第47話 ベートーヴェン/交響曲第六番『田園』
〜大河view〜
「大貴さんと優美さん、よく許してくれましたね」
花音さんが感心している。よく両親を説得できたものだなとは俺も思う。
「大河君は気付かなかったようだけど、実はあのとき君のお父様は近くまでクルマで見に来ていたんだよ。走り出してからもしばらく付いて来ていた」
「え!? 全然気付かなかったですよ!?」
「酷く落ち込んだ君の様子を遠目に見て、息子をお願いしますと仰っしゃられたよ。断られたらそのままお返ししようと思っていたんだけどね。いいお父様だね」
「…………」
全く、父さんには敵わないな……。
「それで先輩、それからどうなったんですか?」
「ああ、俺は師匠に導かれて、南へ向かって走り出したんだ」
**
真横を凄いスピードのタクシーがビュンビュンと駆け抜けていく。深夜の環八は、なかなかに治安が悪かった。
俺達はどこに向かって走っているのか聞いてみたが、おじさんは行けるとこまで行こうよとしか答えてくれなかった。
しばらく進んだところで、俺の前照灯が電池切れになった。
「どうしたんだい。ライトが点いてないじゃないか」
「ついさっき切れちゃって」
「予備は無いの?」
「無いですけど、このまま行けますよ」
「駄目だよ、無灯火は道交法違反なんだから。例え警察に捕まらなくても、私の目が黒いうちは許さないよ」
強めの口調で注意されて驚いてしまった。
俺はすぐに停めさせられた。
「私のライトを一本貸すから今すぐ付けなさい」
おじさんの車体に付いていたライトを押し付けられる。どうやらおじさんの自転車にはライトが前後とも二つずつ装備されていたようだ。
「なんで二つも持ってるんですか?」
「ブルベでは前後とも二つ以上付けるのがルールだから、いつも付けっ放しにしているんだよ」
ブルベというのがわからなかったので聞いてみた。
それは驚くほどの長距離を自転車で走るものだった。
おじさんは赤信号で止まるたびにブルベの話をしてくれた。
北海道を一周した話をしてくれた。
遠くにいたヒグマと目が合い必死で逃げたらしい。
沖縄本島を二周した話をしてくれた。
ヤンバルクイナには会えなかったらしい。
オーストラリアを千二百キロ走った話をしてくれた。
道行く先々でたくさんのカンガルーの死体に会ったらしい。
イギリスを千四百キロ走った話をしてくれた。
ほとんど雨続きで参加者全員がげっそりしていたらしい。
本当にそんなに走ったのかと信じがたい話ばかりだったが、おじさんの無尽蔵な体力がそれを証明していた。俺の父さんよりも間違いなく年上に見えるのに、そうとは思えないほどスピードが衰える気配はなく、俺は必死に追いすがった。
けれど慣れない長時間のサイクリングに悪戦苦闘した俺は、やがて所々で休憩を取らせてもらった。おじさんは文句の一つも言わずに付き合ってくれた。
せせらぎの音も聞こえない多摩川を越えた。
夜に眠るみなとみらいの街を駆けた。
夜も眠らない巨大な製油所が轟く根岸の工場地帯を突破した。
そして、俺達は八景島で朝を迎えた。
風は凪ぎ、空気の澄んだ穏やかな朝だった。
「今日はここまでかな」
こんなに走ったのはもちろん初めてだった。
「光は見つかったかい」
「光……」
遠くの海から顔を出す太陽の輝きが見える。
何の変哲もない、毎日のように繰り返し起きている日の出だ。
「あれが光ですか?」
「どうだろうね。君の瞳には何に見える?」
太陽はいつ見ても太陽だ。世界中のどこからでも見れる光の点でしかない。
それでも、今までの短い人生の中で五指に入る美しさだった。
「おじさんには何番目に美しい日の出に見えますか?」
「私かい? そうだねぇ。悪いけど、これはランク外かな。青森一周したときの最終盤に津軽半島で見た朝焼けにも、富士山のご来光にも及ばないな。中でも一番はケアンズの朝だった」
「それはどんな光でしたか?」
「特別な朝だった。朝になってすぐに皆既日食があったんだ。ケアンズの荒野で夜のうちから朝を待って、カノープスや南十字星と別れを告げて、たくさんの気球が浮かぶ空に朝日が登ったと思ったら、じわじわと食われていって、最大食の瞬間に辺りは再び真っ暗になるんだ。天にはコロナとプロミネンスを吐き出す黒い太陽が浮かび、天文写真家の無数のシャッター音が鳴り響き、ダイヤモンドリングと共に太陽が復活すると人々の歓声と溜息が大地を埋め尽くすんだ」
「それは、凄いですね」
「ああ、世界一美しい朝だった」
「そうですか……」
羨ましい。彼の世界は輝きに満ちている。
俺にも探し出せるだろうか。
自転車に乗れば辿り着けるのだろうか。
「じゃあそろそろ戻ろうか」
「えっ?」
ここでゴールじゃないの?
「なにを不思議そうな顔してるんだい? 来た道は当然戻るんだよ。登山と一緒だよ」
「俺、もう限界で……」
「本当に限界なら喋れないし立てないよ。さあお家に帰るまでがサイクリングだ。後半戦も頑張ろう」
俺はここに来てようやく、家を飛び出したことを後悔した。
ややあって、俺達が地元へ戻ってこれたのはもうすぐお昼時という頃だった。復路は往路よりずっと時間がかかった。
「完走おめでとう。走行距離は百三十キロぐらいかな」
「はあ……はぁ……」
そんなに長距離を走ったのか。間違いなく自己最長記録だ。
満身創痍の俺とは違って、おじさんはケロッとしていた。海外で何千キロも走ったという話は本当らしい。
「さあ早くお家へ戻ってご両親を安心させてあげなさい。ちゃんと謝るんだよ」
「はい、ちゃんと謝ります。あの、これ、ありがとうございました」
借りていたライトを返す。
「それはまだ持っていなさい」
「え?」
「それがないと、君はまた旅に出られないだろう? 無期限で貸してあげるよ」
貸してもらったライトは明るいのに一晩中バッテリーが切れることはなかった。きっと高級品だと思う。
「そんな、悪いですって」
「いいんだよ。ライトはたくさん持ってるんだ。君もまた走りたいだろう?」
こんな辛いこと、二度としたくない。
走っているときはそう言おうと思っていたのに、今は全く別の気分だった。
「また走りたいです」
達成感、征服感、爽快感、疲労感、非現実感。
新しい世界がここには有った。
「そうかい。それは嬉しいねぇ」
おじさんは穏やかに笑い、小さな紙切れを取り出した。
「これは私のツイッターアカウントだよ。困ったことがあったら相談してね」
おじさんは〈でん〉というアカウントを使っているようだ。
「はい、ありがとうございます。では俺はこれで」
「気をつけて。それじゃあ、またどこかの道で」
俺とおじさんはそこで別れた。
「またどこかの道で、か……」
粋な別れの挨拶だった。
暗く沈んでいた気持ちは、今は新しい世界への好奇心に満たされていた。
**
「おお!〈ハナネ〉ちゃんコミケぶりだなあ! 元気だったか? 髪を下ろしても可愛いなぁ! 今日はあたしを迎えに来てくれたのか?」
四百キロを走った直後なのにゼロ姐のテンションは馬鹿高かった。
「お疲れ様でした〈ゼロ〉さん。お久しぶりですね」
天然物の営業スマイルでゴール受付をする花音さん。本当に仲良くなっているらしい。頭が痛い。
「ドナ君もコミケぶり。二人並んで受付とか見せつけてくれんなぁおい」
さっそく弄ってくるのでスルーする。
「お久しぶりです。相変わらず余裕のゴールですね。道中あんなに飲み食いして」
「あたしのブルベはグルメ旅だからな!」
ゼロ姐は食うために走るを地で行く人だ。ちなみにこのタイプの人は珍しくない。
「時子さんはとっくにゴールして帰りましたよ」
「あいつはグルメしないだろ。あたしの顔を見るなり逃げるように飛ばしていきやがった。何時間だった?」
「時子さんは十七時間でしたね」
「やっぱ早えな。生意気な奴め」
ゼロ姐はセリフとは裏腹に笑っていた。
当の時子さんは俺の試走タイムに負けたと言って笑っていた。競走の概念がないブルベの雰囲気が俺は好きだった。
「で、ハナネちゃんは手伝いに呼ばれて来たのか?」
「いや、彼女は俺に用事があるんだよ」
そう言ったのは今俺がゴール受付をしているトミーさんだ。彼もゼロ姐とほぼ同時にゴールしてきた。
「ドナ君の社長にご挨拶って、もうそこまで進んだのか!? やるねえ!」
「ゼロ姐が何を言ってるのかわかりませんが、彼女の用事はスマトレのレンタルです」
「なんかこの子ら、学校で面白そうなことやるらしいぞ。学園祭で使うんだってよ」
「へぇ、今は学校でZフィット大会ってか。時代は変わるねぇ」
ゼロ姐が感慨深そうにしているが、こうなったのは時代云々ではなく花音さんの柔軟な発想と奴らの悪ノリのせいだと思う。
「それじゃあさっそくで悪いけど、〈ハナネ〉さんに約束していたことをお願いしようかな」
「はい、大丈夫です。すぐに準備しますね」
テキパキとゼロ姐のゴール受付を済ませた花音さんは、隅に置いていたヴァイオリンケースを引き寄せた。
トミーさんがスマトレのレンタルの条件として提示したのは、彼女のヴァイオリン演奏だったのだ。
「ここで弾いても大丈夫なんですよね?」
花音さんが師匠に確認を取る。
「大丈夫だよ。羽目を外さなければね」
「お! ハナネちゃんの生演奏聴けるのか! トミーさんファインプレーじゃんか!」
「俺も聴いてみたくてよ。あのドナ君が聴き惚れたっていうヴァイオリン」
彼女の演奏は〈ハナネ〉のアカウントでも視聴できるが、どれも四十秒未満の一発芸的なものだ。通しで一曲聴くには生で聴かせてもらうしかない。
「本当は決めていた曲があったんですけど、先輩のお師匠さんの素敵なお話を聞かせてもらったので、これに合わせて曲目を変えますね」
「なんでもいいよ。スマトレのレンタル代として納得のいく演奏ならね」
「あはは。それはプレッシャーですね」
言うほどプレッシャーを感じていなさそうにしながら、彼女は弓を構えた。
「では、始めます」
彼女を取り巻く空気が一変する。誰もが口をつぐみ、視線を一点に集める。
その視線を跳ね返すように、ヴァイオリンが唄い始めた。
ベートーヴェンの『田園』。
交響曲だが、ヴァイオリン独奏版のアレンジ曲のようだ。主旋律を華やかに紡ぎ、まるで花園の中にいるような心地良い音を咲かせていく。
どうしてこの曲なのだろう。師匠にどう関係があるんだ?
少し考えて、気がついた。
「なるほど。だから『田園』ね」
「ドナ君、どういう意味だ?」
トミーさんが小声で問うてくる。
「師匠の名前が園田だからですよ」
「園田……田園……なるほど。俺は好きだよそういうの」
意外にもお茶目というか、もはや親父ギャグなのだが、この場の皆は笑顔になった。
【筆者注】
ここで出すつもりだったキャラがいたのですが、ここだけのキャラになりそうなのと尺の都合で幻になりました。




