーを前にした観客は熱狂した。
誰もがこいつに熱い視線を向けていた。
俺を置き去りにして。
「先輩ぃ! いっけええええ!!」
前戦の対戦相手だった浦野までもが声援を送っている。
……気に入らない。
「頑張れ! 先輩ー!」
飯山とか言った女子生徒の声が聞こえる。
……気に入らない。
『残り時間はあと一分! クライマックスです!』
うるせえ! 何が演奏だ! 雑音ばっかりじゃねえか!
こんな音楽、気に入らねえッ!!
「うああああああ!!」
怒りに任せて俺は再びペダルを踏み込んだ。
三倍……四倍……四・五倍。
正味十一分休んでいたにもかかわらず脚が重い。しかしあと一分だ。一分もてばいい。
五倍……五・五倍!
まるで拷問のように苦しい。肺が軋む。脚がつりそうになる。あいつはこれ以上のペースでずっと走り続けているのか。どういう身体してんだ。
会場はやかましいほどの盛り上がりだった。
そんな中で、彼女の茜は仏頂面で俺のことを見ていた。
試合前にあいつが余計なことを言ったせいでずっとこれだ。あとでどうにか弁明しなきゃならない。
あいつ、絶対殺してやる。殺してやりたいのに、俺は今なぶり殺しにされ続けている。こんな屈辱あってなるものか。
せめて、せめて一矢報いる!
『残り十秒!!』
俺はさらに踏み込んだ。ゴールスプリント勝負だ。
五・七倍、六倍、七倍……八倍!
最後だけでもねじ伏せる!
十倍!!
「ぶっ倒せぇえええええ!! 大河兄ぃいいいいいい!!!」
体育館にひと際大きく響き渡ったその声に呼応するように、あいつは今日初めてサドルから腰を浮かせて激しくもがき出した。
ヒョロガリの外皮に隠されていた強靭な体幹が支える胴体を支点に全身の筋肉を躍動させ、爆発的な高速回転でペダルをかき回した。
『試合終了ー!!』
最後の瞬間、奴のパワーは十四倍を示していた。出力にして七百四十W、およそ一馬力を小さな体で炸裂させてみせた。
この日、俺は神の座から引きずり降ろされた。




