第52話 土星 老いをもたらす者
~大河view~
夜、俺は風呂場ですね毛を剃っていた。
サイクリストは男であってもすね毛を剃る。剃らない人も当然いるが、ガチ勢はだいたい剃ってる。
怪我をしたとき衛生的に治療できるようにするためだとか、空気抵抗を減らすためだとかいろいろ言われているが、剃る理由の半分以上はなんだかんだで見栄えだろう。
基本的に生足で四六時中走り回るのだ。ムダ毛は無いほうがいい。
カミソリで慎重に毛を伐採していく。顔の皮膚より脚の皮膚の方がデリケートなので、カミソリ負けしないように慎重になる。
そんな作業をしながら、ちょっと前にあった出来事を思い出していた。
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「大河兄、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
帰宅後、俺の部屋にやって来た泉美から話しかけられた。
来たか、と思った。花音さんからお願いされていたことがあったからだ。
――今日、一度だけ泉美の言葉を真剣に聞いてあげてください。
聞くだけでいいのかと尋ねたら、それでいいという。それに応えるかどうかは自由にしていいらしい。
それだったらわざわざ賭けなんてしなくていいのにと言ったが、必要なことだったと言う。
仮に賭けが必要だったとしても缶ジュース一本でよかったし、ブラなんて賭ける必要無かったぞと言ったら顔を赤くしてそれは忘れろと怒られた。もう当分忘れられそうになかった。
……閑話休題。
俺は神妙な顔をした泉美にこんな説得をされた。
「明日の決勝戦、本気で戦ってほしい」
最初はすぐに断ろうと思った。でも花音さんと真剣に話を聞く約束をしていたので、遮らずに話を聞くことにした。
「明日の軽音部のステージ観に来て。あたし本気でベース弾くから、ちゃんと見ててほしい。大河兄にはあたしのベースと同じだけ本気で明日戦ってほしいの。お願い。絶対ステージ聞きに来て。限界まで、本気でやるから。だから大河兄も限界までやって」
そして、全校生徒を見返してやって。
最後はほとんど懇願するような声だった。
こんなに必死な目をする泉美を見たのはいつ以来だろうか。
もっと自分本位なことを言われるのかと思っていた。しかし泉美の願いは俺を慮ってのものだった。
なあ、どうして俺のことなのにそんなに必死なんだよとか、聞きたいことは山ほどあったが俺は全て飲み込んだ。
「わかった。お前の本気次第だけどな」
「絶対来てよ」
「それは約束する」
俺の答えに納得したのか、泉美は退室していった。
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「本気で戦ってほしい、か」
つるつるになった右脚のシェービングクリームを洗い流しながらつぶやく。次は左脚だ。
俺がすね毛を剃るのは週一回。普段は週末ライドに備えての金曜日にするのだが、今週は木犀祭後の振替休に合わせて日曜日でいいかと思っていた。それが今は一日前倒して剃っている。
「これじゃあ明日やるしかないよなぁ……」
決戦の直前は剃る。状態を万全に整えるというのは体調だけに限らない。これはケジメか、あるいは儀式のようなものだ。
「あいつが俺に立ち向かってくるなんてな」
昔は危なっかしい小さな妹だったのに、気がつけばもう高校生だ。本人はギリギリだったと言っていたが高偏差値の西園へ進学もできた。
生意気にも身長は高く、俺と数センチしか違わない。母さんの身長も追い越している。
それでも心は幼いままだと思っていたのに。
「泉美は成長したんだな」
あるいは俺が老いたのか。
いや、老いたなんて言ったらいろんな人から怒られそうだ。でもさぁ、そういう気分なんだよ。
「土星。老いをもたらすもの。ホルストの自信作」
組曲『惑星』の中で最も高く評価されているのは圧倒的に『木星』だが、作曲者のホルスト自身は『土星』を推したと言われている。その旋律を俺は脳内で再生させた。
時計のようなテンポと、重く哀しくも幻想的な音色が美しい名曲だ。どちらかというと玄人向けな曲かもしれない。今の俺の気分にぴったりの曲だった。
「こういうのも悪くないな」
左脚も剃り終わる。
もう覚悟を決めなくては。妹のためにも。
「しかし花音さんにはしてやられたな」
とんでもない願いを安請け合いしてしまった。缶ジュース一本でいいと思ったが、これはどうやら四万円の損失になりそうだ。四千円のブラジャーで賭けのテーブルに着かせた彼女は策士だった。
「ま、半分天然みたいだったが」
あのやり取りを思い出すと微笑ましくなる。……いや、なんか俺も恥ずかしくなってきた。いかんいかん、とりあえず湯に浸かるか。
その後、俺は危うく湯船でのぼせかけた。
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木犀祭二日目が始まった。
「よ」
「おう。来たな」
今日は木犀祭に大洋がやってきた。俺は案内役だ。
「やっぱ普通高校の空気は新鮮だな。なんか変」
「いや、お前んとこが異空間なだけだと思うぞ」
大洋の高専の学祭には二回ほど行ったが、うちとはまるで別の雰囲気だった。校舎内は土足だし、工場棟とやらは異質だし、実機の戦闘機が置かれた展示館まである。そして学生はいかにもオタクな野郎だらけだった。
「で、どこか見たいところある?」
「んー。別に出し物系は興味ないんだけど、学校見学的なことがしたい」
「だったらまずは一年A組の教室にでも行ってみるか。泉美と花音さんのクラス」
「そういや泉美と花音君はクラスメイトだったな。あの双子は今日はどうしてる?」
「二人で見て回るって言ってたぞ」
「そうか。どこかでばったり会うかな」
「もしかしたら泉美のステージで会うんじゃないか。たぶんあの二人も観に来るだろ」
軽音楽部のステージはお昼前だ。まだしばらく時間がある。
「まあ時間まで適当に案内してくれよ」
「じゃあ行くか」
俺と大洋はふらふらと校内を歩き回って時間を潰した。
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そろそろ泉美の出番が近いということで体育館にやってきた。
「意外と客入ってるのな」
人もまばらかと思っていたが、暇な生徒が多いのか案外人気なのか知らないが座席はそれなりに人で埋まっていた。これでは花音さんたちがいるかもわからない。
「泉美のやつ緊張するんじゃないかこれ」
「あり得る」
あいつはどちらかというとあがり症だ。大丈夫だろうか。
前の演目の片付けが終わり、ドラムセットやマイクが表に出されてくる。いよいよ時間だ。
舞台袖から軽音楽部のバンドメンバーが姿を現した。ドラムが一人、ギターが二人いて、内一人はギターボーカルか。そしてベースの泉美で編成されるガールズバンド。
彼女らの登壇で館内を拍手が満たすが、すぐに照明が暗転して静かになる。
一瞬の緊張感。MC無しで一曲目を始めるのか。
ドラムの女子がスティックを鳴らし、アンプが大音量で轟きだした。
曲は流行りのJポップのコピーバンドだった。アニメの主題歌にもなっていたので俺も知ってる曲だ。
流行っている曲なだけあって観客の反応は良く、ノリのいい生徒を中心に盛り上がっていた。
なかなか声量があって聴き応えのあるボーカル、ミスも気にせずじゃじゃ馬のように突っ走るパワーのあるギター、それを諌め指揮するようにビートを刻むドラム。
そして、それらを泉美の低音が支えていた。
ドラムが導くリズムに必死で合わせ、呼吸も忘れるほど弦を凝視しながら一音一音紡いでいく。
まるで追い詰められた窮鼠のような決死の表情だ。なあ、もっと笑って弾いてもいいんだぞ。
「大河、泉美はどうだ?」
「上手くはないな」
「まあまだベース歴半年だしな。で?」
その先を促される。
大洋は俺が泉美に言われたことを知っている。昨夜俺が話したからだ。そしたら今日来ると言い出した。
知った上で問うてくる。お前だって目の前のあいつを見ればわかるだろ。俺と同じものが見えてるはずだ。
「上手くはない。でもゲロ吐きそうなぐらい本気だと思う」
「そうだな。頑張ってるな」
「……昼飯は軽めにしておくかなぁ」
「消化にいいやつ食っときな」
一曲目が終わり、まばゆく照らし出された舞台に泉美の汗が光る。
ようやく弦から外れた泉美の視線は、まっすぐ俺を捉えていた。




