第48話 約束
~大河view~
「トミーさんって先輩の内定先の社長さんなんですよね?」
「そうだよ」
花音さんが『田園』を披露した後、俺と花音さんはトミーさんを自転車ごとクルマに乗せて彼の自宅へ向かっていた。
「先輩と知り合ったのは内定の前ですか? 後ですか?」
「内定前だな。元々は〈でん〉さん経由で知り合った自転車仲間だったんだが、いいデザインセンスを持ってるって後から知って、俺が青田買いした」
「さすが先輩ですね」
「あの頃の俺はほとんど絵を描いてなかったんだけど、まさかたまたま描いた一枚で目を付けられるとは思わなかったけどな……」
「ほとんど描いてなかった?」
「もう全然。自転車ばっか乗ってた。誰も俺が絵を描くなんて知らなかったはずだよ」
「描くようになったのは何かきっかけがあったんですか?」
「うん。当時の俺は少ない小遣いで乗ってたから、着るものも夏用上下ワンセットしかなくて……」
師匠と会ってから俺は自転車にのめり込んだ。
それによって最初に揉めたのは自転車の所有権だった。今も乗っているロードバイクは、元々は大洋が高専進学祝いに買ってもらったものだった。それまでは頼めば乗らせてくれていたが、俺が占有する勢いで乗り始めたため喧嘩になりかけた。
この件については、見かねた父さんが大洋にちょっといいお値段のPCパーツを買い与えて、ロードバイクを兄弟共用とすることで場を収めた。
休日限定でロードバイクを自由に使えるようになったのはいいが、自転車趣味というものはとにかくお金がかかった。
師匠のおかげでライトは最高級品があったが、夏は馬鹿にならないドリンク代、専用のシューズ、ウエア、乗る距離に比例して消耗するタイヤ等、財布のやりくりに頭を悩ませる日々だった。
そんな頃に、師匠のクラブでこんなアナウンスが流れた。
『AJ板橋設立十周年記念ジャージを作ります。デザイン募集』
ジャージのデザインを応募して採用されれば、デザイン提供者にはウエアの上下セットを夏用と冬用もプレゼントするというものだった。
その報酬は実に魅力的だった。一張羅だったウエアが複数枚になるのはもちろん、冬物までもらえるのは安い汎用のウィンドブレーカーで凌いでいた俺には垂涎ものだった。
そして俺の提出したデザインは記念ジャージに選ばれ、それがトミーさんこと『アトリエ吉野』社長の目に留まった。
「そのジャージを見て、俺はもしやと思ったね。だからドナ君を呼び出してクルマの絵を描いてもらった」
「クルマですか」
「カーデザインはうちの主力事業だからね。試させてもらったんだ」
「まさかあれが入社試験になっていたとは思いませんでしたよ」
「俺だってあのときは入社させようとは思ってなかったからな」
「社長は自由な人ですねぇ……」
「でもあのときお前が描いたオリジナルのクルマは良かった。我が社に足りなかったユニセックスなデザインだ。お前のそれはアニマとアニムスが混ざり合った混沌だ。こんなデザインが欲しかった! しかもフランス語の素養もある! これならステランティスとの商談もできそうだ!」
熱く語り出したトミーさんに花音さんがビクッとしている。
「社長、落ち着いてください」
「ああ、悪い。ちょっと深夜テンション入ってるかもしれん」
外は明るいのだが、彼の体内時計的には深夜なのかもしれない。昨日ネカフェで仮眠したというタイミングがちょうどこれぐらいの時刻だったか。
「もうじき着くと思いますけど、休んではいかがですか?」
「……すまんな。ちょっと目だけ閉じてるわ」
やはり疲労が溜まっていたらしい。そうとは感じさせないものの、残業明けに四百キロ走り切った後なのだ。
すぐに後席から深く静かな呼吸が聞こえてくる。
お疲れの社長に対し、俺と花音さんは無言をもって労った。
**
トミーさんを自宅へ送り届け、無事にスマートトレーナーを受け取った後は花音さんの自宅へ向かってクルマを走らせていた。スマトレは今日のところは俺の家に持っていく。
「先輩のと同じ機種なんですね」
「ん? ああ、スマトレのことか。正確に言えばマイナーチェンジ版なんだが、まあ同じものだな。俺が貰った後にすぐ買ったらしい」
「貰った? それってもしかして、先輩のやつの元の持ち主って社長さんだったんですか?」
「そうだよ。ほら、俺って海外に居すぎて留年したじゃん?」
「らしいですね」
「そのことを気に病んだトミーさんがお詫びにって。そんな高価なもの受け取れないって言ったんだけど、新型買うつもりだったからいいんだって言って寄越してきて。赴任中の給料と別に貰っちゃったんだよね」
「なるほど。それでぶんどったって……」
そういえば俺自身がそんなこと言ったっけな。
「そういうこと。俺は人のものをぶんどってばかりだ」
「先輩、言い方」
「でも事実だし。車体は大洋から、ライトは師匠から、スマトレはトミーさんから、サイクルコンピュータだって時子さんのお下がりだよ。俺がいいのにって言ってるのに強引に押し付けてきて、そのまま俺は彼らの厚意に甘えてしまう。結局俺はまだ学生のガキで、彼らは立派な社会人なんだ」
偉大な諸先輩方だ。ブルベの年齢制限にも満たないガキを沼に引きずり込もうとする悪い大人だけど、それでも人生をこれでもかと楽しんでいる理想の姿を俺に見せてくれるのだ。
「俺も、あんな大人になりたいなぁ……」
「なれますよ、きっと」
「そうかな」
「先輩次第でしょうけどね」
「……そうだな」
未来は自分で掴み取りに行かないとな。
「先輩はすごいですね」
「俺が?」
「あんな楽しい大人の人たちと友達で」
「いや、弄られてばっかりだと思うけど」
「そんなことありませんよ。先輩はちゃんとリスペクトされていました。対等以上に思われてます。若いのにすごいって信頼されてます。絵も、自転車も」
「…………」
花音さん、君の言葉はきっと事実だろうけど、こんなガキ相手に対等以上に接してくれる大人は相当な人格者なんだよ。
「私もああいうお友達、欲しくなりました」
「いるじゃないか」
「え?」
「君だって今日、彼ら彼女らの輪の中に加わっていたし、リスペクトも受けていたよ」
君のヴァイオリンはやっぱり最高に美しい。全員が魅了されていたよ。
「で、でも、私はサイクリストじゃありませんし」
「自転車に乗る必要はないって。お互いにリスペクトし合えるならもう友達だろ」
「私に、大人の友達……」
「よかったな」
「……はい」
「またそのうちブルベ運営の手伝いしに行くか。ゼロ姐が出るやつでもあれば」
「はい!」
「またベートーヴェンでも披露してくれたらみんな喜ぶよ」
「ベートーヴェン……」
花音さんは口ごもった。何か言おうとしてためらっているようだ。
しばらく沈黙が下りて、そして意を決したのか、静かに口を開いた。
「……先輩って、年末は『第九』って聴いてますか?」
「そりゃあ、もちろん」
ベートーヴェンの交響曲第九番。日本では年末の風物詩だ。日本人のクラシックファンなら誰もが師走にこれを聴いて一年を締めくくるだろう。
「先輩、もし……もし良かったらなんですけど……」
「うん?」
「N響の『第九』演奏会、私と観に行きませんか?」
「え、いいねそれ。テレビでしか観たことなかったから一度でいいから生で観てみたかったんだよ」
N響の『第九』演奏会とは、日本最高峰のオーケストラ楽団『NHK交響楽団』が年末の恒例として演奏するコンサートだ。その模様は大晦日の夜八時にテレビ放送もされている。全国のお茶の間が紅白やお笑い番組に夢中になっている頃に、クラシックファンはこちらを楽しんでいる。我が家も第九のほうが優先度が高い。
「あれの放送は大晦日だけど録画したやつだよな。コンサートはいつやるんだ?」
「えっと、年末のひとつ前の週の四日間が公演日なんですけど……」
「あれって一回じゃなくて四回も演奏してるのか」
「はい。その日程なんですけど、できれば十二月二十五日の公演に行きたくて……」
「うん。いつでもいいよ」
「ほんとですか! ありがとうございます! チケット二人分、取っておきますね! 約束です!」
俺も楽しみになってきた。第九公演か。遂に生で聴く機会がやってくるとはな。十二月二十五日か……。
あれ? 十二月二十五日?
「ねえ花音さん、その日って……」
「楽しみですね、先輩!」
「あ、うん。俺も楽しみだよ……」
まさかこんなに早くクリスマスの予定が埋まってしまうとは。
満面の笑みを浮かべる彼女に、俺はこれ以上何も言えなかった。
【筆者注】
暦は2025年の設定なのですが、第九公演が12/25に設定されるかは未来視できないので史実無視のフィクションとして進めます。




